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「青木、あとは頼んだからな」
「やだ、無理」
「無理じゃねえよやれよ」
強がってみせるのは、早すぎる鼓動が青木に聞こえないようにするため。自分の手が宙を泳ぐのは、抱きしめ返したら傷を負いそうでためらったから。自転車のリアキャリアからなら手を伸ばせるのに、正面から立ち向かうほどの度胸はなかった。
瑞樹の体から、青木が離れていく。彼が間近にいても苦しいのに、離れてもやっぱり苦しい。どっちでも同じくらい苦しいのなら、今のまま親しい先輩後輩のままのほうがきっと、この先も傷つかない気がした。
「あとは頼んだって言うなら、俺のことちゃんと見てろよ」
「見てろったって……、おれ引退するじゃん」
「いいから、ちゃんと見てろ」
「強引すぎる」
青木の口ぶりが、どんな揶揄よりも一番心臓に悪かった。
青木はその後、引退した三年を引き継いで約束通り部活動に励んだ。一方で、瑞樹との交流も途絶えなかった。進路を美容専門学校に決めていた瑞樹は意外と自由で、青木とひんぱんに遊んでいた。
卒業式の日は、雲行きが怪しい天気だった。寒空の下で、瑞樹は青木と向き合う。
「先輩、美容師目指すんだったっけ」
「うん、四月から専門学校」
「そういや、なんで美容師?」
すこし考えた。きっかけは、些細なことだった。
「たぶん最初は、父方のばあちゃん。髪を梳いてあげたら気持ちいいって言ってくれて、次は姉ちゃんかな。うち、おれが小さいときに父親が亡くなってんだけど、母親が小学生のときに再婚してさ。姉ちゃんがふたりできて、そいつらがあれしろこれしろってやっかましくて、でも楽しかったから。そんでだと思う」
「へえ、はじめて聞いた」
「だって、改めて話すことでもないだろ。シボードーキとか恥ずいし」
「恥ずかしくねえよ、ほんとの話だろ? 嘘なら恥ずかしいけどさ」
「……うん」
こういうところだ。瑞樹が自分で狭める感情の範囲を、青木はひょいっと広げてくる。
「先輩、最初は遠慮とかした? 家族に」
瑞樹の家庭環境はめずらしくないにしろ、こういう話を聞く側は変に想像を働かせて身がまえたり過度な同情をしたりすることもある。けれど青木はちがった。変わらなかった。彼とは以前から、尋ねて答える、という対話が互いに成立しているみたいで、心地よかった。
「どうだったかなあ、最初はしたんじゃねえ? 覚えてないけど。でも家族なんてもとを正せば他人からのスタートだし、次の家族も他人同士だって不都合ないよ。めっちゃ仲いいし」
「やっぱかっけーっすね」
「なにそれ、ばかにしてんの?」
「ちがうって、まじまじ、大まじ」
「ノリが軽いわ」
瑞樹はほんのすこし顔をうつむけ、寂しさを隠すように笑った。
「先輩、俺教師目指すことにした」
あっけに取られ、顔を上げる。青木が成績優秀とは聞いていたが、素行がいいとは言い難かった。うぇーいな連中ともつるんでいるし、非モテでもない。それが教師ときて、あまりにも似合わないので訝しむ。
「嘘だろまじか。え、まじで?」
「どんだけ疑うんだよ。まじまじ、大まじ。先輩とバスケすんの楽しかったからさ、教師になって、バスケ部の顧問になるって決めた。だから俺に、がんばれって言ってよ」
「え、なん、なにそれ……」
そのとうとつさと理由に、瑞樹の口はぽかんと開く。
「だーかーら、先輩いなくなったら寂しいじゃん。思い出にしがみついてたいっていう俺のいじらしさがわかんねえかな」
気恥ずかしいのか嬉しいのか、あるいは切ないのか、わからないのに無性に湧き上がるものがあって、思わず声を出して笑ってしまった。
「はは、ははは! ウケる! ばかかおまえ!」
なんで理由がおれなの? バスケだけじゃなくて?
「えー、なんでよ」
「おまえさ、なんで卒業するおれががんばれって言うの。逆だろ逆」
「いいじゃんケチ」
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