雨をすぎれば

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「おかしいだろ、先輩卒業してもがんばってください、だろ」  卒業証書の筒で自分の肩をぽんぽん叩きながら話していると、またあしたも変わらず、ここで青木に会える気がしてならない。三月が過ぎれば四月で、瑞樹はまた三年に戻り、青木は一年。卒業式のエンドロールが永遠にこない、ずっと続く日々。 「先輩はさ、がんばるだろ」  ぽん。と軽い筒の間抜けな音がする。冬の冷気が抜け切れない空気の中に、その音だけが、きりりと浮かんで聞こえた。 「俺が言わなくても、がんばるひとだよ」  ――でも無理すんなよ、俺に心配させないでね。  青木は瑞樹を見下ろし、手を伸ばしたかと思ったら頭に落ちてくる。その手は瑞樹の髪を、ゆるやかになぞった。彼を見上げていることができなくなり、目をしばたかせる。 「最初にカットしてもらう客は俺なんで。何年後? 今から予約しとくわ」 「……おう」  ずるい、泣く、うそだ、エンドロールはやってきた、あしたはもう、会えない。おれは卒業するから。  青木が好きだ。あの瞬間から、あの肩の温度が、あの汗が、鮮やかに忘れられない。  ぽつ、と鼻の頭になにかが落ちる。 「祝福の雨だ」  空を見上げた青木がつぶやいた。  四月から瑞樹は専門学生、青木はまだ高校生のままだ。毎日のように会うことはなくなったが、互いに連絡は取り合ってしばらく交流は続いた。もちろん色っぽい内容などではなく、他愛のない話や、ときどき遊ぶ約束程度のもの。ただそれも、青木が大学に進学し、瑞樹が就職するまでのことだった。  時間の流れが、すこしずつ変化しはじめる。瑞樹には社会人一年目の洗礼が待っていて、青木には新しい人間関係とひとり暮らし。以前のようにしょっちゅう連絡は取ることはなくなった。  青木にはそのころ、おそらく恋人がいた。と、思う。  瑞樹が就職したのは何店舗も展開する大型店の本店で、長時間労働に加えて連日深夜まで続くレッスンが当たり前の店だった。極端に減った睡眠時間、昼食を摂る暇もなく、休日は週に一度あればいいほうで、休みがあったかと思えば強制参加の講習が入る。本店の安田店長だけはオーナーに抗議したが、オーナーはけっして首を縦に振らなかった。いわゆるブラック企業だと瑞樹が理解したのは、就職してからずいぶんあとのことだった。  直角で頭を下げることもベッドに転がった瞬間眠りに落ちることもとうぜんの日々が続き、精神的にも肉体的にも追い詰められていく一方で、青木と会ってくだらない話をしているときだけ瑞樹は救われていた。久々に予定のない休日に浮かれると、嬉々として青木にラインを入れた。 「あしたやっと休める。飲み行かねえ?」  彼からは即返信があった。 『ごめん、先約があって』  青木はいつも絵文字を使わないし、簡潔だ。ふだんやり取りする文面と変わらないし違和感などなかったのに、そこはかとないよそよそしさを感じ取る。彼女だ、となんの確証もないのに確信だけはあって、さっと体から引いた熱は腹の中で真っ黒な塊になった。  聞かなければいいし、いつもなら聞かなかった。けれどこの日はちがった。どうして? おれ以外のだれと? 頭の中ではきらびやかなステージで祝福を浴びる男女の姿が浮かんだ。自分は選ばれないのだ。この性別であるかぎり。それを知った。許せなかった。悔しかった。憎たらしかった。  この目で確認したいがための文字を、瑞樹は打っていた。 「彼女?」  既読はすぐについた。けれど返信はしばらくなく、連絡が来たのは二時間後だった。 『うん』  持っていたスマホを、フローリングに落とした。ごろん。床とぶつかった音は静かで、ほかに物音がない。テレビもつけていないし、部屋には自分ひとり。
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