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この二時間、青木はなにをしていたんだろう、彼女と一緒で、もしかしたらセックスしていたのかもしれない。おれを残して、おれをひとりにして、ひとりぼっちにして。
「……っ!」
テーブルに置いていた缶ビールも雑誌も思い切り手で払った。からん、とアルミの軽い音が響いたのは、瑞樹が飲み干していたからだ。よかった、こぼれなくて。頭の片隅は冷静で、いっそう泣きたくなった。
瑞樹の「今」は仕事ばかりだった。仕事に生きているなんて堂々としたものじゃなく、辞める覚悟がないだけだ。学生時代の口約束にかろうじて生かされていて、それさえも見通しが立たなくて危うい。なんで自分ばかり辛くてしんどくてひとりなんだ。青木にはほかのだれかがいるのに。あいつはおれをひとりにするのに。
『先輩元気? この間はごめん。また飲もうなー』
それからすこしして送られてきた青木の呑気な文面が許せなくて、返信はしなかった。自分から閉ざした。青木からも、連絡は来なくなった。
しばらくして、瑞樹は高熱を出した。欠勤は通じないので営業中は解熱剤で対処し、薬の効果が切れるとふらついた足もとを気力で正す。根性論ってほんとうに存在するんだな、と逆に清々しい。営業後のレッスンだけは安田店長が計らってくれ、閉店したらすぐに退勤できた。
冬間近で天候が悪く、冷たい雨がしとしと降りしきる中、ひとりでとぼとぼ歩いた。自宅アパートの部屋は寒かった。スニーカーが濡れ、靴下が濡れ、つま先は震え、背中から悪寒が立ち上るのがわかった。エアコンをつけて布団に潜りこんでも背中がぞうぞうして、薬飲まなきゃ、と思うのに飲むのは鼻水と涙だった。体が動かなかった。辛くて息苦しくて、この疲労と熱に、ずっと苛まれるんじゃないかと最悪な妄想が巡る。
こわい。この苦しみが、ずっと続いたらどうしよう。
青木に会いたかった。スマホを取り出し、ラインを眺めた。彼の最後の連絡は半年前だ。こんなに連絡を取らないのも会わないのもはじめてで、とてつもなくこわくなる。この先、二度と会えなかったら。
ぽかりと浮かぶラインの字面、風邪薬以上に苦い思い出、放置したままで来なくなった連絡、宙ぶらりんな気持ち。
思い出が澱になり、現状の苦しさと重なる。はなをすすり、止めどなく溢れる涙を飲む。自分から突き放したくせに、結局縋ろうとしていた。
もういやだ、つらい、たすけて、青木。
限界だった。
通話ボタンを押し、すこしの間待った。着信音が長く流れ、もう出ないのだと奈落の底に落ちた。また鼻を鳴らした。
『先輩?』
青木だった。ふたつ歳下の青木は、もう二十一歳になっているはずだ。すこし低い、瑞樹の好きな声だった。
「青木、あおき、しんどい、たすけて、もうやだ」
たすけて。
自然とこぼれ出た言葉と嗚咽は、瑞樹自身もなにをしゃべっているのか不明だ。
『……先輩今どこ? 家?』
うなずいたが言葉にはならない。沈黙になってしまう。
『わかった、すぐ行く』
スマホが落ちた。ごとん、とフローリングにぶつかった音が、耳鳴りみたいに残った。安堵したのか、意識が遠のいた。すん、と鼻を鳴らしたら、しょっぱかった。
インターホンをしつこく鳴らされ、玄関が打ち鳴らされ、覚醒する。慌てて起き上がって歩いたら、頭がふらついてたたらを踏む。それでも玄関を開け、立っている青木を見た瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れたみたいに崩れ落ちた。息をみだした青木はビニール袋を持っていて、その場にしゃがみこんだ瑞樹を支える。掴んだ青木のチノパンは、雨のせいか湿っていた。
「額あつ……」
ふたたびベッドに横たわる瑞樹の額を、青木は遠慮なく触れた。渇いていて冷たい手のひらの動きには抵抗する術を持たず、半年前のことなど、もうどうでもよくなる。来てくれたから、おれのところに。
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