雨をすぎれば

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「なんか食えそう? てきとうに買ってきたんだけど、うどんとかそういうの」  首を振る。ちょっと動かしても、頭が痛い。青木はベッド脇に腰かけ、息を吐く。 「なあ、そんなんなるまでがんばんなきゃいけねえの? もう辞めたら?」  また首を振る。すると青木は、深く息を吐きながら額に置いていた手を動かして頬を撫でる。冷たい手が、心地よかった。 「青木、おれ、もうすぐ約束守れるよ」 「約束?」 「スタイリストになる試験、今度あるんだけど、受かったら青木の髪、一番に切るって、約束」  覚えてる?  熱で気が緩んでいるのか、青木の手の甲に自分の手のひらを重ねる。手ぇあつ、と彼は言う。  覚えてるよ。青木はつぶやき、握った手の力を緩める。瑞樹はゆるりと握り返し、彼がどこにも行かないように祈った。熱とはおそろしい。もうろうとしているせいか、大胆な行動に出れるようだ。 「楽しみにしてるけど、あんたのこと心配もしてる。無自覚にがんばるひとだし」  気まずさをごまかす真似で、瑞樹は青木の手の甲に顔を埋めた。まるで酩酊しているみたいだ。行動的になれる自分がこわい。  けれど、急にただよってきた甘いにおいに、はっとする。金木犀のような、深く強調的な香り。何度も嗅ぎ直したが、嗅覚が狂っているのか結局わからなくなる。  顔を上げると、青木の指先が瑞樹の手の甲で遊んだ。過敏になった皮膚が、ぴりぴり騒ぎ立てた。 「まあいいや、早く寝ろ。俺はちゃんと、ここにいるから」  離された青木の手は、瑞樹の髪の毛を泳いだ。ぐしゃぐしゃに撫ぜ、最後はおだやかに触れ、布団をかけ直す。  うん、おやすみ。  そう言った声はかぎりなくちいさく、青木に届いたか不安なまま目を閉じた。また青木の皮膚から甘いにおいがする。くすんだ雨のにおいと混ざった強い香りが妙で、鼻の奥に残った。  金木犀のにおい、女のひとの気配がする。ふふ、ざまみろ。  ウィルスが胸にまで忍び寄る息苦しさを感じたのに、猛烈な優越感が勝った。青木は慌てていた。息をみだしていた。崩れ落ちた瑞樹を支えた。雨に濡れることもかまわず、ここに来た。瑞樹のもとに。  あのときとはちがう。おれは選ばれた。おれが勝った。これが恵みの雨なのか、あるいは体を震わす冷雨なのか。どちらでもよかった。今青木がいるのは、おれの傍だから。  それから瑞樹はスタイリストに昇格し、ほんとうに彼は、一番のお客さんになった。 「おめでとう先輩。もう心配させんなよ」  青木の、観念したような台詞と満面の笑みが、幸せだった。虹彩がまぶしかったのは、この日が快晴だったからかもしれない。  一年半後、瑞樹は店を辞めた。安田店長に誘われたからだ。 「一緒に店やらん?」  短い休憩時間にコンビニに行こうと裏口から出たときだった。煙草を吸っていた彼から、まるでカラオケに誘うくらいのなにげなさで引き抜かれた。  ぽつり、水滴が落ちてくる。視線だけで空を見ると、分厚い雲が覆う灰色の空から雨が降ってきたのがわかった。 「はい。そうします」  瑞樹は自然と頷いていた。瞼や鼻先に当たる冷たい雨に、いとわしさも感じなかった。  ――祝福の雨だ。  青木の声が、聞こえた気がした。  店長はすでに新しい店の手はずを整えていたようで、三ヶ月後にはオープンした。店名の「miu」は、美しい雨、から取ったと店長は最初かっこいいことを言っていたが、よくよく聞いてみたら坂本美雨のラジオの声が好きだという至極単純な理由だった。  それはさて置き、miuに来た瑞樹の最初のお客さんも、やっぱり青木だった。 「先輩、来たよー」  この日も癖毛を手入れせず彼はやって来た。席に案内すると、青木は言う。 「よかったじゃん、先輩」  安堵したように微笑む青木の髪に触れながら、どうしても青木を忘れられない自分に呪詛を放った。  好き、好き、好き。ほんとうは友達よりも恋人がいい、でも友達がいい、思いを告げるなんてもってのほか、嫌われるリスクを背負うのもいやだし金木犀の女みたいに放置されるのはぜったいにいやだ、このポジションにいるかぎりおれは、ずっと青木に大切にしてもらえる。  おれの好意は、ずっと濡れそぼっている。
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