雨をすぎれば

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 赤、青、緑、桃、黄。  きらびやかなネオンの光が瞼に滲みて痛い。夜の中に溶けることをしない身勝手な強さは、ときどき羨ましくなる。  鼻頭になにやらぽつんと落ちてきて、瑞樹はまばたきをひとつした。視線を持ち上げると視界がとつぜんぼやけ、変装用の眼鏡についた水滴だとわかった。雨だ。  ずれた眼鏡を持ち上げ、しっかりつけているはずの不織布マスクを確認するように触れ、ニットキャップを目深にかぶり直す。 「じゃあ」  と、互いに言い合って背を向けた。ラブホテルの前で名残惜しさなど微塵もない挨拶を交わし、この日はこれで終了。きょうのマッチングアプリの相手はまあまあだった。可もなく不可もなし、青木がこんな腕前だったら嫌だなあ。失礼にもほどがある妄想をしながら偽名さんに抱かれたのは、つい三十分ほど前のことだ。  さて、雨が強くなる前に帰らないと。雨音がコンクリートを打ち鳴らすより先に、瑞樹は早足で繁華街を抜けた。セックスのあとの気だるさもやり切れなさも、雨がかき消してくれたらいいのに。高校卒業からもう十年。祝福の雨はもう、瑞樹の上には降らない。あのころのきれいごとは、とっくに通りすぎたあとだった。  瑞樹が高校三年のとき、青木一哉は一年でバスケ部の新入部員だった。ポジションがPGの瑞樹とSGの彼は練習中でも関わることが多く、部活の前後も会話を交わすことが多々あった。  青木は弱小バスケ部にはなかなか現れない貴重なセンスの持ち主で、入部当時から部員たちを圧倒した。けれど、傲慢さもスタンドプレーも一切なく、部員内でバカ話をすればほどよい距離感で笑う幼さもあった。じゃあ隙だらけかと問われたらそうでもない。瞳は渇いた印象が強く、浮ついた表情を見せないのが一線を引かれているようで、瑞樹はすこしこわかった。  瑞樹はその日、部活帰りにコンビニに立ち寄った。立夏より前の夜は微妙に肌寒く、部活中は汗だくになるのに部活を終えて外に出るとじょじょに冷えた。学ランを羽織るのもちゅうちょする気温で、調節するのが難儀になる。  どん、と肩に衝撃を食らう。なにかにぶつかったのかあるいはぶつけられたのか、一瞬わからなかった。  愛羅武勇着たゴリラが動物園から脱走……。  いやちがった。人間だった。コンビニを出たところで、さほど身長が高くない瑞樹が見上げた先にはゴリラ否ガタイのよすぎる男性が瑞樹を見下ろしている。上から下までねぶるような生ぬるい視線には、期待を裏切らない下品な品定めが滲み出ていた。 「どこ見てんだよチビ!」  おまえがぶつかってきたんだろうがゴリラ死ぬかと思ったわ! と胸ぐらを掴んで揺さぶったのち逆エビかましてやりたい。  だいたいてめえおれに勝てそうだから絡んでるだろ死刑決定、と即座に判決をくだすが、男のご機嫌取りにつき合っている暇もない。なぜなら瑞樹が持つビニール袋にはお気に入りのジャンボモナカが入っている。 「すみません見てませんでした。そんじゃおれはこれで」 「待てこらてめえ。最悪だよ、オレの一張羅が汚れたじゃねえかどうすんだ」  一張羅ておまえ、そのだっせー愛羅武勇の刺繍入りのスカジャンが? それ自体が汚れだろ、天下一武道会でマジュニアに一発退場されられるか安パイで動物園に戻るか選べ。  とはとても言えないので、小声でつぶやいてみる。「ジャイアンめ」 「ああ? 今なんつったガキ!」  もうめんどくさい。ジャンボモナカが溶けたらどうする。電車待ちの間に食いたかったのに。深く息を吐いたところで、「先輩?」と聞こえてびくりとした。 「先輩なにやってんの?」  ばっと振り向くと、自転車を引いた青木が近づいてきた。げ、げ、げ。心の中でこんなに「げ」を連発したのははじめてで、ぎょっとして肩が揺れる。 「青木おまえこっち来んな! 離れてろ」
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