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「爺ちゃんだいぶボケてるから、あんたのこと分からんくても怒らんといてよ?
違う人の名前で呼んだりするけど、ごめんしたってや」
病室に入る前に、母は私に念を押した。
「入院している斎藤 徳治の嫁と孫です」と中年の看護師に伝えると、「あぁ、徳治さんね」と応じて、名簿を出してきてそこに私たちの名前と時間を書き込んだ。
名簿と一緒に渡された注意事項を読んでサインを書くと、意外と簡単に中に入れた。
「一時は全然中にも入れなかったんやけど、緩くなってよかったね」と言いながら、自分の家でも案内するように母は私の前を歩いた。
初見殺しな真っ白い壁の続く病院の中は、消毒液や苦い薬品の臭いが染みついている。
こりゃ、一人じゃ、受付まで戻ることもできないだろう。
私と同じく方向音痴の母が間違えずに爺ちゃんの病室に行けるのは、毎日のように爺ちゃんの世話をしてくれていたからだろう。爺ちゃんが大事にされている気がして、私は素直に母に感謝した。
爺ちゃんの病室は個室になっていた。まあまあいい保険に入っていたらしい。
まあ、爺ちゃん土地持ちだったし、ホームに入れるほど金はあったしな…
「VIPやろ?」とふざけるように苦笑いしながら、母は病室をノックして扉を開けた。
「お義理父さん、お義理父さん、来たで」
母の呼びかけに、一枚のカーテンの向こう側から、病室のベッドの上で人の動く気配がした。
「…だれや?」ともごもごとした誰何が返ってきた。
ぼそぼそしたぼやけた声だが、確かに祖父の声だった。もっと張りのある声だったのに、その声が現実を見せつけてくる。
母がベッドに近寄って、カーテンに手をかけた。
「達夫の嫁の真由美です」と慣れたように自己紹介をして、「今日はお客さんやで」と言ってカーテンを引いた。
隠れていた病床が私から見えるようになる。
その姿は衝撃的だった。
私の知っていた爺ちゃんの見る影もなく、お手本のような痩せた老人になっていた。枯れた腕には点滴がつながれていて、鼻にはチューブがつながれている。ベッドの脇には、ドラマなんかで見る、波打つモニターがあった。
何でもっと早く会いに来なかったのかと、後悔が押し寄せて、お土産に持ってきた花束を握った。
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