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「…あんた」
半開きだった爺ちゃんの口が動いた。
色の薄くなった瞳は私を見ていた。
驚いたような顔が、くしゃっと歪む笑顔に変わった。
「来てくれたんか、田鶴子さん…」
「…え?」今、誰って?
祖父の思いがけない言葉に、母と顔を見合わせて、ベッドに近寄った。
私を目で追いながら、祖父は、どこか恥ずかしそうにはにかんで笑っていた。祖父は私に別の誰かを重ねていた…
「神奈川からよう来てくれたなぁ…おおきにな」
その言葉で、祖父が見ている人物が、私が小学校の頃に亡くなった祖母だと知った。
子供のころ、祖母から祖父とのなれそめを聞いていたからだ…
『美咲だよ、お爺ちゃん』と言うのは簡単だったが、祖父の目を見て、祖父の幻を否定する気にはならなかった。
「ひさしぶりだね、気分はどう?」と、出かかった関西弁を飲み込んで、標準語で語りかけた。
私の反応に、祖父は嬉しそうに笑った。
「田鶴子さんに会えたから元気やで」と強がる祖父の目はキラキラしていた。
恋してるみたいな目で病床から私を見上げて、祖父は照れくさそうに笑っていた。その姿はまるで少年みたいだ。
私が突然違う誰かのふりを始めたのを、母は驚いた様子で見ていたが、すぐにそれが誰なのか飲み込めたようだ。
おしゃべりな母が、邪魔にならないように、こっそりと部屋の隅に寄った。
「田鶴子さん、汽車できたんか?大変やったやろ?」
「そうだよ。徳治さんが入院してるって聞いたから来たんだよ。椅子が硬くて腰が痛くなっちゃった」
「ははは、おおきにな」かすれた声で笑う祖父は嬉しそうだ。
とっくの昔に汽車なんてなくなってる。私が乗ってきたのは新幹線と電車だ。椅子だって、今は腰が痛くなるようなものではない。
それでも、祖母から聞いた話を思い出しながら、祖父の話に合わせて、私は《美咲》を隠して、《田鶴子》を演じた。
もう、祖父は長くないから、この演技が祖父を喜ばせるものなら、《美咲》でお別れできなくても良い気がした。
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