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一週間前に、突きつけられた『離婚届』がフラッシュバックし、手を止めて明けの金星を睨みあげた。
しばしそうしてから、自分が急いでいたことを思い出し、肥料を土に混ぜる作業に再び集中する。
「ミユキさん、朝から精が出ますねえ」
まだ陽も昇りきる前、人の声と気配にビクリと驚き、顔をあげる。
愛犬のチワワを抱き上げた隣の奥さんが、垣根越しに微笑んでいた。
いつからそこにいたのだろうか?
農作業用帽子の花柄つばを引き下げて、マスク姿で喉を押さえながら、声が出せないことをアピールし一礼をすると。
「まあ、お風邪? 季節の変わり目ですし、お大事になさって下さいね」
ありがとうと口にできない私は、御礼にと生えていた葱を引っこ抜き、数本手渡そうとして、彼女に不思議な顔をされた。
ドクン、血液が勢いよく身体中を駆け巡る。
もしかして普段とは違う、どこかおかしなところがあったのだろうか?
たとえば、この奥さんは、葱が苦手だった、とか。
猛スピードで走り出した心臓の音や噴き出してきた汗に、気づかれませんようにと祈る。
「やっぱりそうよね」
「え?」
とっさに出てしまった声を慌ててかき消すように、ガサガサと枯れた豆の蔓をへし折る。
「スーパーで売ってるのよりよりもミユキさんの作る葱は、太くて美味しいのよね。肥料がいいんだわ、きっと。今度私にも作り方教えてくださいな、自家製だとおっしゃってましたでしょ」
鈴木さんが指をさした先には、半分ほど空になった肥料が入っていた麻袋。
ペコリと伏し目がちで頷くと、彼女が抱いていたチワワが、私を見てウーッと唸りだす。
「あらあら、なんで吠えるの。いつもはミユキさんに尻尾振ってるくせに。はいはい、そうね、散歩に行きたいのね」
それじゃあと出かけていく鈴木さんを見送った後、残りの肥料を念入りに、念入りに土に混ぜ込む。
昇ってきた朝陽が、肥料の中の何かに反射する。
「こんなところに」
拾い上げたのは自分のよりもワンサイズ小さい結婚指輪。
それを無造作にポケットに入れて、また肥料に土をかけて家に戻る。
玄関に飾られている、十日前に会社から貰った定年退職の表彰状を見上げながら。
「おい、鈴木さんのとこのチワワ、なんて名前だったっけか? また吠えられたぞ、腹が立つ」
なんの返事もない、まるで独り言のような俺の声だけが玄関先で響き渡る。
静まり返った空間に『ああ、そうだ、本当に独り言だった』と思い出し、ほくそ笑む。
四十年もの癖だから仕方ないにしろ、油断した時に出る自分の言葉遣いにも、まだまだだな、と苦笑する。
まったく、四十年も連れ添ってやったというのに。
「さてと、ご飯にしましょうか、お父さん。なーんて、そうだそうだ、こんな感じだな、うん」
玄関脇の鏡に映る自分、ピンク色の帽子を脱ぎ、マスクを取るとまた薄っすらとヒゲが生え始めていた。
はずしたマスクには汗で落ちたファンデーションと口紅が付着している。
「今度は話しかけてみようかしら? 案外バレないんじゃない? ねえ」
ガサガサとしわがれた声は、聴こえようによっては、アイツが風邪をひいた声にも思えるかもしれない。
俺の独り言を拾う玄関に置かれた肥料袋からは、汁が出始めていた。
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