不安の蛹

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 六道と別れ、菖蒲は一人花束を持って川原に佇んでいた。  未谷とは仕事で知り合ったというただそれだけの関係で、葬儀に参列することもないし、どこの墓地に埋葬されるかも知らない。それほど近しいわけではなかったのだから、それでよいと思うのだが、それでもせめて、と思い花束を買った。このようなとき、どのような花を供えるのが正しいのかは知らないが、明るい色の方が何とはなしに彼らしいように思えて、黄色やオレンジ色の花を川原に供えた。  やるべきことも終わったと踵を返せば、同じように花を持った菊子が目に入った。菊子と目が合い、菖蒲は咄嗟に会釈をする。菊子もまた深々と頭を下げた。  菊子は今にも風に吹き飛ばされてしまいそうな頼りない足取りで川へと近寄った。青白い腕を伸ばして白い花を手向けている姿は悲愴なもので、菖蒲は彼女が可哀想に思えた。  菊子はしばらく(うずくま)ったまま微動だにもしなかった。心配になって遠巻きに眺めていれば、彼女がはらはらと涙を流しているのが目に入る。菖蒲は今度こそ本当にこの母親が哀れになって、リュックからポケットティッシュを取り出した。 「あの、よかったらどうぞ」  菊子が弾かれたように顔を上げる。人の泣き顔をまじまじと見るのは無神経に思えて、菖蒲は目を少しだけ伏せてポケットティッシュを差し出した。菊子は何度か大きく瞬きをした後に、頭を下げてそれを受け取った。  目前の川は悠々と流れている。菊子はその様子を見ながら声も出さずに涙を流し続けた。  菖蒲は厚意がお節介にならずに済んだことを安心していたが、やがてこの場をどう離れたものか悩ましくなった。菊子がこちらを気にする様子もないので、黙って帰ろうかとも考えたが、やはり何も言わずに去るのも礼を欠いているように思えて、菖蒲もまた無言で川を眺めることになった。 「あの方、自殺されたのだと聞きました」  長い沈黙の後に、菊子が小さな声で呟いた。風に紛れてしまいそうなか細い声で独り言のように呟くものだから、菖蒲は返事をしてよいものか戸惑う。 「未谷さんのことですか」  結局、菖蒲も小さな声で返答した。菊子は頷くでもなく首を振るでもなく、ただただ川を見つめていた。 「そう、そのようなお名前でした。随分とこの村について気になっておられたようで、うちにもいらっしゃいました」 「……そうなんですか」 「お二人には義母(はは)がご迷惑をおかけしてすみません。決して悪い人ではないのです。家を守ることに必死なだけなんです。夫も家を去って、日向もおらんなった今、縋ることのできるものが信仰しかないんです」  菊子が機械仕掛けの人形のように淡々と語るので、菖蒲は段々と薄気味悪い気分になった。 「あの、こんなことを部外者の僕が言うのは余計なお世話だと思うんですが、お義母(かあ)様と少し距離を置かれた方がいいと思いますよ」  普段の自分ならば思っていても絶対に言わなかっただろう。それでも口にしてしまったのは、この期に及んであの義母を庇う菊子が恐ろしかったからだ。このまま放っておけば、この人が信仰と家族の名のもとに不幸になる予感がしたのである。  菊子はガラス玉のような目で菖蒲をじっと見た。口を噤んだまま、(まじろ)ぎもせずにこちらを見るので、ついに寒気を感じる。 「……すみません。ただあなたが謝ることではないと思って……」 「私もいけなかったんです」  菊子は視線を落として、自分が供えた花を見た。 「私が全部悪かったんです」 「詳しい事情はわかりませんけど、誰か一人が悪いなんてこと、そうそうないと思います」  こんな言葉は何の慰めにもならない。それは菖蒲も理解していた。彼女の悲しみを肩代わりすることなどできないし、それを何の責任も取れない第三者である自分がしようとするのはあまりに傲慢だ。  これ以上、今の自分ができることは何もないように思えて、菖蒲は頭を下げてその場を立ち去ろうとした。 「あの」  菊子はしな垂れた柳が風に吹かれるように立ち上がった。 「お話したいことがあるんです」 「僕にですか?」  思わぬ申し出に菖蒲は目を丸くした。 「午乃さんのお宅にありました神棚について調べていらっしゃったんですよね。もう一人の職員さんからはそうお伺いしました」 「ああ……ええ、まあ、調べていたというか……」  未谷は神棚を隠していた理由にこだわっていたので、川平家に尋ねに行ったのだろう。菖蒲自身はそこまで興味があったわけではないが、いろいろあった今、気にならないと言えば嘘になっていた。 「これから家に戻るのですけど、よければいらっしゃいませんか」  正直に言えば、川平家に足を踏み入れたくないのは確かである。菊子の義母が家にいたとしたら、トラブルに発展するのは目に見えていた。 「あの、義母(はは)は今、家におりませんので」  菖蒲の心を見透かしたように菊子が言う。退路を塞がれてしまい、菖蒲は困惑した。ここで断るのも菊子の親切を無駄にしてしまうように思えて気が咎める。玄関先で少し話を聞いたら帰ろう、そう思い直して菖蒲は首を縦に振った。菊子が少しだけ目を細めた——そのような気がした。  川平家までの道中、菊子は一切喋ることなく菖蒲の前を歩いた。短い時間ではあったが酷く居心地の悪い時間で、菖蒲はすっかり気が滅入ってしまう。 「どうぞ、お上がりください」  よく手入れされた庭を抜けて、菖蒲は屋敷と呼んで差し支えのない家の門をくぐった。菊子がスリッパを揃えて目前に置くので、玄関で話を聞く雰囲気ではなくなってしまう。 「そんな……あの、僕はここで大丈夫なので」  消え入りそうな声で菖蒲は遠慮したが、菊子がしゃがんだ姿勢のまま上目遣いでこちらをじっと見るものだから、菖蒲は段々と悪いことをしている気分になる。 「すみません、お邪魔します」  罪悪感に耐えられず、深々と頭を下げて菖蒲は式台に足を乗せた。息が詰まるような重苦しさを感じながら、しずしずと歩く菊子の後に続く。菊子は客間の前でピタリと止まると、厳かに襖を開けた。袖口から覗く彼女の折れてしまいそうな細腕に、菖蒲は目眩のするような感覚に襲われる。 「こちらでお座りなってお待ちください。お茶を淹れて参ります」  菊子はそう言うと、襖を静かに閉めて去っていった。菖蒲は座る気にもなれず、畳の上で所在なさげに佇む。菊子にも、この家にも自分は歓迎されていない。いや、拒絶されているとすら感じる。やはり玄関先で帰るべきだったのだ。しかし今更もう遅い。  ふと締めきられた障子が目に入る。障子を開けた先は縁側になっており、中庭の景色が見られるようになっていた。息の詰まるような感覚に、せめて外の景色を見たいと思い、菖蒲は音を立てないようにそろそろと障子を開ける。 「えっ?」  中庭では尽が庭木の背後からこちらを覗いていた。菖蒲も驚いたが、尽はそれ以上に驚いたようで、野生動物のように飛び上がり中庭を駆けていく。咄嗟のことに菖蒲は呆気に取られていたが、廊下から足音が聞こえたので急いで障子を閉めると、何事もなかったかのように座布団へ腰を下ろした。 「お待たせしてすみません」  菊子は抑揚のない平坦な声色と共に、湯呑みを差し出した。湯呑みは菖蒲一人分のようで、これから話をしようというのに、とてもそのような雰囲気には思えず、菖蒲は身を固くした。菊子はただ一言「どうぞ」と言うだけで、お盆を持ったまま畳に座った。 「すみません、いただきます」  何とか緊張を抑えつけようと、お茶を口に含む。深緑をしたお茶は想像よりも苦くて渋く、思わず顔を顰めそうになった。吐き出すわけにもいかず、菖蒲はどうにか堪えて嚥下する。菊子は先ほどより幾分か晴れやかな顔で菖蒲を見つめていた。 「お茶、ありがとうございました。それでお話があるとのことでしたが」 「あの神棚は常世神を祀るための祭壇です」  単刀直入な物言いに少々面食らう。菊子は菖蒲の様子を窺うこともなく粛々と話し続けた。 「この村は遠い昔から常世神を信仰してきました。富と寿命をお与えになる神を。けれども鉱山が発見され、この地は発展と共に人が増え、やがて神を忘れてしまった。もうこの村で本当の神を知る者はほとんどいません」 「すみません、おっしゃっている意味がよく……本当の神とはどういうことですか? 常世神の正体は青虫なんじゃ……」 「それは……貴方のその目でご覧になってみてください」 「えっと、それはどういう——」  ぐらり、と視界が揺らぐのがわかった。瞼がやけに重い。座っていることすらできず、菖蒲は畳の上に倒れ込んだ。 「儀式の準備ができました。お義母(かあ)様」  菊子の声が遠くに聞こえる。菖蒲の意識は薄れ、やがてゆっくりと目を閉じた。
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