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どこからか声が聞こえる。
——眠い。
もう少しだけ寝かせておいてくれ。自分のことなど放っておいてくれ。そう口にしようとしても、体がいやに重くて言うことを聞かない。何かを必死に叩く音が酷く不快に思えた。
「大丈夫ですか」
突然鮮明に聞こえた声に菖蒲は驚いて目を覚ました。座席にもたれかかったまま意識を失っていたらしい。運転席側の窓ガラスを叩いている人影を見て、菖蒲は慌てて窓を開けた。
「大丈夫ですか」
「あ、えっと、すみません。急に車が壊れて、それで——」
窓越しにこちらを覗き込んでいたのは、先日見かけた長髪の刑事であった。確か六道という刑事だ、と菖蒲は霞がかった頭の中で必死に思い出す。
菖蒲は怪訝そうな顔でこちらを見る六道に何があったかを懸命に説明したが、内容はいまいち要領を得なかった。
「車が故障した? 何だろう。エンストかな。ところで酷い汗だけれど、体調は大丈夫ですか?」
「僕は大丈夫なんですけど、車が……」
「車ね、うん。市役所の職員さんでしたよね? 職場に電話して、どう対応したらいいか聞けます? 僕は発炎筒を置いてきますから」
六道は窓から手を伸ばし、車のロックを解除する。それから助手席の下にあった発炎筒を取り出すと、振り向くことなくその場を離れていった。
菖蒲は口を半開きにして無駄のないその動きを見守っていたが、六道の言葉を思い出して急ぎ職場に電話をかける。しばらくして菖蒲がロードサービスへの連絡を終えると、六道が車へと戻ってくる姿が見えた。
「連絡できました?」
「あ、はい。ご迷惑をおかけしました」
「後続車が来たら危ないので、ひとまず車を降りましょう。立てそうです?」
菖蒲は頷いて車から降りる。座ったままだったせいか立ち眩みを起こしてよろめいたが、六道に素早く体を支えられた。
——意外と親切な人だな。
菖蒲はそのようなことを考えながら、「すみません」とその腕に掴まる。六道は自身よりずっと長身であったが、掴まった腕は不健康なまでに細かった。
「業者の方に来ていただけるそうなのでもう大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「幸い車通りの少ない道でしたからね。事故にならなくて良かった」
「お仕事中でしたよね。僕はもう大丈夫ですから、どうぞお仕事に戻ってください。ご親切にありがとうございました」
「大丈夫とは言うけれど、顔色が悪いですよ」
早口で捲し立てる菖蒲に六道はずいと顔を寄せた。間近で見る六道の顔は人形のように整っていたが、どこか生気がなかった。じっとりとした縞瑪瑙の目で覗かれ、菖蒲は痛くもない腹を探られるような居心地の悪さを感じる。そっと視線を外せば、六道は「ほら」と吐息混じりに囁いた。
「この間も倒れていましたし。ロードサービスが来るまで一緒に待ちますよ」
この間とは事件の日のことを指しているのだろう。菖蒲は言い返すこともできず、口をもごもごとさせながら俯いた。
「そういえば帰りはどうするんです?」
「帰り?」
何も考えていなかった、と菖蒲は腕を組んだ。ダムから市役所までは車で二十分ほどかかる。徒歩で帰るには少し足踏みしてしまう距離であるが、村まで戻るにしてもすでに三十分ほど走ってしまっていた。
「タクシー……って呼んだら来ますかね」
「さて、空車があれば来てくれるかもしれませんが、もうじき雨が降るらしいですから、呼ぶのなら早く呼んだ方がよいのでは?」
「そうですよね……」
勤務中にタクシーを利用してもよいものだろうか。領収書をもらえば問題ないのだろうか。それとも自費で帰るべきか。
菖蒲はため息をつく。酷く疲れきっていて、考えがまとまらない。スマートフォンを握りしめたまま呆然としていると、六道がポケットをガサガサと探っている音が聞こえた。
「あった」
六道はそう言うと、透明の包み紙に包まれた琥珀色の飴を菖蒲に差し出した。
「よかったらどうぞ」
「えっ、ああ、ありがとうございます……」
「聞き込みしていたら何個かもらったんです。おいしかったですよ。何味かはよくわからないけれど」
「何でしょう。見た目はべっこう飴みたいですけど」
菖蒲は包み紙から飴を取り出すと、ひょいと口に放り込んだ。
「仕事中にお菓子食べちゃったな……」
「飴一粒で仕事に影響なんかありませんよ。それより足がないなら僕の車に乗ります? どうせこれから葦船警察署まで行く予定だったので。市役所と警察署って、そこまで遠くはありませんでしたよね」
「歩いて五分ほどだったと思いますけど……でも、いいんですか? レッカー車が来るまでまだ時間もありますし、お忙しいんじゃ……」
「本当のことを言うと、少し休憩したい気分なんです。だから素直に助けられてくれると僕が助かります」
はっきりと言い切った六道に菖蒲は面食らう。帰る方法はきっと他にもあるのだろうが、ここは素直に六道の言葉に甘えることにした。これ以上自ら考えて行動するのが億劫であったし、何より六道という人間に興味が湧いたのである。もう少しこの人と話がしてみたかった。
「それじゃあ乗せていただいてもいいですか?」
六道は「もちろん」と狐のように目をキュッと細めた。おそらく笑ったのだろう。しかし笑顔というにはあまりに目の奥が笑っていなかった。作り物のような笑顔に少し居心地が悪くなる。
それでも六道が車の後処理を終えるまで待っていてくれたのは事実だった。レッカーされていく公用車の後ろ姿を見守っていると、ちょうど小雨がぱらつき始めたので、菖蒲は六道に促されるまま車に乗り込んだ。何となく助手席に乗るのは憚られて後部座席に座ったが、六道がそれを気にする様子はなかった。
「本降りになる前に片付いて良かった」
「ええ、ありがとうございました」
ルームミラー越しに六道と目が合い、気まずさから視線を外す。揺れる彼の後ろ髪が目に入って、菖蒲は何気なく口を開いた。
「髪が長いとクレームつけられること、ありません?」
「クレーム?」
「あ、いや、僕も前に髪を黒染めしろって言われたことがあって。元々の地毛が茶色なんですけどね。公務員って外見に厳しいじゃないですか」
随分と言い訳がましい聞き方に自分でも辟易する。好奇心から彼が髪を伸ばしている理由を聞いているのにもかかわらず、その浅ましさを隠そうと取り繕っている姿が酷く醜く思えた。
菖蒲が一人で俯いていると、六道はふ、と口元を緩める。
「男の僕が髪を伸ばしているのが気になります?」
「え……? ああ、いや、すごく似合ってると思います、はい」
「似合ってる? ハハ、それは良かった」
「……その、他人の視線が気になりませんか? 正直言って僕は初めて刑事さんみたいな人を見ました。今のご時世、男が髪を伸ばすのも化粧するのも珍しくないとはいいますけど、公務員はそういうわけにもいかないじゃないですか」
「僕もよく切れって言われますよ。上司から指摘されることもあれば、職員さんが言うように市民から不審に思われることもあるし」
「……嫌じゃありませんか? 疲れるというか。自分が折れる方が早いじゃないですか。僕は諦めて黒染めしちゃいました」
「うん、別に平気ですね」
「そう……ですか。刑事さんは強いんですね」
「強い? 僕が?」
「そういう自分の意志を貫くって、難しいことじゃないですか」
「どうかな。別に僕はこだわりとか明確な意志があって髪を伸ばしているわけではないから。強いと言われると少し違うかもしれませんね」
「それじゃあ、どうして……」
六道は少し黙って、それから唇を三日月のようにつりあげた。
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