不安の蛹

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「ところで刑事さん、みかんいりませんか?」  菖蒲は手に提げていたビニール袋を持ち上げる。六道はきょとんとした表情でスマートフォンから顔を上げた。 「は? みかん?」 「行きしなに農家のおばあさんからいただいたんですよ。いっぱいもらっちゃったんですけど、うちはもう少ししたら親戚からみかんが箱で送られてくるので……」 「それでわざわざ僕に? 職場の方にでも分けて差し上げればよいのでは?」 「刑事さんがもらってくれた方が都合がいいんです。あっ、ひょっとしてみかんが嫌いとか?」 「別に嫌いではないけれど……ひとまずもらっておこうかな。ありがとう」 「どういたしまして。刑事さん、袋持ってます?」 「僕は仕事しにここに来ているのであって、みかんをもらいに来たわけではないからね」 「じゃあこの袋あげますね」  菖蒲はリュックのポケットから買い物袋を取り出すと、みかんをそこに詰めていった。そしてビニール袋を六道に差し出す。 「君、少し変わっていると言われません? 僕が言うのも何ですがね」 「えっ? そうですかね。それは……すみません」 「いえ別に。見ている分には面白くて良いですよ」  六道も少なからず変わっているので、この人の前では必要以上に取り繕う必要がないと思っていたのが表に出ていたらしい。菖蒲は顔を赤くして縮こまっていたが、やがて思い出したように突然声をあげた。 「どうしたんです?」 「みかんをくれた農家さんからいろいろお話を聞きまして、川平家がどういった家なのか少しわかったんです」 「やはり呪いと言われたのが気にかかります?」 「気にならないと言ったら嘘になりますね。案の定と言いますか、川平家が中心となって祭事を行っていたみたいです。歴史のあるお家なのは間違いないんでしょうね。そのせいかこのご時世に跡取り問題まで起きていたみたいで」 「川平日向が養子だったという話ですか」 「やっぱり刑事さんは知ってましたか」 「それが理由で川平菊子が犯人なのではないかと疑いの声があがっていたくらいですからね。しかし彼女が息子を大切に育てていた様子は、多くの人が知るところのようでした。実際、遺体からは虐待の跡も見られなかった」 「すごい話ですよね。僕は浮気相手との子どもを育てるなんて割り切れないですよ」 「なかなか酷な話ですよ、本当に。夫の川平浩司も息子を連れてきた二年後には行方を(くら)ましているわけですからね」 「息子を放って浮気相手のところに逃げたんでしょう? 酷い奴ですよ、まったく」 「それが、そうではないようです」 「あれ? そうなんですか」 「近所の住民の間ではそのような話になっているらしいんですがね、実際のところ川平浩司は浮気相手——これが彼と同じ職場の女性社員だったのですが——彼女とは同棲もしていないようです」 「そんなことまでよくわかりましたね」 「そのお相手というのが障害者雇用の枠で職場にお勤めしている方でしてね、既婚者との子供を出産したということで会社と彼女の両親と川平浩司の間で、それはもう大揉めに揉めて、一時は警察沙汰にまでなったそうで。僕も詳しくは知りませんがね、両者合意の上で交際していたというよりは、川平浩司が彼女に無理矢理迫ったというのが女性の両親側の意見だそうですよ」 「それは……本当ならとんでもないクズ野郎じゃないですか」 「そうなんですがね。ただ当の川平浩司が姿を晦ませているわけですから、事実だとしてもどうしようもないんです」 「何だかこう……僕が聞いた話とはちょっと違いました」 「それはそうですよ。噂には尾ひれがつきものですからね。事実は当事者にしかわからないことです。もし今日聞いた話の真実が気になるなら、彼女に聞いてみたらいかがです? 当事者かと言われたら悩みますがね。子供は大人と違って自分に利益のない嘘をつくことも多いですし——」  六道が言い終わらないうちに、菖蒲は彼の目線の先を追いかけた。見れば遠巻きから尽がこちらをじっと見つめている。尽は菖蒲が振り向いたことに気付くと、一瞬たじろいだようであったが、何かを決意したように強い足取りで二人へと近付いた。 「あの!」 「は、はい」  尽は背伸びをするようにして菖蒲の顔を覗き込んだ。動転したのは菖蒲の方で、思わず後ろを振り返って六道に助けを求めたが、当の六道は目を細めてこちらを見ているばかりであった。 「職員さんにお話ししたいことがあって」  尽はちらりと六道を見遣る。 「それなら僕は席を外すので——」 「大丈夫! この人、頼りになる刑事さんですから! 一緒に話を聞いてくれますよ!」  帰ろうとする六道の腕をむんずと掴んで引き寄せる。六道は心底迷惑そうな顔をすると、菖蒲に小声で囁いた。 「彼女は職員さんに話があるんですよ」 「だからって僕を一人にしないでくださいよ! 成人男性が中学生の女の子と一対一で話してたら不審者だと思われますって」 「僕も立派な成人男性ですが。男二人に囲まれて話を聞かれる方が彼女も嫌なのでは?」  菖蒲は不満そうな六道をぐいと押し退けて、貼り付けたような笑顔を尽に向けた。尽は困惑したような素振りで眉間に皺を寄せていたが、「刑事さんもよければ一緒に……」と難しい顔のまま頷いた。 「それで話というのは何でしょうか?」 「祖父母の家のことです。あの空き家になっている」 「ああ、空き家バンクの件ですか。すみません、手続きが遅くなっておりまして」 「そのことは別に……そういった手続きは母がやっているので、私にはよくわかりませんし。私がお話したいのは、例の書斎部屋についてです。以前来られたときに『この部屋で誰か亡くなっていないか』と尋ねられましたよね」  確かに未谷はそのようなことを尋ねていたように思う。彼は業者を入れずに部屋を改築した理由を知りたがっていた。 「確か覚えはないって……」 「嘘なんです。ごめんなさい。言っちゃだめだと思って黙ってたんですけど、あの書斎は多分父が監禁されていた部屋なんです」 「監禁?」  それまで静観を決め込んでいた六道が片眉をピクリと跳ね上げた。 「父は三年前に亡くなったんですけど、亡くなるまでの数ヶ月間、様子がおかしくなって祖父母の家に閉じ込められていたんです」  菖蒲は村人が話していた内容を思い出して、思わず「ああ」と声を漏らした。尽の父親が晩年、大声をあげたり暴れていたりしたのは事実だったのだろう。 「様子がおかしくなったというのは突然?」 「私にはそう見えました。言ってることもよくわからなくて、『こんなことは許されない』とか『いずれ罰が下る』とか、とにかく何かに怒ってる感じで」 「……罰ね」  げんなりしたように六道が呟く。 「母は父を病院に連れて行こうとしたんですけど、祖父母が反対して、結局父はあの部屋に閉じ込められたんです。職員さん、前に私があの家に近付いちゃだめだって母に言われているって言ったのを覚えてますか?」 「そういえばおっしゃってましたね」 「祖父母は熱心なの信者だったんです。私に悪いことが起こるたびに祖父母はあの家で祈祷を受けさせようとしました。実際に祈祷を受けたことないのでよくわからなかったんですけど、あの日あの部屋で神棚を見て思ったんです。父はあの部屋に閉じ込められて祈祷を受けさせられていたんじゃないかと」  菖蒲は目を丸くして、六道の方へ振り向いた。 「そんな前時代的なこと、あり得るんですかね……いや、あり得るのかな……」 「ほんの数十年前まで私宅監置が合法だったのだから、あり得ないことはないのでは? 部屋に閉じ込められて外界と遮断され、治療と称して祈祷を受けさせられたら、健康な人間でも精神を病んでしまいますよ。何故神棚を隠していたのか疑問でしたが、実の息子をその部屋で死なせてしまったとしたら、証拠を隠すしかなかったのかもしれませんね。何しろ祈祷で救えなかったという事実は、神の力を揺るがすことに繋がりかねない」 「刑事さん、そのことって詳しく調べられないんですか?」 「僕も暇ではないんですよ。未谷さんの一件で仕事が増えたわけですから」 「仕事が増えたって、そんな言い方……」 「その、もう一人の職員さんのことなんですけど……」  尽が言いづらそうに口を挟む。 「あの神棚を見つけて、私、気になったので川平の菊子さんに聞いてみたんです。そうしたら『あなたは関わっちゃだめ』ってすごい剣幕で言われて……何でかなって思ってたら、職員さんが亡くなったって聞いて、もしかして神棚のせいかもと思って」 「その人が亡くなったのは、新聞にもあった通り頭部の外傷が原因であって、神棚のせいでも呪いのせいでもないよ」 「……そうですよね。そんな非科学的なことあるわけないですよね」 「それとその菊子さんが言うように、君は関わらない方がいい。君自身が望んでもないのに、信仰を押し付けようとする人からは身内であっても逃げた方がいい。そうしないと君の人生が君のものではなくなってしまうからね」 「……私、もう少しで引っ越すので大丈夫です。祖父母ももういませんし……」 「そう。それならいいんだ。新しい環境で楽しく暮らせるといいね」 「……ありがとうございます」  尽は静かに頭を下げた。話し終えて帰路に着く尽を見送りながら、菖蒲は隣にいる六道を横目で見る。 「刑事さんって意外と優しいですよね」 「意外? それは心外だな。僕は基本的に誰に対しても親切を心がけてますよ。仕事なので」 「仕事でも人に優しくできるならいいじゃないですか」  菖蒲は眉を下げて笑う。六道は手をひらひらと振って、何も言わずに仕事へと戻っていった。
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