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厄災の卵
葦野民話全集と書かれた冊子を閉じ、早乙女菖蒲はため息をついた。
生来本を読むのは嫌いではない。しかし仕事という別の目的のために本を読むのはどうにも苦手であった。純粋に読書を楽しむのであれば、史料室の片隅に並んでいたこの小難しい本であっても、息抜きがてらに読めていただろう。
何も打ちこまれていないまっさらなパソコンの画面をぼんやりと見つめて、菖蒲はますます深く息を吐いた。文章を書くのはそれよりも不得手なのである。
「おおい、アヤメちゃん」
壮年の男の声が課に響き渡った。「ああ、またか」と菖蒲は心の中で独りごち、眉を八の字にして申し訳なさそうな顔を作ると席を立つ。課長と話すときは、大抵このような表情でお茶を濁すのが常である。
「すみません、課長。何か問題でもありましたか」
「ほら、この間言ってたよね。今日は空き家の現地調査に不動産会社の人が来てくれるって。だけど係長が半休でいなくなっちゃったからさ。アヤメちゃん代わりに行って来てよ」
「え? でも、僕、現地調査の仕方はまだ知らないのですが……」
「係長が何をしたらいいかまとめてくれているらしいから、それ見たら大丈夫だって。若いんだから何事も経験でしょ? ほら、これ公用車の鍵ね。終わったら報告書作成して管財課に返しておいて」
課長は菖蒲に車の鍵を差し出す。菖蒲がそれを受け取ると、自分の仕事は終わったと言わんばかりに視線が手元のパソコンへと注がれた。どうせまたニュースサイトでも見ているに違いない——菖蒲は心の中で毒づき、すごすごと自席へ戻った。
菖蒲は葦船市役所に勤める公務員である。葦船市は人口十二万人ほどを抱える工業都市であり、菖蒲の生まれ育った町でもあった。別段彼は故郷に貢献したいであるとか、純粋な郷土愛から市役所職員になったわけではない。公務員ならば安定して暮らしていけるだろうという漠然とした考えの先に、たまたまあった選択肢が地元の市役所だった、それだけである。
そのようなものであるから彼には仕事への情熱がない。ただ漫然と与えられた仕事をこなしているだけである。ぬるま湯のようなこの職場で一生を過ごしていくのだろうと思った矢先のこと、人事異動で新たな課長がやって来た。
この新しい課長は菖蒲とまったくそりが合わなかった。年上には媚びへつらうが、女性職員や若手の男性職員は蔑ろにする。彼らの課所室では菖蒲が最も若い職員であるから、自ずと菖蒲は軽視される対象になった。円満な人間関係のために不満を飲み込んでいるが、職場は菖蒲にとって陰鬱な場所と化していた。
先ほど与えられた仕事についても菖蒲はまったくの素人である。それでも課長のいる空間で仕事をするよりは、外で手探りの仕事をするのが幾分かましに思えた。
係長が残した手書きのメモと資料に目を通していると、視界の端で課長が席を立ったのが見えた。昼休憩が終わって三十分が過ぎた頃、庁舎の屋上に行って煙草を吸うのが課長の日課である。
菖蒲はこれも気に入らなかった。庁舎は喫煙禁止であるのに、さも当然であるかのように煙草を吸いに休憩へ向かうのだ。菖蒲は自分の価値観を常識だと信じて疑わない人間が嫌いであった。
嫌なものを見てしまった、と資料に向き直ろうとすれば、課長が歩みを止めて誰かと話をしているのが目に入る。相手は背の高い男性で、シャツを着ていてもわかる引き締まった体つきは何かスポーツをしている人間のようにも思えた。
「アヤメちゃん」
課長はにわかに振り向き、菖蒲を手招きする。突然呼ばれた驚きと嫌なあだ名で呼ばれたという不快感がないまぜになったまま、菖蒲は二人のもとへ小走りで急いだ。
若い男は潑剌とした表情から一転、不思議そうな顔で菖蒲を見た。菖蒲はどのように接すればよいかわからず、とりあえず会釈をする。
「アヤメちゃん。さっき言ってた不動産の人、来てくれたから。後はよろしく」
背中をポンと叩かれて、菖蒲は思わずよろめく。課長は足早に立ち去ってしまい、後には何も知らない菖蒲と男だけが残った。男は一瞬困惑したように眉を寄せたが、すぐに笑顔を見せると持っていた名刺を菖蒲に差し出した。
「セイフ不動産の未谷です。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。えっと……」
菖蒲はちらりと自身のデスクを見遣る。職員になってから名刺の交換などほとんどしたことがない。自分の名刺はデスクにある引き出しのどこかで眠っているには違いなかったが、相手を待たせてまで探すのには気が引けた。
「すみません、今、名刺を切らしていて。地域推進課の早乙女です。本日はよろしくお願いします」
我ながらつまらない嘘をついてしまったと落ち込む。それでも未谷の前で名刺を探す方が恥ずかしかった。
菖蒲はデスクへと小走りに向かい、公用車の鍵と資料を引ったくるように掴んでリュックへ入れる。「常世村に空き家の現地調査へ行ってきます」と近くの主任に報告すれば、聞いているのかいないのかわからない気怠げな声が返ってきた。
「お待たせしてすみません。下の駐車場に公用車を停めてありますので、それで村まで行きましょう」
「わかりました」
未谷と連れ立って歩きながら、菖蒲は何を話したものかと頭を捻った。市役所から常世村までは一時間ほどかかるが、道中何も喋らないのも愛想がないように思える。かと言って初対面の人間との会話を盛り上げられるほど話し上手でもない。さてどうしたものかと頭を悩ましていると、口を開いたのは未谷であった。
「早乙女さんの下の名前って、アヤメさんっていうんですか」
「え?」
菖蒲が思わず聞き返せば、未谷は爽やかな笑顔のまま話を続けた。
「いや、課長さんが『アヤメちゃん』って呼んでいらっしゃったので、すっかり女性の職員さんかと思ったんですよ」
「ああ……あれはあだ名みたいなものです。本当はショウブっていいます。菖蒲の花ってあるじゃないですか。よく間違えられるんですよね。名前の字面が女の子みたいだって」
未谷は「確かに可愛い感じですね」と笑ったが、続けて「でも、綺麗な名前で羨ましいです」とはにかんだ。菖蒲はその顔を見上げると、眉を八の字にして曖昧な笑顔を浮かべた。
「……そうですかね。ああ、車はこれです」
菖蒲が車に乗るように未谷を促すと、未谷は大きい体躯屈めるようにして車へ乗り込んだ。菖蒲はそれがいやに羨ましかった。
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