厄災の卵

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 この市役所の公用車としては珍しく、車内にはカーナビが搭載されていた。菖蒲は内心安堵した。紙の地図を見たところで、道はおろか東西南北もわからないのである。  資料に書かれた住所を目的地に設定すれば、道のりと到着予定時刻が画面に表示される。やはり市役所からは一時間ほどかかるようであった。 「実は常世村に行くのは初めてなんですよ」  未谷はカーナビを見つめながらそう言った。そうだろうと菖蒲は思った。  常世村——合併した今は旧常世村地区と呼ぶ方が正しいのだが、地理的に独立しているためか未だに常世村と呼ぶ住民が多い。そのため村まで行くには時間と労力がかかる。  仮に村へ行ったとしても、かつて開坑していたという鉱山跡があるだけだ。人口も百人いるかいないかといった瀬戸際で、そのほとんどが高齢者である。いわゆる限界集落なのだ。親戚が住んでいたり、鉱山跡に興味があったりしない限り行く理由がない。 「僕も一、二回行ったことがあるくらいです」 「早乙女さん、地元はこっちなんですか」 「ええ、まあ」 「自分は就職してからこっちに来たので、まだまだ馴染みのない場所が多くて」 「それは大変ですね。けど、常世村は地元の人でもあまり行かないと思いますよ。平成の大合併ってあったじゃないですか」 「ああ、そんなのもありましたね。何年前だったかな……」 「僕が小学生になるぐらいだったと思うんで、二十年前とかですかね。あの時期に葦船市と合併した地区なんですよ。本当は隣の蓮父(はすと)市と合併した方が利便性も良かったんですけど、鉱山の開坑中はうちと結び付きが強かったとかで……」 「へえ。さすが詳しいんですね」 「……ああ、すみません。一人でベラベラと。今ちょうど常世地区の紹介文をホームページに書かないといけなくて、いろいろと調べていたところだったんです。市としては若い人に定住してほしいので、そういう人たちに向けたサイトを作っているんですけど、僕も地元がここっていうだけで詳しいわけじゃないですから……」 「大変そうですねぇ」  未谷は間伸びした声で返事をした。  時折取り留めのない雑談をしながら、車は灰色の街を抜けていく。それから山あいの道を進んでいくと、近代的な建物はどんどんと減っていき、代わりに豊かな緑だけが車窓からの景色を埋め尽くしていった。 「もう少ししたら、この辺りも紅葉するんですかね」 「そうかもしれませんね」  村の周辺の植生などほとんど知らない。かつては煙害で禿山であったというが、その後どのような木々が植えられたかなど興味がなかった。  道幅がだんだんと狭くなり、菖蒲の意識は会話や景色よりも運転に集中していく。未谷もそれがわかったようで、稀に景色に対して独り言を呟くのみになった。  車内の静寂を破ったのは、カーナビから流れた機械的なアナウンスだった。「目的地付近に到着しました。ルート案内を終了します」と宣言され、菖蒲は思わず声を出す。 「あれ、まだですよね」 「そうですよね。おかしいな……」  菖蒲は仕方なく車を路肩に寄せた。村にすら到着していないのに——一人であったならば、ぶつくさと不満を言っていただろう。未谷がいる手前そのようなことができるはずもなく、菖蒲はできうる限りの真剣な表情でカーナビと向き合った。ところが目的地の設定をし直しても、今いる場所が表示されるだけであった。 「故障ですかねぇ」  未谷は形の良い眉を(しか)める。菖蒲はため息をつきたいのをぐっと堪えて外を見た。周囲には巨大なループ橋とダムがあるだけで、民家などは見当たらない。 「スマホでルート案内してもらいますね」  菖蒲はリュックからスマートフォンを取り出して地図を開いた。  正直なところ、職務中にスマートフォンを見るのは避けたいというのが本音である。市民の中には自分のような市職員を「血税を給料に戴く公僕」として見ている者も少なくない。少しでも公の奉仕者としてふさわしくない言動をとれば、ここぞとばかりに石を投げられるのである。スマートフォンを触っているところなど見られたならば、「仕事中に携帯電話を弄って遊んでいる職員がいる」などとクレームをつけられるのが容易に想像できて、菖蒲はげんなりした気持ちになった。  地図上に現在地を表示させるが、居場所を示すアイコンはループ橋をうろうろとするだけで一向に留まる気配がない。こうなると菖蒲にはお手上げだった。 「山が近いせいですかね。現在地が表示されなくて」 「あれ、自分のスマホもダメみたいです」  菖蒲と未谷は顔を見合わせて苦笑する。それでも仕事であるから、道がわからないと放り出すわけにもいかない。菖蒲は時計にちらりと目を遣って、まだ約束の時間までに余裕があることを確かめた。 「ここはまだ一本道ですし、もう少し進んで民家があったら村までの行き方を尋ねてみましょうか」 「そうですねぇ。幸い空き家付近の地図はあるわけですし」  菖蒲はスマートフォンをサイドポケットに立てかけ、車を走らせ始める。未谷はしばらく車窓から見える川の流れを眺めていたが、やがて変わり映えしない景色に飽きたのか手元の資料に目を落としていた。 「午乃(うまの)さんか……」  未谷がぽつりと溢した名前は、今日向かう空き家の持ち主であった。 「何か親近感湧いちゃいますねぇ。自分も名前にヒツジが入ってるんで。この辺は交通の便も悪そうだし、買い手が見つかるといいんですけど」 「農業したい人とかには良さそうな土地なんですけどね。あ、ほら、みかん畑がありますよ」  視界の端にちらりとみかんの木が映る。昭和後期に鉱山が閉山するまで、村には一万人ほどが住んでいたという。そのほとんどが鉱山の関係者であったので、閉山と共に多くの住民が村を去った。今も村に残っているのは、元々村に住んでいた林業家や農家の住民であった。 「あ、早乙女さん。人がいますよ、人」  未谷の指さす方を見れば、ヤッケを着た老年の女性がみかんの木々に混じって作業をしている。 「自分、道聞いてきましょうか」 「ああ、いや、僕が行きますよ」  未谷に行かせるのも申し訳ない気がして、菖蒲は車を道路端に寄せると足早に下車した。身分がはっきりしている方が相手も警戒しないだろうと、市章のついた名札を首から下げる。  花柄の帽子を被った小柄な女性は緑色のみかんを摘んでいた。ちょうど自分の祖母と同じぐらいの年齢だろうか。菖蒲は一音一音を強調するように「こんにちは」と声をかけた。  老女はゆっくりと菖蒲の方へ振り向く。幾度か瞬きをした後に、老女は「こんにちは」と挨拶を返した。 「すみません。私、葦船市役所の者なのですが、常世村までの道をお伺いしたくて……」  菖蒲が首に下げていた名札を老女に見せれば、彼女は「ああ」と納得したような声を漏らす。そうしてゴム手袋をつけたままの手で、真っ直ぐ道を指さした。 「村はこの道真っ直ぐ行ったら着くけどね。村のどこに行きたいの」  質問の意図が汲み取れず菖蒲が首を傾げると、老女は作業の手を止めて菖蒲に近付く。 「この辺は集落がいっぱいあるんだわ。村言うても広いんよ。役場がある方に行きたいなら、この道真っ直ぐ行ったらええよ」 「ええと、午乃さんという方のお宅なのですが……」 「ああ、川平集落の方ね。それなら真っ直ぐ行きよったら駐在所が見えるけん、そこを左に曲がったらええわ」 「ご丁寧にありがとうございます。すみません、お忙しいときに」  菖蒲は一礼して、それから見渡すようにみかん畑へと目を向けた。 「早生(わせ)みかんですか」 「そうよ。よう知っとるね」 「みかん農家の親戚がいるんです。収穫されていたんですか?」 「摘果中よ。収穫はもうちょっと後やねぇ」  ふと、一つの木に目が止まった。手入れされている木々の中に一本だけ、葉が食われ放題になった寒々しい木が立っている。 「あれは……」  菖蒲は思わず木を指さす。老女はそちらに目を遣ると、首を傾げて難しそうな顔をした。 「あれねぇ、不思議よねぇ。この辺の農家さんはみんなああしてるんよ。必ず一本は虫さんにあげるんやって」 「あまり聞かない風習ですね」  虫は果実を駄目にしてしまう天敵のような存在であると菖蒲は思っていた。食害や病気を引き起こすなど良い印象はない。それは菖蒲自身、虫があまり好きではないのが理由でもあるが。 「虫——というか自然に感謝しているということですか」 「さあねぇ。私も嫁いできて初めて知ったけん。あんまり詳しくは知らんのよ」  老女はその話題に興味がないのか、さっさと作業へ戻っていく。道を聞くだけのはずであったのに、余計なことを喋ってしまったと菖蒲は反省した。  老女に一言礼を述べ、菖蒲は未谷が待つ車へと戻る。未谷はスマートフォンをスクロールする指を止めると、それをズボンのポケットへと仕舞い込んだ。 「すみません。お待たせして」 「いえ。どうでした? 道の方は」 「しばらく道なりに沿って行くと駐在所があるので、そこを左に曲がればいいそうです」  菖蒲はきっちりとシートベルトを締め直す。この道を走っている車は自分たちくらいのものだとは思うが、公用車に乗っている以上、下手な運転はできない。後方に注意を払いながら、菖蒲は車を発進させた。
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