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川沿いの道を走り続けていると、まばらではあったが人家が見えるようになった。煤けた木造の壁が歴史を伝える。伸び切った木々の枝葉が垣根を越えているところを見ると、その家は持ち主を失って久しいようであった。そのような家がぽつぽつと見られるものだから、哀愁を感じずにはいられない。
資料を読む限り、かつてこの一帯は葦船市の都市部にも引けを取らない賑やかな土地であったという。形あるものはいつか滅びるというが、目を背けたい世の無常さをまじまじと見せつけられるようで、菖蒲はほの暗い気持ちになった。
「あ! 駐在所、ありましたよ!」
未谷が一際明るい声を出して、前方を指さした。こじんまりとしているが比較的新しい建物である。入口の横には木板が打ち付けられており、「蓮父警察署常世駐在所」という文字が刻まれていた。それを見た未谷が首を傾げる。
「ここって葦船市ですよね?」
「住所としてはそうなんですけど、隣の蓮父市との方が距離が近いんですよ。だから警察や消防は向こうの市の管轄なんです」
「はあ、なるほど。じゃあ、ここで事件とか起こったら色々大変そうですね」
「大変だと思いますよ。まあ、住民も少ないので大きなトラブルも起こらないでしょうけど」
駐在所を左に曲がり、更に狭い道を上っていけば、一際大きな家——屋敷と呼ぶのがふさわしいような建物が菖蒲の目に入る。
「あれ! もらった地図に書いてあった川平さんのお宅じゃないですか」
未谷は感心したようにそう呟いた。遠目に見ても立派な門構えの家である。道中に見かけた空き家とは違ってしっかりと手入れされていた。当然のことではあるが、ここにもまだ住んでいる人がいるのだと実感が湧く。
「ええと、川平さん家に続く道の手前に……」
「あのお家ですかね」
菖蒲は前方にあった家を指さす。未谷は大きく頷いた。
「あれです! 良かった。時間に間に合いましたね」
「ナビが壊れたときはドキッとしましたけど、良かったです。未谷さんもありがとうございました」
未谷は顔の前で大袈裟に手を振り笑う。悪い人ではないようだ、と菖蒲は頭の隅で思った。
午乃家は二階建ての木造建築であった。持ち主が時折手入れしているのだろう。庭の草はところどころが刈られている。そこにはすでに軽自動車が一台駐車されており、持ち主が来ていることを知らせていた。
「隣に停めさせてもらうのでいいのかな」
菖蒲は誰に話すわけでもなく、そう独りごちて車を停めた。未谷は大きく伸びをすると「運転ありがとうございました」と一言述べて車を降りる。どういたしまして、と返すのも傲慢なように思えて、菖蒲は結局薄笑いで会釈をした。
ドアを開ければ草を刈り取ったばかりだったのか、青臭い匂いが鼻を掠める。小学生の頃は外遊びでよくこの匂いを嗅いでいた。来たことがない場所であるのに、どこか懐かしさを覚える。
「早乙女さん」
未谷に呼ばれて、菖蒲はリュックの肩紐を乱暴に掴むと急いで車の鍵を閉めた。ピッという短い電子音が聞こえたのを確認し、未谷のもとへ走る。
「午乃さんはもう中にいらっしゃるんですかね」
「そういう手筈になっていると思うんですが」
詳しいことは何も知らないのだとは言えず、菖蒲は曖昧な笑顔を浮かべたままインターホンを押した。カメラ付きなどではない、押すと音が鳴るだけのシンプルな代物である。インターホンというよりは呼び鈴といった方がしっくりくるだろう。自分がまだ幼い頃に訪ねた祖母の家にもこのような呼び鈴があったことを思い出した。
ベルは「ピンポーン」と間の抜けた音を鳴らす。それとは反対に家の中からは凛とした女性の声が返ってきた。廊下を急ぐ足音が聞こえ、ガラガラと音を立てながら玄関の引き戸が開く。
戸口の向こうには黒い髪をさっぱりと短く切った小柄な壮年の女性が立っていた。強い印象を受ける瞳が菖蒲を捉える。棒立ちのままで突っ立っていた菖蒲は慌てて頭を下げた。
「葦船市役所地域推進課の早乙女です。空き家バンクの現地調査に参ったのですが……」
「ああ、遠いところありがとうございます。どうぞ、お上がりください」
女性に促され菖蒲と未谷は玄関へと足を踏み入れる。い草と線香の匂いが混ざり合ったような香りが肺を満たす。タイルの上に靴を揃えて小花柄のスリッパに履き替えれば、二人は客間らしき一室へと案内される。部屋の中にはつるりとした表面の焦茶色をした木の机があるだけであった。
「すみません。ここにはもう誰も住んでいなくてお茶の用意もないのですが……」
「ああ、いや、大丈夫です。室内と外観を調べたらすぐにお暇しますので。ここに荷物だけ置かせていただきますね」
菖蒲は資料の入ったリュックを部屋の隅に置き、カメラを取りだす。そして未谷に間取り図の書かれた一枚の紙を手渡した。
「未谷さん。室内を調べていただいていいですか? 修繕が必要そうな箇所があったら、この紙にメモしておいてください」
「わかりました」
「僕は先に外観の写真を撮ってきますね」
菖蒲は少し安堵した。ここまで辿り着いてしまえば、後は未谷に任せてしまえばよいのである。どうせ素人の自分が部屋を見たところで、どこを修繕すればよいかなどわかりはしない。
菖蒲は庭に向かうと、市役所の引き出しに眠っていた古いデジタルカメラを構える。こういった類いのカメラで写真を撮るのは苦手だった。
「なんか手ぶれしちゃうんだよなあ」
菖蒲が家の周りをぐるりと一周しながら撮影していると、家の前の道に一人の女性が立っていた。黒い髪を綺麗に結い上げた色の白い細身の女性である。今にも消えてしまいそうで儚げな佇まいで、見ていると不安な気持ちが込み上げた。
女性があまりにもこちらをじっと見ているので、菖蒲は自分が不審者だと思われているのではないかと心配になってくる。スーツ姿の男が家のあちこちを撮影していたら、不審に思う人もいるかもしれない。
居た堪れない気持ちになり、菖蒲は微笑みを浮かべて会釈をする。自分は怪しくないですよ——という菖蒲の気持ちは届かなかったのか、女性は驚いたような顔をしてその場を立ち去った。
「俺ってそんなに不審者っぽいのかな」
何だか悪いことをしてしまったとも思うが、それ以上に怪しい人物だと思われたのはショックである。
苦い顔をしていると、未谷が玄関口から顔を覗かせた。
「早乙女さん、ちょっと来てもらえますか?」
「どうかしたんですか」
「いやあ、ちょっと一緒に見てほしい部屋がありまして」
菖蒲は「僕が見たところで何もわかりませんよ」と言いたくなったのを飲み込んで、未谷の背中を追った。仕事でここにいる以上、その言葉は許されないだろう。しかしながら建築関係の知識などは持ち合わせていない。暑さも過ぎ去った季節だというのに、背中に薄らと汗が湧き出たのを感じた。
「この部屋なんですけどね」
「うわ、すごい数の本ですね……」
未谷に連れられて入った部屋には壁一面に大きな本棚が並んでいた。天井に届きそうな高さの本棚には、和書や洋書を問わず様々な種類の本が収まっている。この部屋の持ち主はよほどの読書家か蒐集家であったのだろうと菖蒲は本棚をまじまじと眺めた。
「この部屋何かおかしくないですか?」
「そう……ですかね。目立った汚れや修繕が必要そうな箇所もないように思えますけど……」
「それも変なんですよ。築年数に対してこの部屋だけ妙に真新しいというか……それにもらった間取り図を見ると、この部屋は八帖あることになっているんです」
未谷の持つ間取り図を覗き込めば、そこには確かに「洋室八帖」という書き込みがある。菖蒲は相槌を打ちながらも、未谷が何を疑問視しているのかわからず首を傾げた。
「だけど実際には八帖もありませんよ、この部屋。七帖か……もう少し広いくらいかな」
「僕にはよくわからないのですが……メジャーとかで測ってみますか?」
「それとこの本の並べ方もおかしくないですか」
未谷は小声になると、菖蒲へ耳打ちするようにそう言った。つられて菖蒲の声も自ずと小さくなる。
「本……ですか?」
「普通ジャンルごとに並べるとか、その人なりの法則がありません? それがジャンルはバラバラで並んでるし、文庫本も単行本も一緒くたにしてますし」
「ううん、どうですかね。僕も買った本をとりあえず本棚に並べちゃうときもありますし、そういう方だったのでは……」
「これだけの数の本をでたらめに並べたら、探すのが大変だと思いますけどね……」
未谷は難しそうな顔をして黙り込む。菖蒲は「参ったな」と心の中で呟いた。部屋の大きさはともかくとして、本の配列などは仕事に関係のないことである。
菖蒲が未谷の真意を測り損ねていると、玄関の戸が勢いよく開かれる音が聞こえた。難しそうな顔で本棚を眺める未谷は一旦放って、そっと部屋から顔を出す。開け放たれた戸口の向こうには少女が立っていた。
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