厄災の卵

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 後ろ髪をきっちりと二つに分けて結んだ真面目そうな少女である。制服から見るに中学生ぐらいだろうか。幼さの残る顔立ちではあるが、意志の強そうな瞳には見覚えがある。 「お母さーん!」  開口一番、少女は大きな声でそう叫ぶ。菖蒲の背後で唸っていた未谷もその声に驚いたのか、扉から玄関を覗き込んだ。 「どうかしたんですか?」 「さあ……午乃さんの娘さんでしょうか」  二人でこっそり話していると、廊下の奥から足音が聞こえたので思わず黙り込む。おそらく母親であろう家の持ち主は、厳しい顔で少女を見た。 「(つくし)、どしたん? 今日は市役所の人が来るんやけん、こっちには来られんて言うたでしょ」 「そんなこと言うとる場合じゃないんよ。日向(ひゅうが)君がおらんなったって菊子さんが……」  尽と呼ばれた少女の体に影が落ちる。彼女の背後から現れた人物は、先刻菖蒲が家の外観を撮影しているときに見かけた女性であった。 「すみません、葵さん。日向が見当たらんくなったものですから、尽ちゃんに見かけてないか聞いたんです。葵さんは日向を知りませんか」 「日向くん? 今日は見かけてないけど、おらんなったってどうしたの?」 「家で遊んでいたはずなんですけど、ちょっと目を離した隙におらんなってしまって……」  菊子の顔はすっかり血の気が失せて青白くなっていた。  菖蒲が彼女たちの邪魔にならないように早く仕事を済ませて帰ろうと思った矢先、背後で会話を覗き見ていた未谷が廊下へと足を踏み出す。突然の闖入者に三人の視線が未谷へと集まった。 「どうかされたんですか?」  菊子は面識のない男から声をかけられたのに戸惑ったのか、何も言わずに下を向く。葵はそのような状態の女性に気を遣っているのか、言葉を言い淀んでいるようだった。尽は未谷と大人二人を見比べた後、静かに口を開いた。 「すみません。ここら辺で五歳ぐらいの男の子を見かけませんでしたか?」 「尽」 「捜すんだったら人手が多い方がいいでしょ」  咎めるような母親の声に尽は唇を尖らせる。未谷は顎の下に手を置いてしばらく考えた後、突然振り返って菖蒲に声をかけた。 「早乙女さん、自分たちがここまで来る間に男の子って見かけました?」 「いや、見ていないと思いますけど……」 「どこかに遊びに出かけたということはないんですかね」 「……日向は誰にも言わずに外に出るような子じゃないんです」 「それでしたら尚更心配ですね。警察に通報した方がいいかもしれません。確か道を下ったところに駐在所がありましたよね」  未谷の口ぶりから察するに、彼は菊子の子供を捜そうとしているのだろう。菖蒲は目の前が眩むような錯覚を起こした。  自分たちは仕事をしに来たのであって、子供を捜しに来たわけではない。仕事以外のことに手を出してトラブルに発展するのは避けたいのが本音である。しかし何もせずに帰るというのも気が引ける話ではあった。市職員は困った市民を見捨てるのかなどと苦情を入れられてはたまらない。 「ご迷惑でなければ、駐在所の方まで行って連絡しておきましょうか」  菖蒲がおそるおそるそう述べれば、女性二人は顔を見合わせる。やがて菊子が静かに頷いた。 「すみませんがお願いできますか?」 「大丈夫ですよ。じゃあ早乙女さん、駐在所まで行きましょう」  菖蒲が承諾するよりも前に未谷が頷く。車に乗り込んで未谷と二人きりになったところで、菖蒲は思わずため息をついた。 「……大丈夫ですか?」 「えっ、ああ、すみません。ちょっと突然のことに色々頭が追いつかなくて」  菖蒲は曖昧な笑顔を浮かべて、大きく手を横に振った。 「駐在所でしたよね。行きましょうか」  会話を切り上げるように、菖蒲は車のエンジンをかける。未谷もそれ以上は言及する気がないらしく、車内は沈黙を乗せたまま道を下りていく。しばらくして駐在所が見えてきたが、室内には電気がついていなかった。 「もしかしてパトロール中ですかね」  菖蒲は駐在所の向かいにあった駐車場に車を停める。外に出ようとシートベルトを外したところで、「ちょっと見てきます」と未谷は車を飛び出して行った。菖蒲はその背を追いかけることもできず、宙ぶらりんになった居心地の悪さを感じながら未谷を待つ。それからややあって、未谷は強張った面持ちで駐在所から姿を現した。 「不在中だったので、警察署の方に連絡しておきました」 「そうですか」 「早乙女さん。この近くに川がありましたよね。車で川沿いを探してみませんか」  未谷の発言に菖蒲は辟易し、思わず口を開く。 「これ以上はちょっと……安易に首を突っ込むとかえって迷惑かもしれませんし。あとは警察に任せませんか?」 「そう——そう、ですよね」  未谷は虚をつかれたような顔になって、深く息を吐いた。それまでのいきいきとしていた彼とは打って変わった萎れ具合に、菖蒲は自分が良心の欠片もない冷たい人間であるように思えて嫌な気分になる。 「……失礼ですが、未谷さんはどうしてそんなに必死になれるんですか? こう言うのも何ですけど、相手は知らないお子さんじゃないですか。心配に思うのはわかるのですが……」  そこまで言って菖蒲は口を(つぐ)んだ。思っていても口にするべきではなかったと自省していると、未谷がぽつりと呟いた。 「……まだ小さかった頃に水難事故で弟を亡くしたことがあるんです」  未谷の声は懺悔しているようでもあった。菖蒲はその横顔を無言で見つめた。 「親に弟の面倒を見るように言われてたんですけど、ほんの数秒目を離した隙に……。そういうこともあって少し過敏になっていたのかもしれません。でも早乙女さんの言う通りですね。かえって邪魔になるかもしれませんし、早く仕事を済ませて帰りましょう」 「あ、いや……」  悪いことを聞いてしまった、と菖蒲は焦った。どう取り繕っても悪手になるような気がしたが、それでも何も言わないよりは良いように思えて、菖蒲はこわごわと未谷へ視線を向けた。 「川沿いを見るだけ見てみましょうか。ちょっと見て何もないってわかったら、僕たちも安心して仕事に戻れますし」 「そう……ですね」  未谷は何かを考え込むようにして顔を伏せた。車内の空気は重たく静かなまま、車のエンジン音だけが響く。道中に見かけたダムの場所まで戻るようにして、車は川沿いの道を走っていった。  菖蒲は未谷の顔を横目でちらりと盗み見る。未谷は食い入るように川の流れを見つめていた。菖蒲には未谷の考えていることが理解できなかったが、それでももう少し寄り添った言動を心掛けるべきだったと後悔した。  数分のドライブが永遠にも感じられるように思えた頃、未谷が「あっ」と小さく声をあげた。 「止めてください!」 「えっ?」  戸惑いながらも菖蒲は車を端に寄せて停車させた。未谷は菖蒲の返事を待つこともなく、弾かれたように車を飛び出す。 「未谷さん!」  菖蒲は一瞬躊躇したものの未谷を追いかけた。頭の片隅で道路に停めた公用車がクレームの原因にならないことを祈る。未谷は菖蒲の呼びかけも届いていないのか、ガードレールを飛び越えると急な斜面を滑るように落ちていく。 「嘘だろ」  菖蒲は走りながら思わずそう呟いた。数メートルはあるコンクリートの斜面を滑って下りるなんて自分はごめんだ——と菖蒲は川原まで降りられる階段を探す。道路をしばらく行った先に立て看板と階段があるのが見えて、菖蒲はひた走った。  「増水注意」と赤字で書かれた立て看板を横目に、菖蒲は階段を降りていく。石だらけで不安定な川原を駆けていると、川の中で佇む未谷が目に入った。膝まで水に浸かった姿を見て、菖蒲は「危ないですよ」と声の限り叫ぶ。  未谷に近寄るにつれて、菖蒲は彼が何かを抱えていることに気付いた。最初それは赤ん坊のようにも思えた。しかし、それは違うのだとすぐに気付く。未谷がざぶざぶと川を歩いてくる。彼の腕の中に収まるから、菖蒲は目を逸らせずにいた。 「早乙女さん」  未谷の顔色は木々の暗がりも相まって酷く青ざめている。彼の腕の中で目を閉じている幼い子どもは、一目見ただけで息がないことがわかった。しかし、それよりも——菖蒲は声を出そうとしたが、喉が乾いてそれは叶わなかった。掠れた音だけがちりちりと痛む喉から漏れ出る。 「早乙女さん、この子」  未谷は青い顔のままじっと子どもの顔を見つめていた。 「手足がないんですよ」  未谷の抱えた子どもの手足はそっくり切り取られていた。白いポロシャツの隙間から、赤い腕の切断面が覗き見える。菖蒲は胃から熱いものが込み上げるのを感じて、それから目の前が真っ暗になった。
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