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目が覚めてまず目に入ったのは、天井から吊り下げられた古い照明器具であった。四角い木枠に和紙が貼られたそれを見て、菖蒲はぼんやりと祖母の家を思い出した。
霞みがかったように不鮮明であった思考が少しずつ輪郭を取り戻していく。自分は確かに川原で気を失ったはずであった。ところが今は見知らぬ和室で布団に横たわっている。とにかく状況を把握しようと体を起こせば、頭がズキリと痛んだ。
「あっ、良かったぁ。目が覚めましたか」
未谷は壁にもたれかけていた体を起こすと、膝で畳を擦るようにして菖蒲のもとへ近寄った。
「ここは……」
「川平さんのお宅です。早乙女さん、急に倒れたんでびっくりしましたよ」
「そうですか……それは……その、ご迷惑をおかけしました」
「大丈夫ですよ。それより気分はどうですか?」
「ああ、ええと、多分大丈夫だと思います」
「良かった。一応、自分から市役所さんには連絡しておきました。心配されていると思うので、早乙女さんの方からも早めに連絡してあげてください」
「はい……何から何まですみません」
菖蒲は体を小さく縮こまらせて頭を下げた。面倒なことになってしまった——未だ事情は飲み込めていないが、それだけは間違いないだろう。菖蒲は後頭部を摩ると未谷に向き合った。
「あの、やっぱり、亡くなってましたよね」
未谷はしばらく逡巡した後、静かに頷いた。
「亡くなっていたのは川平日向君——捜していたお子さんで間違いないみたいです」
「事件……なんでしょうか。事故にしては不自然でしたよね」
「自分も詳しいことはまったく。警察の方が話を聴きたいと言っていたので、早乙女さんが大丈夫なら呼んで来ようかと思うのですが」
「大丈夫……だと思います。僕も一緒に行きますよ。ずっと布団にいるのも申し訳ないですし」
菖蒲は布団を軽く畳んで部屋の隅へ寄せる。寝かせるときに脱がされたのだろう、スーツの上着が壁に掛けられていた。菖蒲はそれを羽織る気にもなれず、手に持つだけ持って未谷の後ろに続いた。
部屋を出てすぐの廊下は縁側になっているようで、窓ガラス越しに見る外はすでに日が暮れ始めていた。ふと道路に停めたままの公用車の存在を思い出して、菖蒲はげんなりした気分になる。未谷に車がどうなったのかを聞きたかったが、このような場面で聞くのも気が咎めて、結局黙ったまま彼の背中を追った。
玄関では背広を着た中年男性や制服姿の警察官が忙しなく働いていた。その中心にはすっかり憔悴しきった菊子が佇んでおり、背広姿の刑事らしき男と何かを話している。菖蒲はどのように振る舞えばよいかわからず、その光景をじっと見つめていた。
「全部あの女のせいよッ!」
突然聞こえたけたたましい叫び声に、菖蒲の心臓がドキリと跳ねた。玄関扉が勢いよく開かれたかと思うと、外から飛び込んできたひっつめ髪の女が母親に掴みかかる。
「菊子さんッ! 貴女のせいよッ。貴女があの子をちゃんと見ておかないから!」
「お義母さん……」
菊子は青白い顔でぐったりと項垂れる。義母にされるがまま抵抗しようとしない。菊子の体があまりに激しく揺すぶられるので、紙のように飛んでいってしまうのではないかとハラハラする。
菖蒲は周囲を見渡したが、その場にいる誰もが急な修羅場に呆気に取られており、仲裁に入る気配は感じられない。
「血の繋がりがないからって日向を蔑ろにしていたのは知っているのよ! 貴女のせいでこの家は滅茶苦茶よッ」
隣にいる未谷に視線を遣れば、彼は悍ましいものを見るような目つきをしていた。周囲の警官が宥めようにも興奮のあまり声が聞こえていないようで、女の癇癪はどんどんと酷くなっていく。
「呪われた血めッ!」
女の右手が振り上げられて、菖蒲は思わず目を閉じた。
「呪いとは面白いことをおっしゃいますね」
静かだが芯のある声が響き渡る。おそるおそる目を開ければ、二人の間に痩身長躯の人影が見えた。
白い肌に切れ長の涼しげな目元。長い睫毛が瞬きをするたびに顔へ影を落とす。背中まで伸びた黒髪は飾り気のないゴムで一つ結びにされていた。着ているスーツを見る限り男性なのだろう。しかし菖蒲には彼が人間というより人形のように思えてならなかった。
彼は女が振り上げた手をバインダーで押し下げると、物憂げな雰囲気からは想像もつかないような大声で叫んだ。
「すみませんが、まだお伺いしたいことがありまして、外に出てもらえますか」
女はギョッとしたような顔になると、何か言いたげに口をパクパクと動かしたが、それきり大人しくなった。周りの警官たちも最初こそは固まっていたものの、やがて各々自分の持ち場へと戻っていく。
女は外に連れて行かれ、菊子は刑事と引き続き話し始め、後に残ったのは菖蒲と未谷、それから奇妙な長髪の刑事だけであった。
「何なんですかね、あの人」
未谷は菖蒲にこっそりと耳打ちをしたが、菖蒲も「さあ」と首を傾げることしかできなかった。
「男の人……ですよね?」
「多分、そうだと思いますけど」
「髪長いし、何か変わった人ですね」
「確かに少し変わった方ですね」
そのような長髪で上司には怒られないのだろうか——菖蒲はぼんやりとそのようなことを考えた。苦情を入れられそうな風体だと思いながら見ていると、かの人物は菖蒲を目指して音もなく近付いてくる。思わず身構えると、彼は警察手帳を二人に差し出した。
「蓮父警察署の六道です。発見者の方ですよね。少しお話を伺いたいのですが」
先ほどまでとは打って変わって落ち着いたその様子に、菖蒲は肩透かしを食らったような気分になった。
「最初にお名前と生年月日に住所、それからお勤め先をお願いしても?」
「じゃあ自分から」
未谷もまた切り替えが早いのか、さっさと運転免許証を取り出して自分の身分を説明し始める。状況についていけていないのが自分だけのような気がして、菖蒲は酷く心細くなった。
「……未谷さんですね。ありがとうございます」
六道はバインダーの上に載せた用紙に何かを書き込むと菖蒲の方へ体を向けた。
「すみませんが、お名前と生年月日と住所、それからお勤め先を教えていただいてもいいですか」
「あっ、はい、ええと」
菖蒲は財布に入れてある免許証を出そうとして、リュックが車にあることを思い出した。行き場の失った手をそろそろと下げて前で組む。
「早乙女菖蒲です」
「ショウブ? どういう漢字です?」
「菖蒲の花と同じ字です。草冠の……」
「ああ、菖蒲湯のね」
六道は納得したようにペンを走らせる。菖蒲湯でピンとくる人なんて珍しい——と思いながら、菖蒲は「そうです」と頷いた。
「生年月日は平成九年の六月二十二日、住所は市内の——」
菖蒲は住所を言い終わると首から下げたままになっていた名札を示した。
「葦船市役所に勤めています」
「ああ、市役所の方なんですね。どこの課に?」
「企画部の地域推進課です。今日は空き家バンクの現地調査に来ていて、それで……」
「第一発見者になったと?」
「まあ、そんな感じです」
「もう少し詳しくお伺いしてもいいですか」
予想に反して普通に仕事をする様子に驚きつつも、菖蒲は自分たちが村に来てからの一切合切を説明する。
「その後は……僕は倒れていたので記憶がないのですが」
「通報してしばらくしてから、午乃さん——午乃葵さんでしたっけ、確か。午乃さんがたまたま様子を見にこちらまで下りてきてくれたんです。それから駐在さんが来て、警察の方々が来られて……って感じですね」
「そうですか」
六道はそう言うとペンを顎に押し当て、一瞬難しそうな顔をした。しかしすぐに真顔に戻り、狐を思わせる蠱惑的な目で菖蒲の方を見る。
「もう少ししたらお帰りいただけると思いますから、しばらくお待ちください」
六道はそれだけ言うと踵を返した。
「妙なんだか、普通なんだか、わからない人だな……」
菖蒲は誰にも聞こえないような小さな声でぽつりと呟いた。
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