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欺瞞の幼生
「ごめんね、早乙女君。何だか大変なことになったんでしょう?」
「いえ……まあ、大変は大変でしたけど、係長のせいじゃありませんから」
仕事で訪れた旧常世村地区で事件に巻き込まれた数日後。市内は事件で少しばかり騒がしいものの、当の菖蒲はすっかり日常に戻りつつあった。
「怖いよね。だいぶ遺体が破損してたって新聞で読んだよ」
「あ、例の水難事故のやつですか? 可哀想ですよね。まだ五歳の男の子だったとか」
「本当に事故なんですかねぇ。母親がちょっと目を離した隙に、五歳の子どもが川まで遊びに行けます?」
「五歳児だったら行けると思うなぁ」
「本当の親子じゃないとかって噂でしょう。やっぱり実の子じゃないっていうので、しっかり面倒見てなかったんですかね。アヤメちゃん、何か知らないの?」
隣のデスクに座る主任に肩を小突かれて、菖蒲は曖昧に笑った。
「いやあ、僕も詳しいことはまったく。ショックで倒れちゃったぐらいですし……」
「アヤメちゃんは本当にか弱い乙女だなぁ」
主任は愉快そうに声をあげて笑った。菖蒲もまたか細い声で笑う。とてもではないが笑っている主任の顔を直視できず、彼のネクタイの柄をぼんやりと見つめていた。
このところ菖蒲の周囲で交わされる会話はいつも事件についてであった。家では同居の母親にあれこれと心配され、職場では渦中の人物として新聞にも載らないような情報を提供することを期待される。警察には発見したときの状況を何度も質問されて、そのたびに同じ内容を説明していた。そろそろ思い出すのも苦痛に感じ、新聞もテレビも一切見ていない。
葦船市は小さな町である。小さな町における人の死は、住民たちにとって身近なものだ。今回の事件が都市部で起きていたら、きっと彼らは不安の声をあげて、同情の声を寄せていただろう。
ところが旧常世村地区となれば話は変わる。地理的にも歴史的にも葦船市とは距離がある。常世村は確かに葦船市の一部になったが、それは形式上に過ぎない。常世村は独立した地域であるという認識が今でも市民の中に根付いている。だからこそこの近くも遠い場所で起こった事件を第三者として観測し、娯楽として消費する人間が多いのもまた事実であった。
「そうだ、早乙女君。午乃さんの空き家の件なんだけど、早乙女君が大丈夫ならこのまま担当してもらっていい?」
「かまいませんけど……お子さん、まだ体調が悪いんですか?」
「ううん、もう元気よ。早乙女君にもそろそろ空き家バンクの仕事を覚えてもらおうと思ってたから。ちょうどいいかなと思って」
「わかりました。それじゃあ引き続き僕が担当するということで未谷さんにも連絡しておきます」
「そうそう、もう未谷さんから連絡が来ててね。メール、転送しておいたから確認してもらっていい?」
「はい、わかりました」
係長が仕事に戻ったのを見て、周囲も黙々と作業に戻っていく。事件について尋ねられるような雰囲気ではなくなったことに安堵を覚えつつ、菖蒲はメールボックスを開いた。未谷からのメールには午乃家における現地調査の結果が書かれており、菖蒲はひと通り資料を読んで首を傾げた。
「瑕疵物件……」
「いわゆる事故物件ってやつですよ」と電話の向こうで未谷が言った。結果を確認したという報告も兼ね、菖蒲は未谷にいくつか結果について尋ねようと電話をしたのである。
「その、事故物件の可能性があるということですか」
「ないとは言い切れませんよね。リフォームしたという話もないのに、あの部屋だけ壁も床も妙に新しかったですし。おまけに間取り図と実際の部屋の大きさが異なっているわけですから」
「あの部屋で誰かが亡くなった可能性があると?」
「心理的瑕疵物件かどうかまではちょっと。単に自分で増築したとかリフォームしたとか、そういう可能性もありますし。こればかりは聞いてみないとわかりませんねぇ」
「午乃さんからそういうお話は伺っていないのですが……」
「まあ、前回の現地調査はいろいろあってごたつきましたから、もう一度調査した方がいいかもしれませんね」
正直なところ、今の心持ちで常世村へ行く気にはとてもなれないが、だからといって仕事を放り出すわけにもいかない。未谷の言葉通り、菖蒲は再度午乃家を訪れることを決めた。早速持ち主である午乃葵に連絡すれば、今日でもよいと言う。菖蒲は未谷と現地で落ち合うことを約束して地域推進課を飛び出した。
公用車の鍵を借りようと管財課に立ち寄れば、職員の一人に呼び止められる。菖蒲が不思議そうな顔で近寄ると、彼は外の駐車場を指さした。
「この前、カーナビが故障しているって報告してくれたの、君だよね」
「えっ? ああ、はい、そうです」
事件の夜、管財課へ車の鍵を返すついでにそのような話をしたことを思い出す。職員は顔色一つ変えることなく、事務的に鍵を差し出した。
「あの後確認してもらったんだけどね、どこも悪くなかったみたいだから」
「そうでしたか。それは……お手数をおかけしました」
菖蒲はどのように返答したものかわからず、とりあえず頭を下げた。内心首を傾げながらも鍵を受け取り、庁舎を出る。
借りた車は先日と同じものであった。カーナビに目的地を設定して運転を始めたが、職員の言葉通り何事もなく案内は進んでいく。隣に人を乗せているというプレッシャーもなく、カーナビも壊れる様子がなかったので、先日よりも道のりは快適なものであった。強いて不安を挙げるとすれば、村に近付くにつれて警察官の姿を多く見るようになったことぐらいである。
川原で作業をする警官たちを横目に、菖蒲は車を走らせる。先日は人っ子一人見当たらなかった駐在所には数台のパトカーが駐車されており、制服姿の警官がシルバーカーを突き合わせている婦人たちの輪に混ざっているのが見えた。
駐在所を通り過ぎて午乃家に向かえば、見たことのない軽自動車が停まっている。すでに未谷が到着していたのだろうと思っていると、小さなドアから窮屈そうに身を屈めて未谷が車を降りるのが目に入った。
「お待たせしてすみません」
「いや、自分も今来たところですよ」
テンプレートのような会話だと思いつつ、菖蒲は家の周囲を見渡した。
「午乃さんはまだ来られてないみたいですね」
「そうみたいですねぇ」
家主がいなければ調査の仕様もない。菖蒲は途端に手持ち無沙汰になって、意味もなく川平家の方角を向いた。
「今頃大変でしょうね」
菖蒲の言葉につられるように、未谷も川平家の方へと振り向く。
「平和な村で起こった一大事件ですからね」
「やっぱり事件なんでしょうか」
「水難事故であんな死に方はしないと思いますよ」
「川に流される途中で損傷したとか、そういうわけでもないんですかね」
「こう言うのも憚られますけど、あれは切断されたんだと思いますよ」
未谷の言葉で生々しい記憶が蘇り、心臓が跳ねるように動き出す。菖蒲はおそるおそる未谷の横顔を盗み見た。
「自然の力に砕かれたにしては綺麗すぎるというか。ほら、生ハムの原木ってあるじゃないですか。あれを切り落とした後を思い出しましたね。もちろんあんなにすっきりとした切断面ではなかったんですけど」
未谷は顔色ひとつ変えずに喋った後、ふと菖蒲の顔に視線を向けた。
「あれ、早乙女さん。顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
「えっ? ああ、すみません……ちょっと」
菖蒲は額から流れ落ちる汗を手の甲で拭った。人間の手足が生ハムのように切り落とされていくのを想像して気分が悪くなる。
「そういえば午乃さん来ませんね」
露骨に話題を逸らせば、未谷もそれ以上事件について話すこともなく、「そうですね」とだけ頷いた。そうしてお茶を濁していると、キィ、キィという金属が擦れるような異音が聞こえて、菖蒲は音の鳴る方へと振り向いた。二つ結びの少女が髪を揺らしながら、懸命に自転車を漕いでいる。
「あ、午乃さんの娘さんじゃないですか?」
「どうかしたんですかね」
尽は坂道を苦しそうに上りきると、庭先で自転車から降りた。そうして荒い呼吸のまま自転車のスタンドを下ろし、呆然と見つめる二人に走り寄る。
「すみません! 学校から急いで来たんですけど間に合わなくて」
菖蒲は突然のことに面を食らう。何歳も年下の少女に頭を下げられてどのようにすればよいかわからず、菖蒲は「大丈夫です」と情けない声で頭を下げ返すことになった。
「お母さんはどうかしたの?」
未谷は至って冷静なようで、少ししゃがんで尽の目線に合わせると首を傾げた。
「母は仕事です。市役所の職員さんが来るから、私が代わりに家の鍵を渡すようにと」
「ああ、なるほど」
未谷は尽の言葉に頷くと、「いいんですかね?」と言って菖蒲を見た。
「……どうでしょう? 現地調査は一応、家主さんか申請者の方の立ち会いのもとで行うのが原則ですから。代理の方を立てるとしても未成年者でいいのかはちょっと……」
「そうなんですよねぇ。ご本人が良いっておっしゃってるなら良さそうなものなんですけど」
尽は大人二人が話しているのを不安そうな表情で見つめていた。菖蒲もそれにつられ、困った顔で未谷の目を見る。
「ここまで来たわけですし、見るだけ見ましょうか」
「そうですね。そうしましょうか」
未谷の言葉に菖蒲が頷くと、尽はホッとしたような表情になって鍵を手渡した。未谷はそれを受け取ると、玄関扉の鍵穴に差し込んだ。
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