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「尽ちゃんだったよね? このお家っていつから空き家だったか知ってる?」
玄関扉がガラガラと音を立てながら開かれる。未谷の質問に、尽は何かを思い出すように斜め上を見つめた。
「大体一年前ぐらいだと思います」
「それまではこの家で暮らしてたの?」
「いえ、この家は祖父母の家です。私の家はあっちの方にあるので」
尽が駐在所を真っ直ぐ行く方の道を指さすと、未谷は納得したように相槌を打った。菖蒲は未谷の後に続こうとして、尽が土間で立ち尽くしたまま動かないことに気付く。知らない成人男性二人についていくのも怖いだろうとは思ったが、一応の立会人である彼女をこのまま置いて家に入るのも躊躇われた。
「そんなに時間はかからないと思いますけど、ここで待ちますか?」
「えーと、どうしようかな……」
尽は独り言のように呟くと、しばらく考え込むように俯いた。
「私、立ち会った方がいいんですか?」
「うーん、お家の中にさえいてくれたら、それで大丈夫だとは思うんですけど……」
「じゃあここで待ってます。母にあんまり入っちゃだめって言われてるので」
「そうですか」
菖蒲は軽く頭を下げるとその場を後にした。彼女の母親は祖父母と折り合いが悪かったのだろうか。そのようなことを邪推しながら件の部屋へ向かう。
「やっぱり壁紙張り替えてますよ」
菖蒲が部屋に入ると、未谷は開口一番そう言った。
「それも施工業者に頼んだっていうよりは素人がやったって感じですね。雑というか。しかもこの壁だけですよ」
未谷は本棚の背後にある壁紙を指さす。菖蒲は他の壁紙と見比べながら首を傾げた。
「言われてみれば確かに新しい気がしますけど、どうしてこの面だけ張り替えたんでしょう」
「それはやっぱり、ここだけ汚れるような何かが起きたとか」
未谷は壁を確かめるように手でなぞった。本棚と天井にある隙間に触れる彼の身長が菖蒲は羨ましくなる。何度か壁を押さえると未谷は眉間に皺を寄せた。
「どうかしましたか」
「いや……この壁、妙に薄いなと思いまして」
未谷が壁を三回ほど叩くと確かに軽い音が聞こえた。壁というよりは板を叩いているようで心許ない。未谷は顎に手を置いて少しの間思案するような素振りを見せると、「本棚、動かしてみましょうか」と菖蒲の方を振り向いた。
「えっ? ああ、はい」
咄嗟に返事をして少し後悔する。勝手に部屋の家具を動かすのは躊躇われるが、返事した手前手伝わないわけにもいかず、菖蒲は本棚に並べられた本を取り出していく。その中には職場で読んでいたような葦船市に関する郷土文献もあった。個人で蒐集したことを考えればかなりの量で、この本の持ち主はよほど郷土愛が強かったのだろうと菖蒲は一人で納得する。
「それで……どうですか?」
未谷が露わになった壁をペタペタと触る。菖蒲もそれに倣って意味もわからず壁に触れてみる。強い衝撃を与えれば壊れてしまいそうな感触であった。
「この向こうに何かがあるような気がしませんか」
菖蒲は首を捻る。よしんば未谷の言う通りだったとしても確かめる術が菖蒲にはない。これ以上無理に調査する必要性も感じず、引き揚げるのが無難な選択肢のように思えた。不審な点があるので空き家バンクに登録するのは難しいかもしれないが、それは自分が預かり知るところではない。
「異常があるということで、もう報告しちゃいませんか。これ以上調べようにも午乃さんがいらっしゃらないわけですし……」
菖蒲は下を向いて口籠もりながら未谷に話しかける。未谷はその言葉を聞いているのかいないのか、ふいに部屋の隅に置いていた自分のリュックからステンレス製の水筒を取り出した。
「早乙女さん」
——生ハムについて喋っていたときと同じ目をしている。
菖蒲は未谷の目を見ながら、ぼんやりとそのようなことを思う。
「今から起こることは事故です」
言葉の意味が理解できず、菖蒲は曖昧に返事をする。未谷は徐に水筒を振りかぶると、涼しい顔で壁を殴り始めた。菖蒲は一瞬何が起こったのか事態を飲み込めずにいたが、ハッと我に帰ると短く悲鳴をあげた。
「ちょっと! 正気ですか! 何してるんです!」
菖蒲は声を荒げて未谷に後ろから飛びつくが、体格差が大きいために止めることは敵わない。突然の奇行に菖蒲が目を白黒させていると、未谷は「あ」と小さく声をあげた。
「あの、大丈夫ですか? 大きい音が聞こえたんですけど……」
尽が廊下からひょこりと顔を覗かせる。不安そうな表情で見つめる彼女に、菖蒲は大げさな身振り手振りを交えながら弁明した。
「えっと、これは事故というか、あの……ちょっと、未谷さん!」
耐えきれずに菖蒲が未谷の方へ振り向けば、当の本人はどこ吹く風といった様子で穴の空いた板を見つめている。
「見てくださいよ、これ」
未谷は悪びれる素振りも見せずに、穴の向こうを指さした。菖蒲は半ば呆れながらも、未谷の言う通りに穴の中を覗き込んだ。
暗がりの中には直方体の箱のようなものがあった。観音開きの扉がついた箱の前には、すっかり枯れ果てて丸まった植物の葉が白い皿の上に載せられている。箱の両脇には陶器の瓶が対になって配置されていて、そこにも萎れた植物が挿されていた。
「神棚……ですか?」
神棚、と断言するにはあまりに菖蒲の知っているそれとは違っていた。しかし菖蒲にはそう表現するほかなかった。米を盛るはずの皿には枯れ葉が一枚載っているだけであったし、酒や水の類も置かれていない。そもそも手入れされている様子がない。菖蒲は嫌な予感がして咄嗟に身を引いた。
「神棚……なんですかねぇ」
未谷はまじまじと神棚を観察した後、尽の方を向いた。
「尽ちゃん、これ何か知ってる?」
尽は困惑したような顔をしたが、遠くから暗がりをひょいと覗き込んで「知りません」と首を横に振った。
菖蒲はこの状況でまだ質問をしている未谷のことが信じられなくなる。壁の向こうにあった神棚よりも、壁の穴を各方面に対してどのように説明するべきかで頭がいっぱいになっていた。
「どうしてわざわざ神棚を隠してたんですかね。見えるところに普通は置きません?」
「さあ……暗いのが好きな神様だったとか? いや、すみません。これは適当に言いました……でも、ほら、信仰は自由なので……」
「暗いのが好きな神様なんているんですかね? どこかに名前とか書いてないかな」
「一般的には神棚の中に神札が祀られていますけど……それよりも未谷さん、この壁の穴——」
「あ、お札じゃないですけど、面白いものがありますよ」
未谷は暗がりの中に体を突っ込んでごそごと探った後、何かを摘んで菖蒲の顔の前に差し出した。
「うわっ」
菖蒲は思わず後ろに仰反り、その勢いのまま尻もちをつく。そうして早鐘のように鼓動を打つ胸をギュッと押さえた。
「青虫……?」
尽は廊下から顔を覗かせたまま、不快感を露わにした表情で呟く。
「アゲハチョウの幼虫じゃないですかね。あ、もしかして早乙女さん、虫苦手でしたか」
未谷は申し訳なさそうに笑った。菖蒲はもう何も言い返す気になれず静かに立ち上がる。
「苦手ですね」
かろうじてそれだけ絞り出すと、菖蒲はため息をついた。
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