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「そもそもどうして青虫なんか持ってるんですか」
菖蒲は半ば非難のつもりで未谷に質問を投げかけたが、未谷は興味深げに青虫を観察しながらあっけからんと答えた。
「箱の中に入ってました」
「開けたんですか……?」
「開けましたけど。何かまずかったですか?」
「いや、神様に失礼というか……」
「でもお札じゃなくて幼虫が入ってたわけですから、神様じゃないんじゃないですか? それともこれが神様なんですかね」
「それはわからないですけど……というか、その虫って生きてるんですか?」
未谷が青虫の体を指で突く。ぶよぶよとした感覚が指に伝わってきそうで菖蒲は顔を背けた。
「よくできた標本ですね」
「とにかく箱の中に戻しておきましょうよ。それが何を表しているのか知りませんけど、その虫を信仰している人がいるのかもしれませんし」
「何を信仰していようがどうでもいいんですけど、どうして隠す必要があったのか気になりません? ねえ、尽ちゃん。ここって誰の部屋だったのかな?」
名前を呼ばれた尽は一瞬肩を震わせて、それからおずおずと口を開いた。
「私、あまり家に入らないように言われていたので誰の部屋までかは……」
「そうなんだ。そういえば、一年前に空き家になったって言ってたよね。おじいちゃんとおばあちゃんはどうされたの?」
「ちょっと、未谷さん!」
あまりにデリカシーがないと思い、未谷の服の裾を引っ張る。抗議の意味を込めた行動であったが、未谷はそれを意に介すことなく尽の答えをじっと待っていた。
「祖父母は一年前に相次いで亡くなりました。それでこの家が空き家に……」
「どうして亡くなったかわかる?」
「……あの、どうしてそんなこと聞くんですか?」
尽は不安げな顔で未谷を見る。菖蒲は居た堪れない気持ちになってこの場を逃げ出したくなったが、未谷は依然として笑顔のままであった。
「この部屋、改築された跡があるんだけどね。どうして改築したのか理由が知りたいんだ。もし誰かがこの部屋で亡くなったのが原因だとしたら、次この家を買う人に知らせてあげなきゃいけないんだよ」
「そう……なんですね。でも祖父母は病院で亡くなったので、この部屋では誰も……いや、うーん……」
尽はしばらく唸っていたが、やがて未谷に向き直って首を横に振った。
「いえ、やっぱり誰も亡くなってないと思います。私の知る範囲では、ですけど……。この家のことは私よりも母が詳しいので、母に聞いた方が間違いないと思います」
「そうなんだ」
未谷はあっさりと尽の言葉を了承すると、彼女からは興味を失ったようで本棚へと視線を向けた。そのまま本棚を動かそうと棚に手をかける。一応手伝うべきかと未谷に近寄った菖蒲は、有象無象の本の中に見覚えのある題名があることに気付いた。
「あっ」
「どうかしました?」
菖蒲は尽に向かって「少しお借りします」と断ると、本棚から葦野民話全集と背表紙に書かれた本を取り出した。
「思い出しましたよ、未谷さん」
「はあ。何をですか」
「神様ですよ。ほら、このページ見てみてください」
菖蒲は古くなって赤茶けたページを指さす。未谷はしばらく本を覗き込んでいたが、やがて眉間に皺を寄せたまま顔を上げた。
「読みづらい文章ですね」
「そういう話じゃなくてですね……ここ! ここですよ。昔の常世村にですね、大きな箱を背負った女がやって来るんですよ。それで村人が箱の中身を尋ねたら、女が『常世神がいらっしゃいます』って答えるんです」
「常世神というのは?」
「箱の中にいたのは赤ん坊ほどの蚕みたいなものだったと書かれてますし、多分それが常世神だったんじゃないでしょうか」
「青虫と蚕じゃあだいぶ違いますけど……まあ、箱の中に何かの幼虫を入れるという点では同じなのかなぁ。ところでこの本は何なんですか?」
「葦船市周辺の昔の民話を集めたものですね。ひょっとするとこの虫を祀るというのが、常世村に根付いた土着信仰なのかもしれません」
「そうなるとますます神棚を隠していた意味がわからないですね。文章に残っているぐらいなら隠す必要もないじゃないですか」
「どうして隠していたかまでは僕にもわかりませんけど……」
「とりあえず、後日午乃さんに聞くことにしませんか。この事故に関しては自分の方で対処しておきますから」
故意の間違いじゃないか、という言葉を飲み込み、菖蒲は渋々といった表情で頷く。人の家を破壊しておいて素知らぬ顔をする未谷は、菖蒲にとっては隠されていた神棚よりもよほど得体の知れぬものであったし、一刻も早くこの場を立ち去りたい理由でもあった。
菖蒲は尽に「今日のことは僕たちからお母さんに説明しておきますから」と、尽が母親に今日の出来事を喋らないようにやんわり釘を刺しておく。尽がそれを本当に了承したかはわからないが、一応は首を縦に振ったため菖蒲はひとまずの安心を得ることができた。
「それじゃあ、お気をつけて。鍵、ありがとうございました。お母さんには、またご連絡するとお伝えください」
「わかりました」
菖蒲が尽を見送っている間も、未谷は携帯電話を覗き込みながら唸り声をあげていた。
「未谷さん、僕はそろそろ市役所に戻りますね」
菖蒲の呼びかけにも未谷は、ああとも、ええともつかない生返事をするばかりで、スマートフォンの画面ばかりを見つめていた。未谷があまりにも集中して見ているので、菖蒲は半ば呆れながらも何を見ているのだろうかと画面を覗き込んだ。画面には先ほどの神棚のようなものが映し出されており、菖蒲は思わず顔を顰める。
「うわっ、写真撮ったんですか」
菖蒲が自分のスマートフォンを盗み見たことを咎めることもなく、未谷は「撮りましたよ」と平然とした顔で言い放った。
「何だか罰が当たりそうで嫌じゃないですか?」
「神棚の写真を撮ることが? 別に嫌だとも怖いとも思いませんねぇ。写真を撮ったぐらいで怒ってたら神様もキリがないですよ。第一、自分はこの神様を信じていないので。信じていなければ、いないのと同じですよ」
「はあ、そういうものですかね」
「今日のことですけど、市役所さんの方にも黙っておいてくださいね。もう少し調べたいことがあるので」
菖蒲は少し悩んで、それから小さく頷いた。壁に穴を空けたなどと正直に告白して、上司や家主から叱責されるのは避けたい。黙っていたところで事態が好転するはずもないが、未谷がやったことなのだから本人が責任を負えばよいという気持ちが責任感に勝った。
自分の車に乗り込んでからも調べものをしている未谷にとりあえず別れを告げると、菖蒲はさっさと車を発進させた。駐在所では相変わらず警官たちが忙しなく働いており、労いの言葉を心の中で呟いて通り過ぎていく。
しばらく車を走らせて、ダムに差しかかった頃、車が突然減速し始めた。やがてアクセルとハンドルが鉛のように重くなる。
「何なんだよ、クソッ」
公用車にドライブレコーダーが積まれていることも忘れて思わず悪態をつく。車が故障したという初めての出来事にどのような対処をすればよいかわからず、菖蒲はがむしゃらにブレーキを踏んだ。
車はのろのろと歩みを進めた後にピタリと動きを止めた。菖蒲はギアをパーキングに入れてサイドブレーキをかけると、汗だくのまま座席に倒れ込む。
——この後どうすればいいんだ? とりあえず係長に電話して……いや、修理業者を呼ばなきゃいけないよな。そもそもここからどうやって帰ればいいんだよ。どうして急に壊れたりなんか……。
思考が濁流のように脳へと流れ込む。ハザードランプがカチカチと鳴る音だけが静かな車内に響いていた。心身共に酷く疲れたのか冷や汗が止まらない。そうして菖蒲はぐったりと目を閉じた。
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