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魔法なんていらない
日曜日の夜、俊樹は黒川から向けられる未練がましい視線に気づかないふりをしながら、床に座って帰り支度をする。昨夜着た女物の服をいつものリュックに仕舞おうとしたところで、傍らのソファに座る黒川が切り出した。
「そう言えば、同期会のパーティーでは何の仮装してたの?」
「魔女ですね。黒のワンピースにマントと帽子をかぶってただけなんで、昨日とそんなに変わらないですよ」
「結構地味な感じ?」
その言葉には、そうであってほしいという希望がうっすらと透けている。
「うーん、どうだろう。黒一色だったんで地味と言えば地味だけど、結構フリルとかついててゴスロリっぽい感じだったからそんなに落ち着いた印象ではなかったかな」
「ゴスロリかあ。見てみたかったなあ。写真は撮らないことにしてたんだもんね」
「まあそうですね」
答える前に一瞬の間があったことに、黒川は気づいていないようだった。
「次はどんなの着てくれるの? やっぱりメイクとウィッグは無い方が良いな。触れる部分が少なくなっちゃう」
俊樹は楽し気な口調の黒川を一瞬見上げて、すぐにふいと目を逸らした。
「彬之さんの前ではもう女装しません」
「はあ? なんで!」
黒川が珍しく大声を出す。
「思ってたより百倍くらい恥ずかしかったから」
自分の顔が真っ赤になるのを感じて、俊樹は下を向いた。
それを黒川が許すはずもなく、身を屈めて俊樹の顔を覗き込む。
「そういう初心なところも可愛いけど、約束は約束でしょ? っていうか、その言い方だと、他の人の前だったらするように聞こえるんだけど」
俊樹は観念して黒川と目を合わせた。
「それはまあ、時と場合によっては」
「どういうことだよ! 普通逆でしょ」
予想通りの反応だ。ここ数ヶ月で、黒川が予想以上に嫉妬深いことを俊樹はようやくわかってきた。こんな風に執着を向けられるのは悪い気分ではない。
しかし、そうだからといって俊樹は自分の考えを変えるつもりは無かった。それはそれ、これはこれだ。
何も言わない俊樹にしびれを切らしたらしい黒川は、諦めたように溜息を一つついた。
「もしかして、女装好きなの?」
俊樹は首を傾げて少し考えてみる。
「まあ、そうかもしれないですね。でも、別に可愛くなりたいとか思ってるわけじゃなくて。化粧したりとかの細々した作業が好きなんですよ。自分で言うのもなんだけど、それなりに似合う方だと思うし。まあだから、工作とかと似た感じかな。うまくできたら楽しいし、ちょっと人にも見せてみたい」
「工作……?」
理解できないという風に黒川は怪訝な顔で首を傾げた。何となくどこか子どもっぽいその仕草に、俊樹は微笑を返す。
「それじゃあ、僕もう帰りますね」
そう言って立ち上がった俊樹を、黒川は寂しげな目で見る。ちらりと時計に目をやって、仕方ないという風に立ち上がり、俊樹を追って玄関に出る。
「じゃあまた金曜日に」
黒川は返事の代わりに俊樹と唇を合わせる。遠慮がちに髪を撫でると、最後に額にもキスを落とした。
「気を付けて帰ってね」
「はい。また連絡します」
うん、という黒川の返事を聞き終わるのと同時に、俊樹は少し肌寒い夜の中に足を踏み出した。
いつも別れを惜しみ過ぎるせいで、電車に乗るのがギリギリになってしまう。今日も電車と同時にホームにたどり着いた俊樹は、端の座席に腰を下ろすと大きく息をついた。
俊樹はポケットからスマートフォンを取り出すと、カメラロールをスクロールする。一枚の写真をタップして表示させると、しばらく悩んで非表示設定を選んだ。
確かに、面倒ごとを避けるために同期の集まりでは写真は撮らせないようにしているが、だからといって写真が無いわけではない。
俊樹にとってみれば女装は一種の「作品」であり、最早それが自分の写真だという感覚すら希薄だ。それの記録を残さないなんてことはあり得ない。実は昨日も、黒川に見せる前にリモコンシャッターで自撮りをしている。
ましてやハロウィンパーティーの仮装は一年に一度の大作だ。スマホにもデジカメのデータにもちゃんと写真が残っている。
きっと一昨日までの自分だったら、何も思わずに黒川にその画像を見せただろう。だけど今はもう無理だ。
俊樹にとって、女物の服や化粧は一種の魔法だった。いつもの自分から、「作品」に変身するためのマジック。周りも皆そういう風に扱ってくれたし、実際の認識としても大きく外れてはいないだろう。
しかし、黒川は違う。黒川の視線はいつだって俊樹自身に向いていて、魔法になんて気づきもしない。彼の前では俊樹の未熟な魔法なんて何の意味もなさないのだ。
魔法なしでは、丸腰の自分のままでは、今はまだ黒川の前で可愛い恰好なんてできそうにない。
昨夜自分に注がれていた黒川の熱っぽい視線を思い出して、俊樹は膝の上に乗せたリュックに顔を埋めた。
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