魔法なんていらない

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 金曜日の夜、入浴と食事を済ませてすっかりくつろいだムードになったところで黒川はソファに座る俊樹にコーヒーカップを手渡し、何でもない風を装って話を切り出した。 「藤本君ってわかる?」  怪訝な顔で俊樹が黒川を見上げる。 「ああはい。僕の同期の、ですよね? そうか、そう言えば彬之(あきのぶ)さんの部署だったっけ」 「うん。っていうか、直属の部下なんだけど」 「あ、そうなんだ」  黒川はソファの俊樹から少し離れた位置にどかりと座った。 「なんでも、先週はお楽しみだったそうじゃない」  黒川の態度に何か不穏なものを感じ取った俊樹は一瞬身を固くして、すぐにばつの悪そうな表情を浮かべると、黒川から目を逸らした。 「そうですね、楽しかったですよ。久々に会う人も多かったし」 「ずいぶん気合の入った仮装だったんだってね」 「ああまあ、はい。やっぱりやるからにはちゃんとしないと、って思うから」 「僕も見たいなあ。可愛い服着てるとこ」  恨めし気な視線を投げかけた黒川に、俊樹はこともなげに即答した。 「別に良いですよ。部屋の中だけでしょ? あの時着た服は借り物でもう無いから普通の服になるけど、それで良いなら明日一旦帰って準備します」  拍子抜けなほどにあっさりと了承されてしまったことに驚き、黒川は大きく瞬きをした。 「え、本当にしてくれるの?」 「あれ、本気じゃなかった?」 「いや、本気だよ。ただ、もっと抵抗されると思ってたから」 「学生時代に学祭とかで何回もしたから、今更どうとも思わないですね。化粧もします? この前使ったのがまだあるけど」 「えっ、いや、そこまでは……。いやでも、どうしようかな……」  思いがけない俊樹の提案に、黒川は腕を組んで考え込んだ。素顔のままで女物の服を着ているところを見たい気もするし、クオリティの高い女装を見てみたい気もする。しばらく迷って、黒川はようやく顔を上げた。俊樹の顔には些か呆れたような表情が浮かんでいる。 「じゃあ、一回目は化粧して、二回目は素顔で着てよ」 「二回もするの?」 「うん。いや、僕は全然何回でも良いんだけど……」  俊樹はふっと笑うと、じゃあ今回は化粧道具も持ってきますね、と答えた。  土曜日の夕方、一度自分の部屋に戻った俊樹は、大きめのトートバッグを持って黒川の部屋に帰ってきた。 「もっと大掛かりかと思ったけど、そうでもないんだね」 「別にドラァグクイーンをやろうってわけじゃないんですから、大したものありませんよ」  そう言われてみれば、これまで付き合ってきた女性たちも、泊りの度に大荷物を持っていたわけではなかったということを黒川は思い出した。 「すぐに着替えれば良い?」 「ああうん、まあそうかな」  黒川は余裕のある素振りでそんな風に答えたが、内心では着替えた俊樹の姿を早く見たくて仕方がなかった。 「じゃあ支度してきますね」  俊樹はそう言って洗面所へと消える。  どれくらいかかるものだろうか。黒川はそう思いながらテレビのスイッチをつけた。
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