演じる猫は見ていた

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「旦那様がお見えです」 その一言に、食後の緩んでいた空気に緊張が走ったのを私のヒゲは逃さなかった。メイドたちが強張った顔をするのにつられて私も仰向けに寝っ転がっていた姿勢を正す。 「おはよう、シャーロット」 「おはようございます、お父様」 朝から厳めしい顔をして現れた男性がこの家の旦那様。 侯爵家の当主であり、この国の宰相閣下。その厳しさからついたあだ名は泣く子も黙る鬼の宰相。 一部の乱れもなくまとめられた髪にすらりと高い身長。微笑みさえすれば美丈夫なのに、お嬢の前ではいつでも睨むような表情が浮かんでいる。 「今日は殿下がお見えになる。侯爵家の名に泥を塗らぬようしっかりとやるように」 「はい」 娘の前だというのに、にこりともしない。あまりの冷たさに、この部屋だけ冬に戻ったのかと思った。 でもこの旦那様もまた、演じていることを私は知っている。 今日の旦那様はお城には行かずに屋敷でお仕事の予定らしい。私はお嬢がピアノの練習をしている間は昼寝の時間だ。どこで寝よう、今日は旦那様の書斎がいいかな。 書斎を覗くと、当たり前だけど旦那様がいた。でも休憩中みたいだから遠慮なくお邪魔します。 どれだけ忙しくとも、旦那様は休憩のお茶の時間だけは欠かさない。上が休息をとらないでいると、下の人達がとりにくいからだという。 でもそこに別な理由があるのを知っているのは、ごく少数の側近だけだ。 私は一人がけのソファに寝転んだ。 旦那様は人間には厳しいけれど、猫には厳しくない。 ただし甘いというわけでもない。なにせ、目の前で愛想を振りまいてみても見向きもしないから。 休憩中ともなると、それは顕著だ。 理由は一つ。休憩中の旦那様は猫に構う暇もない程忙しいから。 執事がお茶を用意する間、彼はいつも写真を眺めている。 「見ろ。相変わらず可愛いな、私の娘は」 「さようにございますね」 「この目元。妻にそっくりだ。なんと愛らしい……」 とんでもなくデレデレしてる。泣く子も逆に黙りそう。 傍に控える執事のおじさまは、旦那様を慣れた様子で受け流す。 旦那様はお嬢を目の中に入れても痛くないほどに溺愛している。でも、それは時として弱みになり得るから、誰にも悟られないよう、普段は厳しい当主を演じているのだ。 「今朝の挨拶、少し厳しすぎたか。ただでさえ緊張しているだろうに、励ます言葉一つやらない冷たい父だなどと思われたら……」 「旦那様、お嬢様は大変聡明でいらっしゃいます。わかっておいでですよ」 「だと良いのだが……」 ひとしきり写真のお嬢を愛でた後、大事そうにテーブルに置いた旦那様がティーカップを持ち上げた。 カップが割れそうなほどの鷲掴みで。 「私の……私の可愛いシャーリーがどうしてあんな小僧に……っ」 「旦那様、カップが割れます」 「そうだな。シャーリーがあの小僧を気に入ってさえいなければ、どんな手を使ってでも阻止したというのに!」 「旦那様」 ちょっとは執事の言うことも聞いてあげて、旦那様。あとカップが可哀想。 「いっそ嫁ぎたくなくなる程に甘やかすか。ずっとお父様の元に居ればいいのだ」 落ち着きなさいな。 ダメ元で言ってみたけど、効果はなしだ。旦那様は机に拳を付けてぶるぶる震えている。 かと思えば、不意にゆっくりと身を起こし深くため息をついた。 「……駄目だな。甘やかすだけではあの子の為にならん」 そこには凛とした当主の姿があった。娘を溺愛しすぎるあまり何かを踏み外しかけていた父の姿はない。 散々妄想が暴走しても、ちゃんと演じるべき役に戻ってくる。さすが、鬼の宰相様。自分にも厳しくていらっしゃる。 まあ、あそこまで酷いと実の娘でも気持ち悪いと思うだろうから、厳しいパパを演じてて正解だと思う。
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