薄幸の荒野

2/2
前へ
/2ページ
次へ
幼少期 今日、マスコミで日韓トンネル実現の為、旧〇一〇会に多額の〇金があったのかとの問題で騒がれている佐賀県唐津市内で 歴史的にゆかりのある豊臣秀吉公が朝鮮出兵 の時、陣を取った肥前名護屋で玄海灘の半農半漁小さな田舎町で、四男三女で七人兄弟の 三女として貧困の家庭に生まれた。 母は昭和二十六年病で42歳という若さで旅立った。 私が七歳の時だった。 貧しさの故に病院にも行けずまともな治療を受ける事なく床に伏す日が多かったと後々に耳にした。 母が亡くなってから、二年過ぎた頃だった。白髪交じりの女の人が来ていた事が思い出される。 その人はいつの間にかいなくなった、 今にして思う事はあの女の人は後妻として我が家に来ていたのではと、、、 それから月日がどの位たっただろうか霧雨の寒い夜、叔母が蛇の目傘をさしたチョット小粋な感じの女の人を連れてきた。 その夜、女の人を父が傍らに座らせ「今日からこの人がお前たちの母親になる人だこの人の事を母ちゃんと呼べ」と強要した 私たち兄弟はその人(義母)との生活が始まった。 情ぬ仲の義母は容赦なく非情な人だった。 貧しい家の中が益々陰険になり次兄も姉も早々に家を出てしまった。 弟と二人になった私は非情な仕打ちをする義母の振る舞いに何かにつけては弟の立て板になっては、かばったものだった。 義母は漁から疲れ果てて帰ってきた父に嘘の 悪口雑言で告げ口をするのであった。 父は義母の言う事を額面通り聞き真実をしろうともしなかった。 私と弟を身動き一つもさせず正座させ1メートルの物差しで蚯蚓腫れがするまで太ももを叩いた。 私は「この義母を生涯許すものか」 と憎しみが心の底からこみ上げてきたのだった。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加