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お金も愛も返そう
大きなボストンバッグをかかえて、俺は夏目さんの部屋のドア前に仁王立ちになって立った。インターホンを押すとすぐに扉が開き、微笑を浮かべた夏目さんが現れた。
「……遅かったね。あれ、どうしたの? 瞼が腫れてない?」
「いえ、あの……」
「手がつめたいね。さ、入って。ビーフシチューを作ったんだ」
食欲をそそる香りが扉から流れてきて、鼻孔をくすぐる。広々としたリビングはモダンテイストに統一されて、モデルルームのようだった。
「……お酒、飲む?」
「いいです……」
「元気ないけど大丈夫?」
「あ、いや……」
すすめられるままに、部屋のなかへ足を運んでしまう。隅々まできちんと整理が行き届いている。リビング中央のソファーに腰を下ろした。
「……ここさ、引っ越したばかりなんだ。君のために買ったマンションなんだけどやっぱり気に入らない?」
「やっ、そんな! 素敵です!」
「やっぱり考えは変わらない?」
夏目さんがワインボトルを手にして、隣に座った。言葉に窮して、俺はなんと返していいのかわからない。
「……え、いや。えっと」
「だめ?」
「は、払えないですよ」
ここの家賃は管理費込みで六十万。
もちろん月額でだ。無理だ。
いや、そういう問題じゃない。本題はそれではない。
「……そんなの僕が払うし、お金の心配は一切しなくていいんだよ?」
「いや、だめです! 夏目さんと離れたら、帰るとこなくなっちゃいますから!」
いや、そうじゃない。そうじゃなくて……。
「……そっか」
「……そうですよ」
互い肩が落ちて、ため息が重なった。
悶々と思考を巡らせていると、ポンと目の前に現金が置かれた。
「なんっですか、これ……」
「手当だよ」
は? 手当?
食事して、映画見るだけなのに。そんなんで、五十万になるわけない。あ、大人込みってことか?
「……」
「足りなかった?」
「……」
俺は会えなくなるかわりに、一発、いや数発でもいいから抱いて欲しいという気持ちが湧き上がった。
「どうしたの?」
目の前に置かれた福沢諭吉がじっとこちらを見ている。存在をかき消すように、首を横に振った。
「……このお金は、いりません」
「……もらってよ。あのさ、理久くん、クレジットカードも使ってないでしょ?」
「……そうですけど」
「使って欲しいんだ」
栓をぬいたのか、ぽんっと軽快な音が響き、ワインが注がれた。ルビーの色が揺れて、妖しい輝きを放つ。
「どうして?」
「どうしてって……。クレジットカード使ってくれないとなんだか……さ。……これじゃ、なんのために会ったか分からなくなる」
「なんのって……。それは、食事する……ためじゃないですか。お金は他で補填しているから、生活費とかも心配する必要はないですし……」
「ほかって……」
「……あ、いや。気にかけてくださってありがとうございます。でも、もうお気持ちだけで十分ですから」
差し出されたグラスを一気に吞んだ。ぐらりと視線が歪んで、空っぽの胃の中に染み込んでいく。
「そんな……。このマンションだって、本当は君にプレゼントしたかったんだ。断わる必要もないし、クレジットカードだっていくらでも使っていい。それにお金なんて……」
「……なんて?」
「いや、無粋なことだ。ごめん」
「あ、いや。夏目さん、いつも忙しいから。ほら、いつも仕事大変そうだし」
「仕事は頑張ればなんとかなるんだ。……そうじゃないね。ごめん。これじゃあ、関係を迫るしつこいおじさんだ」
夏目さんは黒革が張られたソファーへ腰かけて、口の端に困惑の色を浮かべた。
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