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「しつこいなんて。夏目さん、そんなことを思ったことなんて一度もないです」
俺は首を横にふって言った。
「……そういうことを言うのは、理久くんだけだよ。なにか他に欲しいものがあったら言って欲しいんだ」
「なにか?」
「うん」
「じゃあ……」
ためらいがちに俺は顔を近づける。端正な顔立ちと深く刻まれた目元の皺がはっきりと見える。
「じゃあ?」
「……き、キスとか」
言えた。
このタイミングだが、言えた。
「……キスか」
「?」
「いくらにする?」
「は?」
夏目さんは酒をくゆらせながら、微動だに動きもしない。
「いくらでもいいよ」
「た、ただで……」
「えっ……?」
「え?」
お互いきょとんとした視線がぶつかる。はあと深いため息が洩れた。
「……タダじゃだめだよ」
「……あの」
夏目さんは柔らかな笑みを浮かべて、残ったワインを飲んでしまう。
「やっぱりだめだ。こんなおじさんが君みたいな若い子に手を出しちゃだめだと思う」
「そんな……」
「そんな悲しい顔をしないでよ。僕みたいなおじさんにキスされても気持ち悪いだけだから。やっぱり、この関係も……」
その言葉に痛みが走り、遮るように口走る。
「……やです」
「え?」
「いやです」
「……まさか。冗談はいいよ」
「冗談じゃないです」
真剣な眼差しを送ると、夏目さんは訝しげに首をかたむけた。
「……」
「……」
「困ったな……。じゃあ……」
ちゅっと軽快な音が鳴って、唇が重なった。それも一瞬だった。
「っ」
「はい、これで終わり」
そっと夏目さんが身を引く。
ずるい、こんなんじゃ足りない。
俺は夏目さんの袖をつまんだ。顔が真っ赤になっている。柔らかな唇の感触をもう一度感じたい。
「……もう一回」
「え……」
自ら膝立ちになって、おれは唇を重ねた。我慢できずに、自分から口づけをしたのだ。
「……り、く……くん?」
「……っ」
自ら舌を尖らせてねじ込んだ。
舌先を尖らせて、俺は夏目さんの口の中で動かす。どうしたらいいのかわからず、とにかく唾液ごと吸う。
「……ずるいな」
「っ……」
ソファーの背もたれに押し倒された夏目さんの表情は硬いままだった。
「これじゃあ、歯止めが効かなくなる」
「……キスさせてください」
「……」
もう一度、唇を湿らすほどのキスをした。胸が、鐘を打つように鳴る。
「……ん」
「……っ」
上着を脱ごうとした瞬間だった。はっとなにかを思い出して、夏目さんは身を引いた。
「……理久くん、明日もバイトだったね。今日は早く帰ったほうがいい」
「いやです」
「え……」
「ごめんなさい。ウソついてました。俺、ベータで……。それで、オメガじゃなくて、姉の代わりで、……会ってたんです。ごめんなさい。夏目さんが姉の運命の番いだったなんて知らなくて、ただ飯食って金を受け取ってました。本当は夏目さんのことめちゃくちゃ好きで、抱いてほしくて、ベータじゃなかったら番いになりたかったんです。ウソついてごめんなさい。いままでのお金は返します」
ぐるぐるしながらも、一生懸命にしゃべった。早口で、舌が痺れて、もつれながらもうつむいて話した。
「……えっと」
「……ごめっ、さい」
「いや……」
「ひぐっ!」
ぼたぼたと涙が丸い染みをつくって絨毯に落ち、情けないしゃっくりまで出てしまう。本当は、俺にこんだけ貢いでいるということは愛しているということだと思っていた。でも、それは違う。
こんなにも大事な人を裏切っていた。
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