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咄嗟に声が出なかった。少女の目の前にあった死体。それは彼女の母親であった。彼女を守って死んだ母親を、彼は蹴ったのである。死体は喋らない。だから蹴られても母親は声を出さなかった。その事実に、少女は嗚咽した。
男は少女と目線を合わせるように屈んで、少女をじっと見つめた。油断したら吸い寄せられるほどの真っ黒な瞳。まるでブラックホールを目の前にしているかのような吸引力。くしゃくしゃになった少女の顔を見て、男はフッと笑みを零した。
「惨めだな」
低くざらついた声。その声を聞いた瞬間、少女は身の毛もよだつ感情を覚えた。全身で鳥肌が立っている。たった一言、発しただけなのに。
少女は男から離れようとした。でも上手く体が動かない。男は逃げようとする少女の腕を強く掴んだ。掴まれた所が痛い。でもそんな痛みよりも恐怖心が勝った。この人から離れないといけない。少女は手を振りほどこうとするが、振りほどけない。当然だ。10歳の少女と30代前半の男の力とでは比べ物にならない。
少女の額に固い何かが当たった。その黒い物体に、少女は声が出なくなる。男の頬には返り血がついていた。服にも手にも、そして銃にも。それなのに、男は笑っていた。自分が神だとでも錯覚しているかのように、朗らかな表情を浮かべていた。
悪魔だ、と少女は直感した。ヘヴンタワーに降臨した悪魔だ。天国に一番近いタワーなんて建設してしまったから、地獄に住む悪魔が怒ったのだ。
「俺の顔を見た奴は、ガキでもぶっ殺すのがポリシーなんだ」
少女は目をぎゅっと瞑る。瞑った瞬間、目に溜まっていた涙がポタポタと落ちた。カチッと音がする。少女の体が硬直する。
「憎むなら、今日ここに連れてきた親を恨めよ」
パァァンッと甲高い音が鳴った。その瞬間、少女の視界は真っ暗になった。そして、すべての記憶はこの一瞬に封じ込められた──
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