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scene 1 イントロダクション / 稽古場(昼)
「したことあんだろ、恋愛のひとつやふたつ。25にもなって」
大勢の共演者の前で投げかけられたこの質問に、どうやって答えたらいいのか、迷う。
正直、セクハラだろ、と思わなくはなかった。でも、主人公カップルの間に割って入って邪魔をする愛人の役を思うように演じられないわたしにしびれを切らした演出家の言葉を、わたしは受け止めなければいけなかった。
それが、こんなに嫌味を含んだ下衆な言い方だったとしても。
演劇に興味のある人ならたいてい名前くらいは知っているという規模の劇団。
研究生も含め、所属は約20人ほど。芸能プロダクションも兼ねていて、劇団員の半数くらいは映画やドラマのバイプレイヤーとしても活躍している。
入団4年目のわたしは、まだ主要な役をもらったことはない。映画にも何度か出演したことがあるけど、どの役もかろうじてギリギリ役名が付いている程度の脇役。でもそれも、この劇団に所属しているという後ろ盾があるからもらえた役で、たぶん、わたしでなきゃいけない理由はない。
「そんな難しいことじゃねーだろ、ただオトコを好きになっただけの話だ。たまたまそのオトコに他に本命がいたっていうだけの話だよ」
うちの劇団は、定期公演でもメインのキャストに客演を呼ぶことが多い。話題作りということももちろんあるけど、専属の演出家である田久保氏のコネクションと劇団のネームバリュー的に、ぜひ出演したいと思ってオファーを心待ちにしている役者がたくさんいるのだ。
今回のこの芝居でも、メインのヒロインは演劇経験の少ない若手女優。ドラマの経験が多く、演劇タイプの芝居には不慣れなようだった。でも、持ち前のコミュニケーションスキルと役柄にぴったりな華やかな出で立ちであっという間に劇団員たちと打ち解けて、その主役然とした存在感はさすがとしか言いようがなかった。
そんな女優と、その相手をする主役の劇団員の間に、わたしは不貞者として割り込まなくてはいけない。もちろん、ストーリーは主役二人のハッピーエンド。
わたしの存在なんて、主人公がちょっと躓く小石程度のもの。ちょっと蹴ったらすぐどこかに転がって消えてしまうような、些細な邪魔者。その程度の役なのに満足に演じられないなんて、本当に何年も芝居の勉強をしてきた役者だなんて自称していいのかと自信をなくす。
「ただの恋愛だよ、フツウの、ただの、どこにでもあるような恋の芝居だよ!」
気難しい演出家にありがちな、丸めた台本でそこらじゅうをバシバシ叩く行為。うるさいし、びっくりするし、怖いし、これだけはやめて欲しいなぁと毎回思う。自分に向けられていなくても嫌なのに。他の役者たちも、困惑したりイライラしたりしている。まあ、灰皿投げないだけまだマシか。
わたしみたいなちょい役がこんなに芝居の流れを止めて説教されて、申し訳ないなんてものじゃない。
早く田久保氏のご機嫌を回復させたくて、良い返事をしたい。是非とも、したい。でも、わたしはこの質問に快い返事をすることはできない。
「な? 何も困ることねーだろ? 思い出せばいいだけだろ? したことあんだろ!?」
答えは、ノーだ。
わたしは恋愛をしたことがない。一度も。
恋なんて、恋愛なんて、今まで一度もしたことがない。人を好きになったことがない。
というか、人を好きになる気持ちというのがどういうものかを知らない。
25にもなって。
「あー、はい。そうですね、頑張ります!」
とりあえず、口先だけ。それから、お得意の愛想笑い。これをしておけば、相手はたいてい引き下がってくれる。自慢の作り笑顔。ここはこれで凌いでおこう。
いずれ愛想笑いでは通用しない局面が来る。きっと。でも今はとりあえず、この場を凌げればいい。
とりあえず。
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