scene 10 ローラの店(深夜)

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scene 10 ローラの店(深夜)

「あっらあああ、なぁに、そのちんまいの。ペット?」  イベント会場になっていたのはいわゆるゲイバー。月に1度か2度ほど、仲のいいメンツを集めて開かれるドラァグパーティーがあって、そこに参加させてもらうという形になった。  お店に着いて早速、源太郎さんと真雪さんの知り合いのお姉様たちに囲まれた。 「あらホント、ちんちゃこいわねぇ、まぁカワイイ」 「ヤダァ、今ってもうシチゴサンの時期だったかしら」  たぶん言われるだろうな、と思っていたけどやっぱり言われた。それも、だいぶえげつない言い方で。 「なぁに、これ、源ちゃんが産んだ子?」 「はぁ!? バカ言ってんじゃないわよ! アタシは孕ませる方だっつーの!」 「えええ、じゃあ真雪の子?」 「……産んでません」 「……そうよねぇ。真雪も孕ませる方だもんねぇ」  周囲の誰もが納得の顔をして頷いていて。ここは笑うところ、だよな? 「…………」  え、そこは反論しないんだ?  ゲイ界隈のこうしたドギツい冗談は、慣れない人にとってはどこまでが冗談なのか、どのワードで笑っていいのかわからなくて、すごく迷う。  わたしはそういうのを映画とかでよく見て知っていたけど、実際にこういう現場にぶっ込まれてみたらどうしたらいいのか全然わからない。  結局、わたしはまたここでも愛想笑いが精一杯で、気の利いた返しもできないし、自分がボケればいいのか突っ込めばいいのかもわからないままだった。  それでも、ドラァグのお姉様たちは優しかった。明らかに異質なわたしを排除することもなく、冗談を言いながらもちゃんとパフォーマーのひとりとして受け入れてくれているのがわかった。  ただ、もしかしたらそれはわたしが源太郎さんと真雪さんの連れとして来たからで、そういう後ろ楯がなければここまで優しく受け入れてもらえたかどうかはわからない。  それは、会場に入った時よりも、ステージでのショーを見た時に強く感じた。  スポットライトを浴びる場所に立つ彼女たちと自分の差を、これでもかと突きつけられた気がした。  入って行けない。なんというか、わたしにはここに立つ資格がないように思えた。ステージの存在は関係ない。この場所、このお店全体での話。  信念が違う。覚悟が違う。生き様が、全然違っていた。  見せたい自分がない。これがわたしなのだと見せびらかしたい自分がない。  だから、恥ずかしい。猛烈に。  今すぐ帰ってしまいたい。 「いいのかな」  思わず呟いた。 「なぁに?」  この騒音に近いBGMの中で、源太郎さんはちゃんと拾ってくれた。 「わたしみたいなのがこんなすごいところにいていいのかな」  来てみたかった。参加したかった。  でも、いざここに来てみたら、何もかもが違いすぎて、何もかもが足りなさすぎて、恥ずかしくて消えてしまいたい。 「だって、ゲイでもないし、女だし、こんな……ドラァグクイーンの格好が似合う見た目でもないし」  いつもの愛想笑いはどこ行った。場に合わせて、空気読んで、取り繕って、上手くやれる器用なわたしはどこ行った。プロの役者のプライドは、どこに行ったの。  何してんの、わたし。 「あんた何言ってんの。そもそもがドラァグパフォーマンスは誰が何をしてもいいっていう世界なんだから。ルールがないのがルールなの。そういう世界なの」  知識としては知っていた。それなりに調べたから。でも、体感として、やっぱり自分にいろいろと足りないものが多すぎて、気持ちが滅入る。 「まぁ、ひと昔前はね、ゲイだけの世界だったけど、今はもうそうじゃないから。最近はクイーンって言わない人もいっぱいいるし。海外でもドラァグパフォーマーって自称して、女形にこだわらないパフォーマーも多いし。もちろんゲイに限らずあらゆるセクシュアリティの人がやってる。普通にノンケのオトコだってやってるわよ」  源太郎さんがステージを見据えたまま言った。 「今はね、アートなの。芸術としてドラァグは存在するの」  その横顔は、やっぱり綺麗で、ステージの光を受けてメイクのラメやグリッターが反射しているというだけではない。源太郎さんの心の強さが滲み出た、自信が形になった美しさなのだとわかる。  それがわたしには羨ましかった。 「多様性、多様性って、今の時代、世の中がどうしてこんなに多様性にこだわってると思ってるの。その多様性が最も重要視されるど真ん中の世界で、ドラァグはこうじゃなきゃいけない、みたいな枠に閉じ込められてるなんて、そんな悲しいことが許されるわけないでしょ。だからあんたが女だろうが小さかろうが、それをダメだって言う人なんかいないのよ。少なくとも、アタシの周りにはね」  ただ見つめることしかできなかったわたしに、源太郎さんは優しく笑いかけてくれた。  わたしは今まで、こんなふうに誰かに優しく笑いかけてあげたことがあっただろうか。誰かを思って、優しく接してあげたことなんてあっただろうか。  優しい人の演技はたくさんした。数え切れないくらいした。でも、辻朔弥として心から誰かに優しくしたことはないかもしれないな、と思う。 「ねぇ、朔ちゃん。今だけ。そのドラァグクイーンの姿の今だけでいいから、本当のことを教えてもらえる?」  突然、源太郎さんが真剣な眼差しでこちらを見た。派手なアイメイクの奥に隠れたその目は、まっすぐに、突き刺すようにわたしを捉えている。 「朔ちゃんは、どうしてドラァグクイーンをやってみたいと思ったの?」  いつか誰かに聞いてもらえたら、と願っていたのかも知れない。だって、それを言葉として吐き出すことに何の躊躇もない。全く。  それは本当に自然な、息をするみたいに自然なことのように思えて、それが源太郎さんが作ってくれた空気のおかげなのだともうわかっていた。 「……わたしは、物心ついた頃にはもう役者の仕事をしてて、自我が定着する以前から他人を演じることを続けてたから、アイデンティティの確立に失敗したんです。本当の自分がない。オリジナルの自分がないんです。だからいつも自信がなくて、どんなキャラにもなれる反面、確固たる自分っていうのを知らないから、もしかしたら役者としてもわたしじゃなきゃいけない理由がなかったりするのかな、とか思ってて。だから、ドラァグクイーンの姿を借りてみれば、何か、わたしがわたしでなきゃいけない理由とか、そういうのが見つかるかな、って思って」  前を向いたまま話した。すぐ横から源太郎さんがわたしを見てくれているのは、気配でわかった。でもわたしは、それに甘えて、ただ前を見て話し続けた。 「それと、もうひとつの理由は……わたしの、セクシュアリティに関係することで……」  人前で初めて口にする告白。初めての、はっきりとしたカミングアウト。  源太郎さんならちゃんと受け止めてくれるとなんとなくわかるから。 「わたしは今まで、人を好きになったことがなくて、ただの一度もなくて、誰かに性的感情を向けたこともなくて、男の人と寝てみたことあるけど全然心が動かなくて、それってアロマンティックとかアセクシュアルとかの範疇なのかな、ってなんとなく思ってて、もしかしたら知らないだけで他にぴったりなセクシュアリティがあるのかも知れないけど、どちらにしろマイノリティの人がいっぱい集まる場所に行ってみたかったというか、なんていうか、同じような思いを抱えてる人に会ってみたかったというか……仲間が、欲しかったんだと思います」  言った。言えた。全部。全て。  今のわたしの、自分でわかっていること全部。 「十分じゃない?」 「え?」  思わず源太郎さんの方を振り向くと、さっきと変わらない優しい笑顔がそこにあって、それだけでわたしはいろいろなことを赦してもらえたような気がして、涙が出そうだった。 「ここにいる理由。ここに参加していい理由」 「そう、かな」 「そうでしょ。十分」  一切の否定や拒絶のない、無条件で全てを受け入れてくれているみたいな存在。こんな人がいるんだなぁ、とぼんやり考えてしまって、源太郎さんの言葉にすぐ反応できなかった。  すると、源太郎さんがわたしの肩をトン、と小さく叩いた。 「あのさ、ステージ見てみて。あそこにいる3人。3人ともオープンだからみんな知ってるんだけど。あの右の青い髪の人ね、ボロネーゼちゃんって言うんだけど、本業は高校の化学の先生なの」  言われて見たステージの上には、カラフルなウィッグを被った派手なクイーンが3人で踊っていた。 「それから、真ん中の赤いのはクリスティーンヌ、ああ見えてゴリゴリの弁護士さんね」  説明された通りに視線を移して、その内容を確認する。 「で、左の紫の人は、ジェット。お医者さん。外科医よ。しかも、ノンケで既婚で子持ち。このお店の常連インテリトリオ」  タイプは全然違う3人だけど、みんないわゆる『いかにも』なドラァグパフォーマーで、あれはある意味、女性に寄せていないことを売りにしているのかな、とも思えるくらいだった。中でもジェットさんは見事な口髭を生やしていてその上でドラァグメイクを施してあって、その不思議な違和感が絶妙にかっこよかった。 「朔ちゃんは、今のステージを見て、あの人たちの本当の姿を追求したいと思う?」  目の前のステージの上の3人が眩しくて、本当の姿ってどういう意味だっけ、と混乱する。 「あの3人の普段の姿を偽物だと思う? 今のドラァグの姿が本当の姿で、スーツ着たり白衣着たりしてる姿は本当の姿じゃないと思う?」  ステージでライトを浴びて(きら)びやかに輝いている姿を、説明してもらった通りにそれぞれ白衣やスーツに想像で変換してみる。でも、素顔を知らないので、服装だけが白衣とスーツになっただけで顔や頭はあのままなので、ちぐはぐで笑ってしまった。想像できない。 「僕だって普段は衣装スタッフで、こういう時だけ女性のカッコして。しかも僕は普段はオネエ系でもないし、そもそもバリタチで、それでもドラァグクイーンは僕のアイデンティティの一部だから欠かせない。やめられない。撮影現場にいる僕は、本当の僕じゃないと思う? あるいは、こっちの、ドラァグな源ちゃんは偽物だと思う?」  ドラァグメイクをしたまま普段の話し方になった源太郎さんを、不思議な感覚で見ていた。すっぴんで『僕』と言う源太郎さんでもない。ドラァグで『アタシ』と言う源太郎さんでもない。でも、そこにいるのは紛れもなく源太郎さんであって、源太郎さんでしかなかった。 「ね。そういうことよ。本当の自分、なんて、それがたったひとつじゃなきゃいけない、なんて、そんなルールないでしょ。誰だってふたつ、みっつ、よっつ、いつつくらいは顔を持ってるんじゃないの?」  まだぼんやりと、でも少しずつ形を作って、なんとなくこうありたい、というような大きな世界が見えてきたような気がする。  それは自分が目指すところとまではまだ言えないかもしれないけど、今までみたいな前後も上下も左右もわからない異空間みたいなところではないことはわかった。  ゾクゾクした。嬉しくて、楽しみで、足元が浮くような感覚。  そんな気持ちを持ちながらここにいていいのだと許してもらえた嬉しさを噛みしめる。 「朔ちゃんはその顔が他の人よりちょっと多いだけなんじゃない? なんだっけ、千の仮面、だっけか。あったよねぇ、あの漫画、超好きだった。朔ちゃんにもああいう特技があるってだけのことなんじゃないの?」  本当の自分がない、ということが大きな塊となって自分の中に居座っていた時期が長すぎて、こんなことを言われてもすぐに「そっか!」と納得することはできない。でもなにか、ほんの少し、自分が立っている場所の周りにいくつかの小さな道が繋がっているように思えた。どちらへ行けばいいかはまだわからないけど、そのどれを選んでもいいのかもしれないと思えた。 「うん。なんか、朔ちゃんが綺麗な理由がわかった気がした」 「……綺麗?」  思わぬことを言われて、驚く。 「そう。すごく綺麗。あ、カオのことじゃねーよ」 「はぁ!?」 「うそうそ。顔も可愛いけど、なんかね、すごく綺麗」  たぶん、わたしの告白があまりに深刻そうだったから、そんなに重苦しくならないように気を遣ってくれたのだろうけど。 「……それは…………真雪さんのメイクが上手だから……」 「だってさ。真雪。あんたもそう思う?」  しまった。  真雪さんもいたんだった。  源太郎さんが、わたしと反対側にいる真雪さんの方を見て(たず)ねた。 「…………さぁ」  その素っ気なさすぎる返事に、真雪さんらしいな、と思う。  真雪さんはそれから、フラリと立ち去って、ひとりでドリンクのカウンターの方へ行ってしまった。  興味を持たれない、っていうのはまだいい方なのかな。嫌われていないだけマシ、なのかな。それでもいいんだけど。源太郎さんとは仲良くできてるし。  源太郎さんとだけ。  真雪さんとは、このままで、いい? 「気になる?」  源太郎さんが、意味ありげな顔で言った。 「……え?」 「真雪のこと」 「……いや、特には」  あまり深く考えたくない。今のわたしには消化できない内容な気がするから。 「ふーん。そうなんだ」 「…………」  時々、自分の言動がコントロールできなくなる瞬間があって、焦る。最近刺激が多いせいかな。 「あの子はね、ビビってんのよ。ああ見えてヘタレなの」 「ビビる? って、何に?」 「うーん、そうねぇ。本当の自分を知られちゃうことに、かな」  本当の自分。  わたしとは真逆だ。正反対。  本当の自分がなくてそれを探しているわたしと、本当の自分を知られたくなくてビビっている真雪さん。そりゃ、相性が悪いはずだ、と妙に納得した。    ふいに、源太郎さんがわたしの顔を覗き込むみたいに上半身を(かが)めた。 「真雪と仲良しになれる魔法を教えてあげる」 「え、魔法?」  そんなこと望んでないのに、という気持ちがあるはずなのに、わたしは源太郎さんの申し出を断ることができなかった。ただ、黙って、続きの言葉を待ってしまった。 「真雪さん、って呼ばないこと。思い切って真雪って呼んでごらん。それから、真雪を羨まないこと。ルックス褒めるのもダメ。あとは、卑屈にならないこと。わたしなんて、ってのは禁句ね」  真雪、って呼べばいいの?  羨ましく思わなければいいの?  わたしなんて、って言わなきゃいいの? 「これだけ守れば、朔ちゃんならきっと大丈夫」  大丈夫、って、何がだろう。  大丈夫なことを、わたしは望んでいるのかな。  何がどうなったら大丈夫ということ? 「わかった?」 「……はい」  本当はまだよくわかっていない。でも、反射的に返事をしてしまった。  わたしが一番苦手なこと。自分の本心を探ること。本当はどうしたいのかを知ること。知るために、自分と向き合うこと。自分の中身と向き合うこと。  周囲の状況に合わせて、周囲の人たちの意向を読んで、空気を読んで、その場に一番相応(ふさわ)しい言動をチョイスして発するのは得意。でも、自分を出せと言われたら、無理。  無理すぎて、苦しい。 「あんたの言うところの本当の自分っていうのがどういうことを指してるのかわかんないけど、朔ちゃんは今のまんまでいいと思うけどね」  今度は身体をしっかり起こしてだいぶ上から優しく見下ろすように言った。 「アタシは今の朔ちゃん、好きだけどね」  こんな人が家族だったら良かったな、と思う。  そのままでいいよ、と言って欲しかった。そのままのあなたが好きだよ、と、家族に言われたかった。笑われたくなかったし、がっかりされたくなかった。  源太郎さんが家族だったら良かったのに。  源太郎さんみたいな人に好きだと言われて育ったら、きっと人を好きになる気持ちがわかったかもしれないのに。セクシュアリティは生まれ持ったものだからそれに影響はないのだけど、それでもそうやってちゃんとまっすぐに愛されて育っていればもう少しマシな感覚を持ち合わせていたかもしれないのに、と思う。 「ま、アタシのこと源ちゃんって呼べるようになったらもっと好きになっちゃうかも!」  そうか。わたし、本当に人を好きになる感覚がわからないんだ。  源太郎さんのことは気に入っているし、仲良くしたいし、一緒に楽しいことをしたいと思う。だから、likeの好きではあるんだと思う。美味しいものが好き、楽しいことが好き、と同じ系列の、お気に入りの意味の、好き。  でも、それじゃあ恋人とか愛する人とかいう意味での好きか、loveなのか、と聞かれたら、それはわからない。それは源太郎さんがゲイだから恋愛はできない、ということとは違う。もし源太郎さんがバイだとして女性も恋愛対象になるのだとしても、それでもわからない。  やっぱり、わたしには無理なのかな。 「ドラァグメイクの時に本名で呼ばれたらたまんない。あんた不器用そうだから呼び分けできなさそうだから、普段から源ちゃんってのに慣れときなさいな」  わたしが、不器用そう?  そんなこと今まで言われたことない。でも、この混乱っぷりを思うと、実は本当に不器用なのかもしれない。今初めてそう感じて、これはそれなりにショックだ。 「いい? わかった?」 「はい」  また、口先だけで返事をしてしまう。そうしたいわけではないのだけど。 「それもね。友達語、使いなさいよ」 「え?」 「敬語使うなって言ってんの」  空気読める力、本当にどこ行った? 色々、諸々、ダメすぎる。 「あ、そっか。うん」 「真雪にも、だよ」 「はい」  しまった。またおかしくなった。 「……はぁ。もう。ホントに不器用だわ。そんなんで役者なんてやっていけんのかしら」  じっとわたしを見下ろしていた源太郎さん、もとい、源ちゃんが、がっかりしたようにため息をついた。  少しずつ頑張るから、気長に待っていてほしい。最近、身の回りのいろんなことの展開が早過ぎて、少し疲弊している気がする。  ちゃんとふたりについて行きたいから、ちゃんと待っていてほしい。その思いが、伝わりますように。  あれ、わたし、ふたりに、って思った?  源ちゃんに、ではなく、ふたりに?  真雪さんにも?  なんだかもう本当によくわからない。わからないことだらけだ。 「はい。これ、ドリンクのメニュー。どれにする?」  源ちゃんとの会話がディープ過ぎてわたわたしていたら、真雪さんがメニューを持ってきてくれた。自分のドリンクをもらいに行ったのかと思ったので、ちょっと意外だった。案外、気が利く人、なんだな。 「アタシはコレにしよーっと。朔ちゃんは?」 「えっと、じゃあ……コレで」 「え、あんたお酒飲めんの!?」 「……飲めますけど。っていうか、どういう意味!?」 「あはは〜、どういう意味だろうねぇ〜」  わたしと源ちゃんのコントな会話に、真雪さんは入ってこない。 「コレとコレね、じゃあ頼んでくる。チケット出して」  相変わらず、笑わないな。源ちゃんがこんなに盛り上げようとしてくれてるのに。  入場の時に受付でもらったワンドリンクチケットを真雪さんに手渡すと、それと源ちゃんの分も受け取って再びカウンターの方へ戻って行った。  真雪、って、呼べるかな。怒らないかな。こんな年下の、しかもまだ知り合ってそんなに経っていない、そんなに会ってもいない小娘に呼び捨てにされて、嫌な気持ちにならないかな。  怖い。嫌われたら、嫌だ。  あれ?  嫌われても別に良くない?  それは関係なくない? 「朔ちゃん。大丈夫?」 「え。何?」 「何、って。なんでそんな不安そうな顔してんの。何考えてんの?」  また、源ちゃんの眉間にシワが寄っている。ドラァグメイクにそのしかめっ面が妙に似合って面白いのだけど。 「わたし、不安そうだった? えー、そうかな? 別に特にないけど」  自分でも答えが見つけられないわたしは、今は適当にごまかして流すしかなくて。 「……とんだ三文芝居だわね」 「……あ、あはは」  バレバレなのはわかっていた。仕方ないとも思っている。  でもきっと、源ちゃんなら待っていてくれると思うから。  バーカウンターの前にいる真雪さんを見てみたら、ドラァグメイクをしていない女性数人に囲まれて、写真を撮られていた。  へぇ。やっぱりモテるんだな。そりゃそうか。あのルックスだし。男女問わず、モテそう。 「あーあ。捕まっちゃってぇ。あの子、目立つからねぇ」  隣に並んだ女性が、真雪さんにべったりと寄り添うようにして、腕を絡めそうな勢いでくっついている。それで写真を撮って、そこにいる女性たちの人数分だけ繰り返して。  真雪さんは少し戸惑い気味で、普段から無愛想な顔が余計に引きつっているように見える。 「朔ちゃん、行って、助け舟出してあげて」  源ちゃんからまさかの救助要請が出た。 「え、助け、ええ、どうしたらいいの?」 「何でもいいから、源ちゃんが呼んでるよーとか適当に、一芝居打って来たら?」 「あ、はい」  はい、と言ってしまって、本当はどうしていいかわからないのだけど、でもお願いされてOKしたので、行くしかない。  そうだ。行くしかない。源ちゃんは自分で行こうと思えば行けたはずなのに、あえてわたしにその役を譲った。世話焼きな源ちゃんが自分で動かずわたしにやらせようとしたことにはきっとなにか意味があって、わたしはそれを知りたいと思った。  言われるままにドリンクカウンターの方へ移動して、写真を撮っている集団へそっと近づく。 「真雪」 「…………」  返事がない。  呼び捨て、怒った、かな。 「源ちゃんが呼んでるよ。急げ、って」  それでもわたしは引かなかった。敬語も使わないで、友達のように話した。  わざわざ芝居を打たないと連れ出せないような状況でもない。ただ、もしかしたらこれはチャンスかも、という心算があった。  源ちゃんが教えてくれた、真雪さんと仲良くなる方法。さっきは、そんなの別に必要ないのに、と思った。でも、わたしはそれを守ってみたくなった。 「あぁ、うん。行く」  真雪さんは少しだけ表情を緩めて、その場にいた女性たちに、じゃあ、と言った。それから、すぐ横のテーブルに置いてあった3人分のドリンクが乗ったトレイを持って、源ちゃんがいる場所へ向かう。 「ありがとう」  少し後ろにいるわたしを振り返りもしないで、たぶん、そう言った。  会場のBGMがうるさくてよく聞こえなかった。でもたぶん、そう言った気がする。  怒っていなかった。  良かった。  良かった?  そうだ、良かった。これからまだイベントが終わるまで一緒に過ごすのに、怒られたら困る。  困る、んだよな。楽しく過ごしたいから、怒られたら困る。  ただそれだけ。 「じゃあね、また来るわぁ!」 「バイバーイ、ごきげんようー!」  イベントが終わって、高揚した気分がなかなか冷めやらない中、お店はもう片付けモードに入っていて強制的に客出しが始まった。 「あ、そぉだ、真雪、来週末ドリーのお店でビアンナイトやるってよ。あんたも来なさいよ」  最初にお店に来た時に色々と話しかけてくれたお姉様が、真雪さんを呼び止めて言った。 「……あぁ、うん」  いろんなイベントに顔出せるのか。顔広くていいなぁ。 「えー、ドリーちゃん久しぶりだわぁ、行く行くぅ!」  源太郎さんが乗っかると、お姉様がわざとらしくしかめっ面をする。 「アンタはお呼ばれしてないわよ」 「なんでよぅ、真雪が行くならアタシも行くに決まってんじゃないよぅ」  ああ、そうか。やっぱり源ちゃんと真雪さんはセット、なんだよな。それは本人たちも当然自覚があって、周囲もそれを当たり前のように受け入れていて。  そんなのわたしには関係ないのに、と思うのに、心のささくれみたいなところにほんの少しだけ引っかかる気持ち悪さがたまらなく嫌だ。 「まぁどうでもいいわ、ドリーちゃんに連絡しておきなさいよ」 「おっけぇ!」  来週からわたしは次の舞台の稽古が始まるので、あまり自由には動けない。  そう思ってから、わたしはそのドリーさんのお店には誘われていないことに気づいて、恥ずかしくて笑ってしまいそうになった。  そうだ。ドラァグイベントに参加したいとお願いして連れてきてもらったのだ。ドラァグじゃないイベントに、わたしは行けるわけがない。 「さ、じゃあさっさと倉庫戻ってオフりましょう」  気分がモヤモヤしているのをどうにかしたくて、源ちゃんの号令に即従った。  わたしの今日のイベントは終わった。  これで今日はおしまい。 「朔ちゃん、楽しかった?」 「はい。すごく。なんか、世界観が変わったっていうか、色々と……考えることが増えたかな」  タクシーで倉庫まで戻って、鏡の前に並んでメイクを落とす。これがイベント後のルーティンなのか。 「もぉう、真面目ちゃんだなぁ。そんなの、ひとこと『楽しかった!』って言っときゃいいのよ、ねぇ、真雪」 「そうだね」 「そんな小難しい世界じゃないと思うよ。だから気軽に、また行こう」 「うん。ありがとう」  タクシーに乗る時に源ちゃんも真雪さんも頭が大きすぎてそのままでは乗れなかったので、ウィッグだけ外して乗車した。その姿がなんだか無性におかしくて笑いが止まらなくなって、源ちゃんに(たしな)められた。それでも笑ってしまって、真雪さんにもため息をつかれた。  やっと落ち着いたと思ったら、タクシーを降りて倉庫まで10メートルほど歩くためだけにまたウィッグを被っていて、それもまた面白くて笑ってしまった。源ちゃんはまた怒っていたけど、真雪さんはもう諦めたみたいな顔でスルーしていた。  本当に楽しかった。世界観が変わったのも事実。自分が今のままの自分でいてもいい場所なのだと、心から安心して過ごすことができた。  ただ、あの場が確実に閉ざされた空間で、マイノリティがマイノリティとして堂々としていられるのは良かったけど、同時に一歩外に出ればそれまでの特別な空間から出てしまったことを否応なしに実感させられる、つまり、マイノリティとしての心細さを却って浮き彫りにさせられるみたいな気分になったことは、少し残念だった。  そんな中でも朗らかで陽気な源ちゃんのキャラは頼もしくて、たくさんの仲間に囲まれて楽しそうな姿は見ていて救われるような気持ちになる。  真雪さんも同じで、セクシュアリティはわからないけどそんなことはどうでもよくなるくらいに堂々と源ちゃんの隣に立つ姿に、羨望というか、いいなぁ、と思ってしまう気持ちは止められなかった。言えないけど。  そして、やっぱり自分との差を確実に感じて、どうしても自分がふたりのオマケみたいな気がしたことも、口には出せなかった。源ちゃんの言ったことが真実なら、それらを口にしたら真雪さんに嫌われるから。  そういえば、さん、を付けるのもダメだったんだっけ。  さっきは小芝居として呼び捨てして、怒られなかった。じゃあこれからも、また呼び捨てでも許されるのかな。  源ちゃんが言ったのだから、と言い訳をして、わたしはこれからも呼び捨てで呼んでしまおうと密かに決心した。  そう、源ちゃんが言ったのだから。
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