scene 11 ローラの店(夜)

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scene 11 ローラの店(夜)

 ドラァグクイーンデビューを飾ってから、3人の仕事の都合がつく時はまた集まって出かけることを何度か繰り返した。  当然ながらそれぞれ仕事優先だったので、2週連続なこともあれば、1ヶ月くらい空いてしまうこともあった。それでもイベントスケジュールは常に共有してくれて、タイミングが合えば3人で仲良く準備をしてイベントに参加している。  沖縄が梅雨明けしただとか、台風2号が発生しただとか、そうなるとこれから関東は梅雨だし、という頃。この時期は、ドラァグの装いは、ひたすら汗との戦いだ。当然、メイクは崩れるし、ドレスには汗染みができる。かと思えばイベント会場はエアコンが効いていたりして寒いと思うこともある。  源ちゃんが、特殊な形のドレスを着てもはみ出さないような同じく特殊な形の汗取り下着を作ってくれたり、真雪が汗に強いメイク下地を教えてくれたりして、ああでもない、こうでもない、とみんなで文句を言いながらも楽しくやっていた。  衣装も今までは既にあるものの組み合わせでやってきたけど、そろそろ1着作ってみようと言って、とうとうわたしのために和装風ドレスを作ってくれた。  出会った頃には夢にも思わなかった展開で、嬉しくて、初めて着て行けるイベントが待ち遠しくて仕方なかった。 「朔ちゃんもそのうち自分でメイクできるようになるよ。っていうか、ならなきゃね。ひとくちにドラァグメイクって言っても、施す人によって全然仕上がり違うから。やっぱり好みとか違うし、得意技もそれぞれだし」  今までに何回、ドラァグメイクをしただろう。6回、7回か、もうちょっと、か。もうだいぶ慣れた。真雪がいるからついお願いしてしまうけど、もし自分でやらなきゃいけない状況になれば、上手か下手かは別にして全部自分でできると思う。 「ちなみに朔ちゃんは真雪のメイクと僕のメイクとどっちが好み?」 「真雪」  しまった。即答したな。源ちゃん、傷ついたかな。 「あーそうね、そうよね、そりゃそうよね、プロだものね、あはは……」  やっぱり。優しいからこうやってごまかして流してくれたけど、失礼だったかな。 「あ、違う、源ちゃんのも綺麗で好きだよ。ただ、系統的には真雪かな、っていうだけで」 「いいのよぉ、そんな気ィ遣わないで」 「あ、そう?」 「そこはちっとは気ィ遣いなさいよ!」 「あはは」  いつもこんなやり取りで、騒ぐのは源ちゃんとわたし。真雪はその横で、いつも真顔。面白くないのかな、と思うけど、別に離れて行動するわけでもない。  何を考えているのかよくわからない。  もう慣れたのでいいけど。  最初のイベントの後、あのまま呼び捨てを続けても何も嫌がられなくて、すんなりと受け入れられた。もしかしたら友達というか仲間として受け入れてもらえたのかな、と思って一瞬喜んだのだけど、でも態度は相変わらずこんな感じで、やっぱり何か妙な距離感は感じている。単に興味がない、どうでもいいと思われているだけなのかもしれない。  本当に難しい人だ。  別にいいけど。  もう何度も来ていて一番慣れてきたローラさんのお店で、今夜もドラァグイベントが開かれていた。お客さんの顔触れもなんとなく分かってきて、常連さんとそうでない人の見分けもだいたいつくようになってきた。  常連さんたちともだいぶ話せるようになって、心細い思いをするようなことはなくなっていた。  ただ、初回のイメージが悪かったのか、どうにもわたしはお子ちゃまポジションになってしまったようで、みんなからの扱いも完全に子ども扱い、になってしまっている。  3人でいてもわたしだけが小さくて、源ちゃんと真雪がいつも巨大だから、そのポジションは余計に定着してしまった。  みんなから可愛がられているのだと思い込むようにして、できるだけその受け入れ方を有り難く思うようにした。実際、本当に可愛がってはもらえていると思う。ただ、本当に彼女たちの言動は容赦ないのだけど。  でもそれが心地よくもあった。忖度とか下心とかの裏がない、正直な世界。  新しい衣装の評判も上々で、こんな色気のないわたしをそれなりにクイーンっぽく着飾らせることができた源ちゃんの腕が絶賛されていた。少し複雑だけど、それでも嬉しいことに変わりはない。  次はあんなのにしよう、とか、こういうのはどうかな、と源ちゃんが次々と案を出してきたのだけど、わたしは今の衣装をしばらく堪能したかったので、気が早いなぁと思って丁重に遠慮した。  楽しい。楽しすぎる。     「オカマしかいねぇのかよ!」  突然、ホールに怒号が響き渡った。  ステージのショーが一通り終わったあと、店内が飲みモードに入って落ち着いた頃。  ショーの時には見かけなかった男が、突然大きな声を出した。  一瞬みんなが黙って、BGM以外何も聞こえなくなる。それから、ザワザワっと人々が動く気配がして、また、男の大声が響いた。  酔っ払い、かな。こんな、楽しく飲むために人が集まっている会場で、みっともない。 「ちょっとぉ、オカマの巣窟に自分から入って来たくせに何ほざいてんのよ!」  強気なクイーンたちは、口々に文句を言っている。それでも男は引き下がらない。  誰の連れなのかわからない。見たことのない男。とにかくひどく酔っているようで、言葉も足元もかなり覚束ない様子。  手当たり次第に周囲のパフォーマーに絡んでいて埒が明かない。 「なんなのォ、アレ。オカマに恨みでもあるのかしらねぇ」 「案外、逆恨みだったりして。オカマにひどいフラれ方しちゃったとか?」  遠巻きにその荒くれ者を眺めながら、できれば関わりたくない、と誰もが思っていた。 「クソ! クソが!! なんなんだよ、クソ!!」  一体何に対して怒っているのか全くわからない。でもとにかく怒っていて、それを隠そうともしていない。話が通じなさそうなのが一番怖い。起爆スイッチだけは押したくない。 「ヤダもう、ちょっと、誰か外に追い出してよ」 「んだ、テメェ、客を追い出すのかよ!!」  こんなのを客だともてなさなきゃいけないなんて、サービス業も大変だな、と思う。 「ヤダァ、あんなのどうやって(なだ)めればいいのかわかんないわよ」  確かに、オカマ、オカマ、とそればかりを繰り返していて、まぁ怒りの矛先はいわゆる女装スタイルのゲイの人なんだろうな、とは思う。それなら、もしかしたら女性のわたしなら、彼の神経を逆撫ですることなく交渉ができるかもしれない。  真雪も女性だけどあのサイズでは普通にゲイだと思われて役に立たないだろう。ちょうど今ホールにいないし、真雪が戻ってこないうちにわたしが出て行ってみるか。  危ないのはわかっている。でも、その危ないところを避けつつ、何かこの状況を打破するようなきっかけか何かを掴めないかと考えた。  とりあえず、動いてしまった方が早いか。 「ねぇねぇ、お兄さん」 「あっ、ちょっと、朔ちゃん!!」  慌てて引き止めようとした源ちゃんにそっと掌を向けて、小さな声で大丈夫だからと制した。  大柄でド派手なクイーンたちに虚勢を張って怒鳴り散らしていたその男は、急に話しかけてきたわたしが他のクイーンたちとは全く違うサイズ感と雰囲気なことに驚いているようだった。 「あ? なんだ?」  言葉ヅラでは威嚇してきているけど、実際は戸惑っている。それも、かなり。 「ねぇ。オカマのヒトはヤなんでしょお?」  ここは、わたしの出番だな、と思った。  劇団の研究生時代に死ぬほどやらされたエチュード。台本のない、インプロビゼーション。設定だけを与えられてあとは全てアドリブで芝居を構築する、いわゆる即興演劇。  これは、それと同じ。  本当の自分がないわたしは、インプロは得意ではなかった。正直、自信はない。でも今は、相手は酔っ払いで、何より今、ゲイの人がまともに向き合ったと想定しても悪い結果しか思い浮かばないような状況。ここは、わたしがやるしかない。  頭の中で、即席で設定をでっち上げる。  わたしに似合う方法。わたしのやり方。  ちょうど花魁系の衣装を身に(まと)っている。それなら、ちょっとしたビッチを演じてみたらいいのかも知れない。 「じゃあさ、アタシはどう?」  ゲイを根本からディスるのはダメ。暴れっぷりはゲイに対してフォビア的な立ち位置に見えるけど、もしかしたら本当はこの人も当事者で、何かしらのつらい目に遭ったせいで不本意ながら攻撃している可能性もあるから。  ただ、ここまでオカマオカマと暴言を吐くなら、『オカマ以外』で対応するしかないというだけの話。  本当なら、こんな場所にノコノコやってきて自称以外には許されない『オカマ』なんていう差別用語を連呼しているクソ野郎を許せる気はしない。でも、下手に煽って火に油を注ぐのも避けたい。  だから、仕方ないから優しくしてやる。  芝居で、だけど。 「アタシならさぁ、お兄さんの話、聞いてあげられちゃうかも」  ほんの少しだけビッチ感を匂わせてみたりして、でもオンナで釣るのはダメ。もしゲイだったら(なび)かないから。だからあくまで『話、聞きますよ』的に、味方を演じる。 「もう、ここうるさいオカマだらけだし、どこか他の静かなお店行きませんか」  とりあえず、店の入り口から追い出したら、勝ち。そこで終了。こいつを追い出したら、わたしは内側からドアを閉める。それがゴール。  男の威勢が、少し緩んだ。 「……なんだよ、オンナ? マジ?」  よっしゃ。手応え、あり。  みんなが見ているのがわかる。源ちゃんに至っては、もし何かあれば飛びかかってきそうな勢いで凝視してくれている。  大丈夫。今のところ、計画通り。 「ね、ね。もっと落ち着いて話せるところ、行こうよ」 「はぁ? なんで……」  あともう一息、なんだけど。きっかけがあれば動きそう。何か、同調できる話題を。  どっちかな、これ。フォビアか、恨み、逆恨み、それか同族嫌悪か。 「ほんっと、オカマってデリカシーなくて嫌だよねぇ」 「……ホントだよ、マジで」  やった。ビンゴ。動いた。  やっぱり逆恨み系だった。  ごめんね、お姉様がた。こんなこと全く本心じゃないの、どうか分かってください。  それにしても、まともな思考能力があれば、ここでお姉様方と一緒に楽しく過ごしているわたしが彼女たちをディスるわけねーだろ、と言いたいくらいだけど、とにかくそんなことも判断できないほど酔っていてくれてよかった。  チラ、と源ちゃんたちの方を見ると、小さくガッツポーズをしてくれた。良かった。全部芝居だと分かってくれている。  このままエントランスまで誘導できるかな。  ホールから出て行こうとするのを、源ちゃんたちがソワソワしながら見守っているのが見えた。わたしは、大丈夫だということを伝えたくて、こっそり背中側で指をOKの形にしてみんなに見せる。それから、片手をヒラヒラと振って、着いて来ないでね、というジェスチャーをした。    ここまできてお姉様方に口出されたら、振り出しに戻るかもしれない。せっかくここまで上手くやれたのだから、それだけは避けたい。  レジカウンターを通り越して、エントランスドアまで続く狭い階段を、背後からそっと押し出すみたいにして上らせた。  半分まで来たあたりで、その先のエントランスにある扉が開く音がした。  しまった。誰か来ちゃった。こんな狭い階段ですれ違わなきゃいけないなんて。せっかくいいところだったのに。 「タカユキ!」  突然、頭上から誰かの名前を呼ぶ声が降ってきた。 「はぁ!? お前、なんでここにいんだよ!?」  ドアから入って来た人とわたしが追い出そうとしていた人が、会話を始めた。  何? どういうこと? 「探させんじゃねーよ」 「っセーな、ほっとけよ」  知り合い、か。というか、もしかしたらこの人がこの怒りの元凶? 「こんなとこ来て、当て付けかよ」 「知らねーよ」  もう少しだったのに。喧嘩なら外でやって欲しい。 「話くらいちゃんと聞けよ」 「話なんてねーよ、ってかお前と話すことなんてなんもねーよ!!」 「はぁあ!? ふざけんなよマジで」  ああもう、いい加減にしてほしい。こんなところで。 「何熱くなってんだよ、キメェな」 「んだと!!」  あれ、なんだかヒートアップして。これはちょっと危険かも知れない。階段だし、狭いし。何より店内だし、できれば本当に外に移動してくれないかな。  そう思って声をかけたのだけど、盛り上がってしまった彼らにはわたしの声なんて届いていないようだった。  困ったな、と思って、でもこの場でわたしができることももうないのかも、と思って、とにかく危ない階段の途中からは撤退して様子を見ようかと思ったとき。  すぐ目の前で、男の人の怒鳴り声と人影が大きく動く気配が同時に発生して、その詳細を確認しようと思ったときにはわたしの身体はそのまま後ろに押し出されていた。  顔にボンッと男の背中かお尻が当たったな、と思った瞬間、足元がスッと着地点を失って、これはもしかして踏み外してるのかも、と思う。でも、新たな安定したステップを探せない。  何とか手すりを掴んで吹っ飛ぶのだけは避けられた。でも、バランスを崩した身体を立て直す余裕はなくて、しかも、そこに留まろうと頑張るわたしの努力を無下にするみたいに、男ふたりが揉み合いながらぶつかってきている。  これはもうダメかも知れない。  周囲の情景がスローモーションに見えて、その危機感は現実味を増す。もし運よく足場をゲットできても、このふたりを支えるのは絶対に無理だ。本当にこのままでは3人で落ちてしまう。どうしよう。  その時、ふわりと背後に人の気配がして、わたしの背中がしっかりと広範囲で支えられたのがわかった。腕、ではなくて、手のひらでもなくて、もっと広い、これは、胸?  わたしをしっかり抱きとめつつ、長い腕を目一杯伸ばしてすぐ上にいる男たちの一部を押し戻すように支えている。 「危ない、ちょっと、降りよう」  いい匂いがする。  これは、知っている。  真雪の匂い。 「ごめん、あ、ありがとう」  良かった。助かった。  わたしも同意。すぐにでもこの場から去りたい。危なすぎる。だからそうしようとした。真雪に支えられて振り返ってから、足元をしっかり安定させて、そのまま階段を一緒に降りようとした。  その時、身体中にパラパラと何か小さなものが大量に当たる感覚があった。  はじめはウィッグやアクセサリーについているパーツやビーズか何かが外れてばら()かれたのかと思った。でもすぐに、降り注いできたものが固形ではなく液体なのだとわかった。  ということは、わたしが追い出そうとしていた男がドリンクを持ったままだったので、それがこぼれたのだろうな、と思った。お酒だとシミになっちゃうし、せっかく作ってもらった衣装が汚れるのは嫌だな、と。  でも、違った。  わたしのドレスに落ちた雫は異様な色合いで、染み込んだ箇所をドス黒い泥のように染めつけていた。  何が起きたのかを把握したくて背後の男たちを振り向こうとして、ひとまず顔を上げて。そして、そのまま目の前の真雪をみて、血の気が引いた。  わたしたちに大量に降り注いだどちらかの男の血液が、真雪の肌や衣装を真っ赤に染めている。  なんて状況。  こんな、こんなに綺麗な真雪が。  目の前に広がる非日常的な光景を、わたしは不思議な感覚で眺めていた。  赤い。赤いなぁ。  そんなに無計画にぶっかけたらリアリティがなくなっちゃうからさ。もっとバランス良く、漫画みたいにさ。  かけるところとかけないところと、絵的にさぁ。  あ、顔のパーツにはかけすぎない方が。だって綺麗な顔が見えなくなっちゃうじゃん。  ダメだな、こないだのドラマの撮影で使ってた血糊はもっとリアルだったし。そんなんじゃリアルに見えないよ。リアルに……  真雪…… 「っっっってえええええな、クソが!!!!」  しまった。  わたし、何をぼんやりして。  違う。これは現実。  芝居じゃない。  実際に目の前で起きている、リアル。  やるべきこと。  しなきゃいけないこと。  真雪を、助けなきゃ。  背後で殴り合いに発展したらしい男ふたりを、もう振り向きたいとも思わなかった。  とにかく、一刻も早く血液を拭き取るか洗い流すかしないと。  血液の不潔さは嫌というほど分かっている。幼馴染が看護師になって、病院内では排泄物や吐瀉物などより血液の方がよっぽど汚いし危険だと恐れられている、と何度も聞かされたから。医師も看護師も、吐瀉物に触るのは抵抗ないけど血液だけは絶対に直接触りたくない、と言っているのだと。  それを、わたしたちは浴びてしまった。しかも、おそらく彼らはゲイで、男性同性愛者が体液の接触で感染する感染症に罹っている確率は他のセクシュアリティやシスヘテロの人よりももしかしたら高い。  自分と真雪に生傷がないことを心から祈った。そして、目や口から体内に入らないように必死にガードした。 「真雪、降りよう。とりあえず」  声をかけて、移動を促す。でも、真雪は動かない。全く。 「真雪? 大丈夫?」  もう一度声をかけたけど、やっぱり動かない。 「真雪!」  真雪は自分の手を胸の前に広げて、じっとそれを見ていた。 「真雪! 真雪!!」  血がべっとりとついて、どこからどう見てもホラー。スプラッタだ。 「真雪!!」  反応はなくて、立ったまま意識を失っているんじゃないかと思うほどだった。  真雪に何が起こっているのか。なににしろ、階段の途中でそのまま倒れられても困る。誰か、助けに来て欲しい。  とりあえず、これ以上血を被って目や口に入らないように、真雪の頭部を抱きかかえるように覆った。 「源ちゃん! 源ちゃん!! ちょっと来て!!」  階下に向けて大声で叫んで、源ちゃんを呼ぶ。  ホール入り口で待機していたのかすぐに来てくれた源ちゃんが、わたしたちの状況を見て、一瞬で青ざめたのがわかった。 「どうしたの!! ちょっと!! 怪我!? 怪我したの!?」 「違う、わたしたちじゃない。この、こいつらが、喧嘩して」  そう言っている間にもすぐ背後ではまだ罵り合っている声がしていて、ガツガツと肉体が色々なものにぶつかる音がしている。 「やめろ!!! コラァ!!!」  源ちゃんがものすごい声で怒鳴って、男たちの動きは止まった。 「テメェらいい加減にしろよ、周囲の状況、もっかいよく見やがれ!」  ようやく場が静まって、でも、被害は甚大で、人も、場所も、何もかもが血(まみ)れだった。 「真雪、ほら。とにかく降りよう」  源ちゃんがそっと手を差し伸べて、真雪を誘導しようとした。  でもやっぱり真雪は動かない。まだ自分の手をじっと見ている。 「真雪。大丈夫だから。怪我してないよ。誰も痛くない。大丈夫」  何も見えていないような目。何も感じていないような表情。何も聞こえていないような反応。 「真雪。とにかく下行って、全部綺麗にしよう」  源ちゃんが真雪の手を取って、ゆっくりと引っ張った。 「朔ちゃんも。とにかく早く身体拭いて」 「はい……」  源ちゃんが真雪を支えてゆっくりと階段を誘導するのを、真雪の背後からそっとサポートする。よろよろとよろけて、不安定で、心許ない。 「テメェらは、ちっと一緒に来い。聞き取りだ」 「え、なんすか、聞き……取り……?」 「あたりめぇだろーが、よく考えろ! こんだけ血液ぶちまけたんだ、テメェらの既往歴から最新の血液検査の時期から結果から、全て吐けよ!」 「……はい……」 「わかんなかったら今すぐ検査行かせっからな!」 「…………は、はい……」  完全にキレている。こんな源ちゃん、見たことがない。 「クソッタレ、こんなん傷害だぞ」 「……すいません」  ようやく事の重大さに気づいたのか、男たちはおとなしくなった。 「真雪。気をつけて」  真雪は黙って源ちゃんに誘導されてフロアに降りて、そのままスタッフルームの方へ連れて行かれた。わたしもそれに着いて行く。 「ちょっと、どうしたの!? 大丈夫なの!?」 「あー、この子らは無傷。とりあえず一旦、これだけは綺麗にしないと。そいつらはこれから尋問だから逃がさないで」 「ちょっと、どうすんの? 警察呼ぶ?」 「警察呼ぶかどうかはそいつら次第でしょ。この店にもパフォーマーにも非はない」  台無しになってしまった。せっかくの楽しいイベントが、めちゃくちゃだ。  そして何より、せっかく源ちゃんが作ってくれた衣装がもう、きっと、二度と使えない。    悲しい。悲しすぎる。どうしてこんなことに。  着て来なければよかった。家に大事にしまっておけばよかった。 「ローラちゃん、ちょっとお店クローズした方がいいかも。入口使えないから。あと、おしぼり、あるだけ持ってきてもらえる?」 「了解」 「あと、できればビニールか何かの手袋……キッチン用のでも掃除用でも、何か。それとゴミ袋も」 「わかったわ」  走り去るローラさんを見送った源ちゃんが、深いため息をついた。 「本当はすぐにでもシャワーで流したいけど、しょうがない。とにかく拭き取ろう」  真雪とわたしを連れてスタッフルームに向かって歩き出してから、何かに気づいたのかパタリと立ち止まった。それからホールの中央に向かって振り向くと、大きな声を出した。 「誰かそいつらから事情聴取しておいて。既往歴、あと、最新の血液検査がいつだったかと結果と、全て、余す事なく! 隠したり嘘ついたりしないように、身分証か何か持ってたら写真撮っといて」 「オッケー!」  店内が騒然としている中、招かれざる客2名はその騒ぎの真ん中で呆然と立ち尽くしていた。源ちゃんが用意してとお願いした物を集めているローラさんをはじめ、店のエントランスの階段からホールまで続く血液の汚れをモップで拭き取る人、ティッシュやハンカチを男の怪我のケアのために差し出す人、その場にいたみんながこの異常な緊急事態を必死で乗り切ろうとしていた。    スタッフルームに連れて行かれて、ローラさんが持ってきてくれた大量のおしぼりを源ちゃんがひとつひとつ開封して行くのをぼーっと見ていた。手伝いたいけど、わたしがこの手で触ったら汚染が広がる。今は、黙ってやってもらうのを待つしかない。 「はい、朔ちゃんは自分でできるところはやって。ドレスも脱いじゃって」 「はい」  手渡されたおしぼりを広げて、とりあえず両手を拭う。わたしは彼らに背中を向けていたので、顔や手はほとんど汚れていない。多分背中と、ウィッグには、それなりに浴びてしまっただろう。  真雪は男たちと向き合うように立っていたから、頭から顔から手から全てにそれを浴びてしまっていた。 「真雪。これ、脱がすね。あとウィッグも、外すから」  声掛けにもやっぱりまだ反応しない。ただ、そこに立っているだけ。 「真雪。大丈夫。全部終わったから大丈夫だよ」 「あの……真雪、どうしたの?」 「……後で説明する。とにかく早く、綺麗にしちゃおう」  ひたすら、汚れたところを拭いた。ゴシゴシと、何度も。 「あんまり強く擦らないで。肌に傷ついたら余計よくない」 「あ、そっか。はい」  身体のいたるところに血液が付着していて、でもそれは自分のでも友達のでもなくて、冷静になって考えれば異様な光景で、でも全て事実だ。現実なのだ。  わたしはその異様な現実を少しずつリセットさせていくように、丁寧に拭き取った。 「ローラちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」 「いいけど」 「ふたりの着替えがここにはないんだよね。申し訳ないんだけど、そこのスーパーでもどこでもいいから一式買ってきてもらえる? レディースが難しければメンズでも構わないから。Sサイズと、Lサイズの上下。下着以外、Tシャツとパンツと、みたいな部屋着みたいなのでもいいから、見繕ってきてもらえる? ここからウチの倉庫までタクシーで帰れる程度の軽装でいいから、お願い」 「了解。行ってくる」  依頼を受けたローラさんが急いでスタッフルームを出て行った。  源ちゃんが真雪につきっきりなので、わたしは自分で衣装を脱いで、ほぼ下着姿になって身体を拭く。  本当にいったい、どういう状況なの。 「とりあえず、HIVと肝炎系はふたりともシロ! 検査は先月頭に一緒に受けて、ふたりとも別の人とは全くヤッてないって! 逃げらんないように個人情報もゲットしたわ!」  飛び込んで来たシーナさんが息継ぎもしないで報告してくれた。 「オッケー。ひとまずデカいのは回避だな。はぁ……良かった……」  源ちゃんがホッとしたように大きなため息をついて、ソファに腰を下ろす。 「もおー……ホントに……」 「じゃあアタシ、奴らの怪我ちょっと見てくるね。今日に限ってジェットが来てないなんて。なんか、スマホでぶん殴ったみたいで、結構スゴいのよ」  シーナさんは困り果てたみたいにそう言って、源ちゃんが袋を開けたおしぼりを3つ、4つとビニール手袋を数枚引っ掴んで、スタッフルームを出て行こうとした。その背中に向けて、源ちゃんが声をかける。 「あー、うん、頼むわ。場合によっては病院送りだな」 「まぁ本人たちに決めさせるわ」 「そうだな」  そんなやりとりの間も、真雪は何も話さないし何も動かない。やっぱりただ立っているだけ。  ウィッグのおかげで地毛が汚れていなくて良かった。わたしも真雪も、髪は無事。もし汚れていたら髪は拭き取るのは大変だっただろうから、本当に助かった。でもこのウィッグも、せっかく真雪が作ってくれたものだったのに。 「真雪。心配いらないよ。もう大丈夫」  相変わらず、源ちゃんは真雪に優しく声をかけている。  これだけ周囲が騒いでいるのにどうして何も反応しないんだろう、と思って真雪を見て、わたしは心臓がピリッと痙攣したような感覚に陥った。  ほぼ下着姿になっている真雪の左の二の腕の内側と、左側の腰から脇腹のあたりにかけて、2ヶ所。はっきり、くっきりと、古い傷のようなものが見えた。それも、どちらもかなり大きい。  見てしまった罪悪感、これに触れてはいけないのではないかという不安感、それと、源ちゃんは事情を全部知ってるんだろうなというなんとも言えない気持ち。  これは、この感情は、なんと呼べばいいんだろう。 「真雪」 「…………」  源ちゃんが、化粧直し用に持ってきてあった真雪のメイクボックスからクレンジングシートを取り出して、彼女のメイクをゆっくり落としている。されるがままの真雪は、まるで幼い子どものようだった。 「目、閉じて」  言われたことには従っているから、意識はそれなりに正常、なのかな。 「ちょっと上向いて」  本当にどうしちゃったんだろう。  メイクをほぼ落としてから、新しいおしぼりで顔も隅々まで拭って、耳も、顎も、首も、鎖骨も肩も胸も、全部、全て、綺麗にして。  源ちゃんの手でそうやって清められていく真雪を、わたしはぼんやりと眺めていた。  自分も同じように綺麗にしなきゃいけないとわかっていた。そうしようと思っていた。でも、なぜか身体が動かない。早くやらなきゃ。早く。 「よし、これでだいたい綺麗になったかな。最後に手だけは石鹸でしっかり洗い直そう」  真雪は相変わらず反応がない。やっぱり手を胸の前で開いて、じっと見ている。源ちゃんに促されて流し場で念入りに手を洗われている間もじっとしていた。 「真雪。大丈夫だから」  濡れた手を清潔なタオルで拭き終わった源ちゃんがそっと、真雪の身体を抱き寄せた。  わかっている。  (よこしま)な、下卑た下心とかは存在しないのだと。  源ちゃんはゲイで、女性の真雪を恋愛対象には見ない。だから、半裸の真雪を抱きしめたとしても、そこに恋愛感情や性欲は向かない、はず。  それに今の真雪は普通の状態ではなくて、おそらく、いわゆるパニック状態で。そんな彼女を落ち着かせるために、(なぐさ)めるために、お母さんが泣いている我が子を抱っこするようなハグなのだと、頭ではわかっている。  でもなぜか、わたしは彼らから目を逸らした。そうしないといられなかった。  何がどう、とか、どうしてなのかとか、そういうことは全くわからない。でも、とにかく今の彼らをこのまま見続けるのは無理な気がした。  わたしも半裸状態だったので、このスタッフルームから出て行くのは無理だ。だから、とりあえず彼らに背を向けて、あとはひたすら自分の身体を清拭することに集中しようとした。  でも、なかなかうまくいかない。汚れているところを探そうと思うのに、それがうまくできない。  どうしてかな、と思っていたら、視界が歪んでいるせいだとわかった。  どうしてちゃんと見えないのかな、とよく確かめてみたら、目からボタボタと涙がこぼれ落ちていて、そこでようやく、自分が泣いているのだと気付いた。  しまった。どうして。どういう状況なの。  怖かったから?  びっくりしたから?  騒ぎになってしまったから?  もう騒ぎは収まったのだし、そんな、泣くほどのことじゃないのに。  今は真雪があんな状態で、わたしまで泣いたら源ちゃんが困る。わたしは落ち着いていなきゃ。  早く隠してしまわないと。  ああ、やらかした。  ドレスは脱いだけど、メイクは何も落としていなかった。塗りものどころか、付けまつ毛さえも。  そして、それに気づかずに涙を拭おうと目元を触ってしまって、大失敗した。 「あ……!」  痛い、と思ったのだけど、ここで騒ぐわけにもいかなくて、でも、どうしよう。 「ん? 朔ちゃん? どした?」  源ちゃんがすぐにわたしの異変に気付いて声をかけてくれた。 「あ、いや、大丈夫、なんでも……」  なんでもない、と言えたら良かった。でも実際には、わたしは瞼を触ってしまった方の眼球にものすごい違和感を感じていて、それがどう考えてもこのままスルーできるものではないと気付いていた。 「や、あの……なんでも、な……いた、いてて……」 「え。どうしたの」 「……ちょっと、目、が。目の中に、何か」 「え、まさか血が入ったとかじゃないよね!?」 「違う、と思う。今、何か入って、いた、いった……(いって)ぇ……」  その時、ずっと源ちゃんの腕の中でじっとしていた真雪がガバッと立ち上がって、ものすごい勢いでこちらに向かってくるのが片目で確認できた。 「朔!!」  え、今。  わたしの名前、朔、って。  初めて呼ばれた。しかも、呼び捨て。  びっくりして思わず構えてしまう。 「ちょっと見せて」  そう言って、わたしの顔を両手でガッと押さえて上を向かせた。 「どっち? どっちの目?」 「こっち、右」 「眼球、動かさないで。目も閉じないで。そのままにしてて」  わたしの瞼を上下に大きく開いて、眼球の状態を確認してくれている。 「ダメだ、暗い。源太郎、スマホのライトで照らして」 「オッケー」  ふたり掛りでわたしの目の中を診てくれていて、その距離が近すぎて、焦る。  そんなこと考えている場合じゃないのに。 「あった。これだ、グリッターのラメがいっぱい入っちゃってる」 「あんた何やったの、ホントにもう」 「擦らないでね、って何度も言ったのに」 「すみません……つい……」  ほんとうに、つい、だったのだけど。 「綿棒、は……ないか。いや、あるわ。そこのメイクポーチの絆創膏とか入ってる内側のポケットに綿棒……あと、私のバッグん中の黒いポーチにコンタクト用の目薬あるから、それも取って」 「はいよ」 「オッケー。ちょっと、朔、自分でこのスマホ持ってて。この角度で」 「はい」  また、朔、って。  いや、そんなことを言っている場合じゃない。  真雪の顔が近すぎて、わたしは無事な方の目を閉じた。近すぎて、怖い。 「眼球、動かさないでね」 「はい」  それから、源ちゃんが探し出してきた綿棒を使って、ラメの摘出作業が繰り広げられた。  源ちゃんが明かりを照らして、真雪が目薬を落としつつ見つけたラメを綿棒で一粒ずつ掬い取って、そっと目を閉じて異物感がないか確かめて、全くそれがなくなるまで何度も何度も捜索作業は続いた。  結局、ラメが7粒ほど取れたところで、目の中に異物感はなくなった。 「大丈夫、みたい。はぁ……すみませんでした」 「もぉ……良かった……はぁあ……」  さっき自分であれほど、わたしたちの身体に傷がなければいい、粘膜に血液が付着しなければいい、と願っていたのに。本当にバカなことをした。ふたりにも盛大に迷惑をかけた。かっこ悪すぎてヘコむ。 「ついでにちょっとこのまま、アイメイク取っちゃうね」  そう言って、真雪はクレンジングシートを用意した。それから、一緒に取り出したマスキングテープを短めに切って自分の手の甲に何枚も並べて貼った。  ラメは擦ったり拭ったりするだけでは落とせないので、まずは粘着テープなどを使って剥ぎ取るのが一番手っ取り早い。肌の頑丈な人はガムテープを使ったりもしているけど、真雪はいつもマスキングテープか、用意できるなら医療用の紙テープを使うと言っていた。 「ごめん、今日はこれしか持ってきてない。そおっとやるから、痛かったら言ってね」 「はい」  ラメを使った場所にそっとテープを貼って、上から押さえて、ゆっくりそっと剥がす。最初の数回でほとんどラメは外れて、4回目か5回目でほとんどテープに付かなくなった。  それから、クレンジングシートで全体をメイクオフしていく。  すっぴんになったところで、改めて、真雪が真正面からわたしの顔を見た。立って向き合っていたので、真雪がだいぶ腰を折って屈んでくれて、ほんとうに真っ正面の、目の前ギリギリのところで、わたしを直視してきて。  その距離感にまた、怖気付く。  両目をあっかんべーにされて、瞼の内側までしっかり見られた。 「違和感、ない?」 「うん。大丈夫」 「よし、これでオッケー」  それから、両方の手のひらでわたしの頰をピタッと挟んで、ギュッと力を入れた。 「おしまい」  すぐにスッと離れた手を名残惜しむような気持ちがあって、動揺する。  何だかこれは、不思議な感じ。  あまり考えたくない類の。  でもなかなかその意識が消えてくれなくて、どうしようかな、と思っていたら、買い物を終えたローラさんが戻ってきた。 「お待たせぇ。買ってきたわよぉ」  よかった。  何か、嫌な予感がしたから。  おかしな思考が生まれなくて済んで、よかった。  テーブルの上にドサッと広げた荷物を、源ちゃんが開封しながらサイズごとに仕分けしてくれている。それをわたしと真雪に手渡しつつ、ローラさんからレシートをもらおうと声をかけていた。 「いいのよ、これはウチのお店でのトラブルが原因なんだし、本当だったらこっちが弁償しなくちゃいけないレベルの話でしょ」 「……本来ならあのクソ男どもに弁償させるべきだよな」  源ちゃんの腹立ちはまだ治まっていないらしい。 「うーん、わざと何かを壊されたりしたんなら被害届出すけど、単なる客同士の喧嘩の側杖(そばづえ)だもんねぇ。そういうのはお店経営のリスクとして計算に入れてあるから」 「それじゃあ、ありがたくお世話になります」  カフェやバーの経営は憧れるけど、こういったトラブルを想定して心構えしておかなければいけないなんて、実際にはそんな簡単なことではないよな、と痛感する。 「とにかく、早めに二人とも身体洗い流した方がいいわね、あと、あいつらはどうしようか」 「とりあえず僕らは着替えたらどこか……僕の家が一番近いかな、急いで連れて帰って洗わせるよ。あいつらは……怪我は勝手にやらせるとして、問題は感染症だよな」  一瞬、その場にいた全員が黙り込んだ。  よくよく考えてみたら、本当に危険な事態だった。下手したら、命に関わる。自己申告を聞いて、よかったね、で済ませるわけにはいかないのかもしれない。 「念のためもういっかい検査させる?」 「その方がいいかもな。デカいの以外にも、一通りやってもらいたいよな」 「そうね。じゃあそれはやってもらいましょう」  もしかしたら、看護師の幼馴染から世間話的に聞いていただけのわたしより、マイノリティコミュニティのド真ん中にいるローラさんや源ちゃんたちの方が、感染症の恐怖は身近に感じているのかもしれない。そこまで気にすることないのでは、という無責任な感覚はここでは封印しておかなければ、と思う。同時に、自分もマイノリティ当事者だという自覚があるのだし、そこはもっと慎重にならなければいけないのだな、と自戒する。 「ローラちゃん、連絡の窓口になってもらっても大丈夫? 個人よりお店として対応した方が良いかと思うんだけど」 「もちろん。実際、お店で起きた事件だし。そこは最後まで責任持ちます」 「ありがとう。助かるよ」  自分たちだけで勝手にやるより、大勢の仲間に介入してもらってみんなで対応した方が心強い。 「いい機会だから真雪と朔ちゃんも少し時間置いたら検査受けた方がいいかもね。念のため」 「はい」  これは本当はマイノリティ限定の事情ではない。マジョリティでもヘテロでもセックスを一度でもしたことがあれば、感染症に罹っている可能性はゼロではない。そういう意味では、セックスをする機会がある人は定期的に感染症の検査を受けるべきなのだろうな。 「これに懲りずにまた来てね、源ちゃんも、真雪も、朔ちゃんもね」 「……はい。すみません、わたしも余計なことしちゃったから」  そうだ。今回のことは、わたしがもし下手に口を出さなければあんなことが起こらなかったかもしれないのだ。大声男のツレが途中で参入することは変えられなくても、階段で殴り合いになってその血を真雪が被ることは免れたかもしれない。半分は、わたしのせいかもしれない。今になって後悔の念が浮かぶ。 「朔ちゃんが動いたこととあいつらの喧嘩は全く無関係でしょ。悪いのは全部あいつら。あんたは立派な被害者なんだから、そんなふうに思わないで」 「ありがとうございます」  源ちゃんの言葉が染み入る。今、猛烈にそうフォローして欲しいと思っていた。 「真雪」 「……」 「あー、こいつはしばらくは使い物になんねーわ」  あれ、さっきわたしを助けてくれた時、あんなにキビキビ動いていたのに。また元気なくなっているのか。 「源ちゃん、真雪をよろしくね。あんただけよ、真雪の世話できるの」 「ああ、うん。大丈夫」  そう、なんだ。源ちゃんだけなんだ。  へぇ。そっか。  じゃあ、源ちゃんがいれば安心だな。  源ちゃんがいれば。  それから、タクシーを呼んでもらった。一度倉庫に寄って私物を全て引きあげてから、3人の家の中で一番近い源ちゃんの家に行くことになった。  タクシーの中でも真雪はずっと黙ったままで、時々、また両手のひらを胸の前で開いてじっと見ていた。  少しでも余計なことをしたらそのまま壊れて崩れ落ちてしまいそうで、怖くて何もできなかった。声さえかけられなかった。  源ちゃんにそっと寄りかかるようにしている真雪を、わたしはただ遠くから見ていることしかできなかった。
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