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scene 12 源太郎宅(深夜)
「いらっしゃい」
源ちゃんの家に着くと、男の人がひとり出てきた。前もって同居人がいるとは聞いていたけど、なんとなくイメージしていた感じと違って、焦る。
「ごめん、急に。ちょっと緊急事態で」
「別にいいよ。俺、邪魔ならどっか行っとくけど」
「いや、いいよ。いて」
源ちゃんの背後でそのやりとりを見守っていたら、わたしの存在を思い出した源ちゃんが振り向いてわたしを前に押し出した。
「この人ね、僕の彼氏。一緒に暮らしてんの。開くん」
「どうも。開でーす」
「あ、はい、あの、辻です」
流れで自己紹介をしたら、源ちゃんがムスッとしてこちらを睨んだ。
「……まぁいいけどさ。僕らの関係で仲間増える時に辻です、とか。なんで名字? もう、勘弁して」
「え、そう? そっか、ごめん。えっと、朔弥です」
「うん、朔ちゃん、でしょ。俺は、源太郎は呼び捨てしてるし真雪は開くんだし、どちらでもお好きにどうぞ」
いくら源ちゃんのパートナーでもわたしは初対面だし、失礼のないように、と礼儀を重視したつもりだったのだけど、それが逆の作用となることもあるのかと勉強になった。源ちゃんのその辺りのコミュニケーション感覚は軽やかで嫌味がなくてすごい。見習いたい。
「色々話は聞いてます」
「よろしくお願いします」
わたしと開くんがお辞儀をし合ってごちゃごちゃやっているうちに、源ちゃんは背後から真雪を引っ張り出して家に上げた。
「とにかくすぐシャワー浴びて。順番に。真雪の方が深刻だったから先に浴びな」
「…………」
「朔ちゃん、ちょっと真雪のことひん剥いて風呂に突っ込んできて。服は買ってもらったばっかりでもったいないけど、全部処分。このゴミ袋にそのまま突っ込んどいて。はい。行って」
玄関脇のクローゼットから出したゴミ袋をわたしに押し付けて、源ちゃんが言った。
「え、え? わたし!?」
「いくらゲイでも僕らが女子ひん剥いたらアウトでしょ」
「……そう、ですね。はい」
真雪への対応は、きっと、源ちゃんが言うことが正しい。だからわたしは、言われたことに従う。
「……」
「真雪。お風呂、借りよう」
「……」
本当に、さっきわたしを助けてくれたのが別人だったみたいに覇気がなくなった。まだ事情を聞いていないので、どうすることもできない。
「ほら。真雪。早く行け。着替え、出しとくから」
源ちゃんが促しても、自分からは動いてくれそうにない。本当に、一体どれだけの何があったのかと心の奥がざわつく。
「真雪。行こ」
「……」
仕方なく、黙っている真雪の腕をそっと掴んで、無理矢理にならない程度に引っ張って教えてもらった風呂場まで移動する。真雪は抵抗しないで素直に従ってくれた。
よかった。
脱衣所で、やっぱりなかなか動かない真雪に手を焼いていると、源ちゃんがドアをノックした。はい、とわたしが答えるとドアが開いた。
「まだ入ってないのかよ。ったく。朔ちゃん、いいから脱がして風呂場に投げ入れといて」
「……うん、でも」
「真雪。あんたそれだけみんなに迷惑かけてんだから、諸々の事情は説明しなきゃ許されないからね」
「……」
事情。
そうだ。何があったのか、あとでちゃんと説明してくれると言っていた。それをわたしは待っている。待っているけど、聞くのは怖い。知って、それを受け止めた上でちゃんと真雪と向き合えるのか、何があったかわからなくても不安ははっきりとある。
「いいね? 朔ちゃんにも話すよ!?」
「……」
真雪は力なく、でもちゃんと頷いた。それを確認した源ちゃんは、脱衣所のドアを閉めた。
「真雪。服、脱げる?」
「……」
Tシャツにそっと手をかけると、真雪がわずかに抵抗した。
「自分でできる?」
真雪は黙ったまま、また頷いた。
「じゃあ、わたし源ちゃんたちと待ってるね」
「……」
やっぱり何も言ってくれない。でも、今わたしから何かを求めたらよくないことはなんとなくわかっている。わたしは黙って脱衣所を出た。
「あれ、真雪、ちゃんと入った?」
「あー……うん。たぶん」
リビングに行くと、開くんがコーヒーを淹れてくれていた。
開くんは源ちゃんよりはひと回り小柄だけど、全体的にガツッとしっかりした感じで、意図的に鍛えている感じがした。
「真雪から許可もらったから、ちょっと昔話でもしようかね」
促されてソファの空いている席に座ると、源ちゃんが少し気が重そうな雰囲気で言った。
「……わたしが聞いちゃってもいいのかな」
「それは朔ちゃん次第でしょ。真雪からはOK出てるんだし。これからも僕とか真雪と一緒にいたいなら、それは聞いておいて損はないと思うけどね。聞かないなら、今後もこういうことあってもそれ以上は近づけないってだけだけど」
確かに、このまま知らなくても生きていけるけど、これだけの状況をこのままにしていればモヤモヤは残り続ける。
「どうする? 聞く?」
話すと言ってくれているのだから、素直に受け取ろうと思う。これからもみんなと一緒にいたいから。
「……うん。お願いします」
「じゃあ、まぁ、さっき真雪がパニック起こした原因について話すね」
ふぅ、とひとつ大きく息を吐いて、源ちゃんは何か覚悟を決めたように見えた。
わたしもつられて気持ちが引き締まって、思わず姿勢を正した。
「ちょうど10年くらい前だったかな。モデル時代、真雪が19くらいの時にね、真雪のことをすごく慕ってる後輩のモデルの女の子がいたの。エマっていって、真雪の2コくらい下だったかな。モデルにしては小柄で、美形というよりは個性的なタイプの割と人気ある子だったんだけどね」
真雪のモデル時代の話は初めて聞く。
なんとなく、真雪の態度からして、あまり聞いてはいけないことなのかな、と思っていた部分がある。やっぱり緊張する。
「その子が、ちょっと体調を崩すようになって。メンタルがあんまり強い子じゃなかったんだろうね。真雪も一生懸命相談に乗ったり面倒見たりしてたんだけど、なかなか回復しなくて、そのうち、仕事もできなくなっちゃって」
源ちゃんは時々なにかを思い出すみたいにそっと黙る。慎重に言葉を選んで話してくれているのがわかる。そのゆっくりとしたテンポが妙に心地よくて、わたしはその優しい空気に縋るように身を委ねた。
「半年間くらいかな、ずっと療養してたんだけど、結局ね、自ら命を絶っちゃったの。それもね、最悪なことに、真雪を巻き込んだ無理心中未遂」
聞かなければよかった、と思う気持ちと、教えてもらえてよかったな、という気持ちが入り混じって、胸の中に猛烈な勢いで濁った泥水のような感情が湧き上がる。
これは、本当にわたしが知ってもよかったことなのか。
真雪は知られたくないことだったのではないのか。
真実は、今のわたしにはわからない。でも、それならなおさら逃げずに全て受け止めようと思った。
真雪のことを知るために。
自分のために。
「死にたいって連絡来たから慌ててその子の家に行った真雪を、一緒にいって欲しいって持ってた刃物で襲ってきて。あの傷はその時できたもの」
そうであってほしくなかった。
誰かに傷つけられたものであってほしくなかった。
病気とか、不慮の事故の怪我とか、そういう誰かの感情が向けられたわけではないものであってほしかったのに。
「見たでしょ。さっき」
頷くと、源ちゃんはわたしの手をポンポンと軽く叩いた。
「その子、病院に運ばれたんだけど、真雪が様子を見に行く前にもうかなり色々傷つけちゃってたみたいで、結局ダメだった」
話の内容とさっきの真雪の様子が少しずつリンクして、いろいろ散らばっていた小さな点がきれいに揃ってつじつまが合っていく。
「それで、エマが残した遺書みたいなものが見つかったんだけど、たった一言、真雪さんになりたかった、って書いてあったの」
そんな残酷なことがあっていいのかと、勝手にひとりで絶望した。
恨まれていたわけでも憎まれていたわけでもないのか。ただ、羨まれていた。憧れられて、羨ましがられて、そのことで可愛がっていた後輩が自ら命を落とした。自分を巻き添えにしようとしながら。
それを知った時の真雪の気持ちを想像してみたけど、全く、これっぽっちも想像できない。文字通り、想像を絶する。
しまった。気を抜くと涙が溢れてしまいそうだ。
「その子、元々あんまり健全なタイプじゃないのは目に見えてて、ちょっと色々危険な感じはしてたんだよね。僕にも懐いてたし、真雪を慕ってて、真雪もそれは嫌じゃなかったんだと思うけど、メイクとか私服とか持ち物とかを真雪の真似ばっかりして、体型も顔立ちも全然違うタイプなのにとにかく真雪みたいにしたがってて」
源ちゃんも、厳しい顔をしている。話していても辛いのだろうな、と思う。いつも穏やかな優しい顔が、少し力んで歪んでいる。
「一緒にいても、背が高くていいなー、お肌綺麗でいいなー、スタイル良くていいなー、ってそればっかり。側から見てても真雪が気の毒なレベル。言われても困ることばっかり言って、さすがに真雪も扱いに困ってたところもあって、周囲はみんな心配してたんだよね。それで結局、あんな結果になって」
真雪だけじゃない。近くでふたりを見ていた源ちゃんだって大変な思いをしたはず。それを一緒に乗り越えてきたふたりの絆はきっと頑強で、そこは、わたしなんかには入り込む余地がないのは目に見えている。
「真雪は当然、責任感じて、すぐにモデルやめてしまって。それはもう突然。僕ももちろんしたし事務所のスタッフも総出で説得したけど全く揺るがなかった」
「あの時は、関係者全員しんどかったよね」
開くんが言った。
もしかしたら開くんもその頃のことを知っている人なのかな。
「自分のせいであの子が亡くなったと思っちゃったんだろうね。それからはメイクも一切しなくなっちゃったし、ファッションも、最低限の地味なものしか着なくなっちゃった。自分を飾るということを全くしなくなったんだよね」
「まぁ……あの子はねぇ、優しすぎて、思いやりが深すぎて自分がめちゃくちゃに傷ついちゃうタイプだからね。厄介なんだよ、ある意味」
やっぱり、開くんも源ちゃんと一緒に真雪を見守ってきたんだ。一緒に、乗り越えてきたんだ。
「事件からしばらくはさぁ、もう本当に廃人みたいな生活してて、親御さんももうどうにもできないって困ってて、僕も仕事あるしそんなに付きっ切りでいるわけにもいかないから、ちょっと静観してたんだけど」
もしわたしもその時から友達だったら、源ちゃんたちみたいにそばにいてあげられただろうか。自分のやらなければいけないことも山積みの中、傷ついた人に寄り添い続けるのは、並大抵のことではないと思う。それを源ちゃんたちはやってきたのだ。
すごいと思う。本当にすごい。
「それでもほんの少しずつでも何か良い兆しが見えたらそこ掘り下げて、これからどうやって生きていきたいか、っていうのを何度も何度も話し合って、僕がメイクアップアーティストの養成学校を勧めて通わせたんだよ」
「そしたら予想外にメキメキ頭角あらわしちゃって、で、元々の人脈も多かったし卒業したらあっという間に仕事増やして、で、現在に至るって感じだよね」
「うん。それで、メイク業界に名が知れ渡って、そろそろ自分でもメイクとかおしゃれまた始めようよ、って言ったんだけど、そこはやっぱりなかなかそういうわけにもいかないみたいで」
源ちゃんが少し表情を緩めて、クタッとソファの背もたれに寄りかかった。一番苦しかった時のシーンが終わったのかもしれないと、期待をしてしまう。
「で、僕が友達とずっとやってたゲイバーでのドラァグクイーンナイトっていうイベントに誘った時、なんだか興味持ったみたいだったから声かけたの。そしたら、やってみてもいい、って言うからちょっと巻き込んでみたら、アレでしょ。それはそれはウケて、あっという間に人気パフォーマーになっちゃったわけ」
やっと、やっと源ちゃんの顔に笑顔が浮かんだ。
「僕はメイクアップアーティストとして学びがあるかと思ってドラァグに誘ったし、真雪も最初はそっち側のつもりだったんだろうけど、なぜかパフォーマーの方になっちゃって。あのスタイルにあの小顔だからね。美しくなるに決まってるよね。先にやってた僕の立場が……あはは……」
「まだ真雪自身のための日常的なおしゃれはできないみたいだけど、ドラァグクイーンとしてならやっと人前に出られるようになったし、俺は源太郎が誘ったのは正解だったと思ってるよ」
開くんが、源ちゃんを慰めるみたいに笑って、テーブルの上にあったチョコレートの包みをひとつ投げ渡す。上手に受け取った源ちゃんは、それをわたしにくれた。
「とにかく、昔一度、他人の血を全身に浴びて、自分も大怪我して、今日はそれを思い出しちゃったんだろうね。トラウマ発動、ってやつ。はい、これで、さっき真雪があーなった原因の説明は終わり。納得した?」
「はい……うん、した」
なにか、壮大なストーリーの中をずっと流されてきたような気がする。ただ座っていただけなのに、猛烈に体力を消耗したようなぐったり感がある。
途中泣かないでいられたのは、自分を褒めてあげたい。
「あれ、大丈夫?」
「うん。だいじょうぶ」
「あー……そっか。役者さんだもんね。いろいろ、共感性高いとしんどかったかな、内容的に」
「いえ、平気です」
改めて、今の真雪の状態と彼女の過去の出来事を頭の中でリンクさせてみたら、とんでもなく衝撃的だったのだと今更ながら思う。
人生普通に生きていて、他人の血液を全身に浴びるなんていうことが1度あるだけでも大変なのに、真雪はそれが2度目で、そんなのパニックにならないはずがない。
「まぁ、本人はどうだか知らないけど、一応はもうみんな過去の出来事として納得して気持ちの中では終わらせてるつもりだし、朔ちゃんにはこれからも変わらずに真雪に接してあげて欲しいと思うけど。無理じゃなければ」
「それは、はい。大丈夫。だいじょうぶ、です」
本当に大丈夫なのか、と自問する。今はそう思っている。そうでなければいけないと思っている。でも実際にそうできるかどうかはわからない。
でも、しなければ。
今のわたしにできることがなにかあるだろうか、と考える。でも、まだ知らないことが多すぎて、すぐには思いつかない。真雪の気持ちもなにも知らないし。
いつか、知ることができるだろうか。そんな機会がやってくるだろうか。
知りたいと思う。真雪のこと。源ちゃんのこと。開くんのこと。それから、ローラさんやシーナさんのこと。
そんなことをぼんやりと考えていたら、バスルームの方で物音がした。
「あ、出たかな、真雪。続けて朔ちゃんも入っておいで。あ、しまった。服持ってくの忘れてた。朔ちゃん、これ持ってってあげて」
「うん」
源ちゃんが手渡してくれた衣類を受け取る。
「こっちが真雪で、これが朔ちゃんね。朔ちゃんのは開のだけど、新し目のやつ選んだから」
「すみません、ありがとう」
「今着てる服は処分。下着は真雪のと一緒に洗うからネットに入れて洗濯機に突っ込んどいて。洗濯機ダメなのあれば手洗いしといて。あとで干す場所教えるから。身体、しっかり洗ってね。隅々までね。お風呂にあるもの何でも使っていいからね」
何から何までお世話になって、源ちゃんのバイタリティーの高さに感心する。
今のわたしにはお礼を言うことくらいしかできないけど、せめてちゃんと向き合おうと心に決めた。ちゃんと、真雪と、現実と、向き合う。
「うん、ありがとう」
心を込めてお礼を言って、わたしはバスルームに向かった。
「真雪」
「……」
脱衣所のドア越しに声をかけてみたのだけど、返事はない。浴室内での物音はしないので、もう脱衣所にいるはずだけど。
「真雪? いる?」
「……ん」
「あの、源ちゃんから着替え預かってきた」
「……朔。ちょっと、きて」
服をわたしが持っている。だからきっと、真雪はたぶん、裸で。それでも来てと言われたら、裸を理由に断るのも今は違う気がして。
そうだ。元モデルと現役の舞台役者なのだし、しかも同性の裸なんてどうってことない。だから大丈夫。
「…………うん、じゃあ入るね」
恐る恐る、脱衣所のドアを開けた。
真雪はわたしの方へ背を向けて、バスタオルを片手にダラリと下げて、裸のまま立っていた。本当に無駄なものが一切ついていない、完璧な身体。見入ってしまいそうになって、慌てて目を逸らした。
「……あの、さ。ちょっと、ちゃんと洗えたか見てもらってもいい?」
そんなのはきっと、必要以上に念入りに洗ったに決まっていて、絶対にきれいになっているはずで、でもたぶんそういうことではない。ちゃんと洗えてきれいになっていることを自分以外の人にも確認してもらわないと気が済まないのだ。
「うしろ、頭とか、背中とか、汚れてないかな」
「……うん。きれいになってるよ。どこも汚れてない」
本当にきれいになっていたので見たままを伝えた。
「…………そっか。ありがとう」
「着替え、ここに置くね」
「………………ぅん」
真雪の声が震えた。
たったひと言の応答だったのに、それが確実に震えた。
わたしは真雪の手からバスタオルをそっと奪うと、それで真雪の身体を覆った。
「じゃあ、わたし、あっちで待ってるね」
「朔……」
そのまま脱衣所を出ようとドアのレバーに手をかけたら、呼び止められた。
「ん?」
「まだ、いて。ここに」
「……うん」
わたしなんかが一緒にいたところで、何の役に立つか全くわからない。源ちゃんみたいに真雪を抱きしめてあげられるわけでもないし、なにか気の利くことを言ってあげられるわけでもない。それでもいいならここにいるけど。
「真雪、ここ、座る?」
脱衣所の隅にある椅子を指差すと、真雪がそっと頷いた。
バスタオルをわたしがかけてあげたまま、真雪はそれをちゃんと押さえていないので、前がはだけて身体が見えている。わたしはそこにあまり目をやらないように気をつけながら、真雪の身体をそっとタオルで覆い直した。
真雪の身体はどこから見ても本当に綺麗で、元とは言ってもやっぱり売れっ子モデルだったし、一般的な女性の体つきとは全く違う。自分と比べたいとも思えないくらい別次元の生き物みたいで、神々しくさえある。
でもきっと真雪はそれを特別視されることを望んでいない。モデル時代はともかく、今は、おそらく。芸術を愛でるような感覚で観ていたい気はするけど、ここはやめておくのがいい。
「ねぇ、もういっかい見て。髪とか、汚れてない?」
本当に、病的なほど囚われている。源ちゃんから過去の話を聞いた後なので、真雪の言動全てにちゃんと原因や意味があるのだと痛いほど伝わってくる。
「うん。汚れてないよ」
「本当? ちゃんと見て、背中も、全部」
「大丈夫。どこもきれいだよ」
真雪の気が済むまで付き合おうと覚悟を決めた。今のわたしにはそのくらいのことしかしてあげられない。
「ほんとに?」
「うん」
そうか。
やっと、今までの真雪の言動が腑に落ちた。
出会ってからずっと、なんでこの人はこんなに人と距離を作っているのだろう、と思っていたことが、全て納得いった。あの分厚い分厚い壁の意味が、やっと分かった。
真雪は、ずっと怯えていたのだ。人と近くなることを。
「……きれいに、なってた、かぁ……」
そう呟いたけどその言葉はホッとした安堵の声にはとても聞こえなくて、何か、諦観というか、不可抗力的な何かに争うことを諦めたみたいに寂しい言い方だった。
その顔を見て、わたしは気づいてしまった。
本当に寂しかったのはわたしじゃない。この人の方だ。
好きな人ができたことがないわたしなんかより、人を好きになれるのになりたくなくなってしまった真雪の方が、きっと何倍も寂しい。
わたしがもっと真雪にしてあげられることが何かないか、と考えてみる。
源ちゃんは慈愛のハグをしてあげられる。叱ったり、喝を入れたり、世話を焼いたりもしてあげられる。
わたしなら、あと何をしてあげられるだろう。
「あのね。さっき、源ちゃんから聞いた。真雪の昔のこと」
真雪の正面の床に座って、俯いている真雪を真っ直ぐに見上げる。
「前にね、源ちゃんから、真雪のルックスを褒めるのはダメだって言われて。真雪の地雷だから、って」
力なくぼんやりと見つめている空間にわたしが入り込んだので、仕方なく、と言った形でわたしを見ている。
「でもね、そう言われたけど、その意味も理由もわかるけど、わたしは真雪のこと、すごく綺麗だと思う」
源ちゃんに言われた、真雪の地雷。
わたしはそれを、敢えて踏んでみようと思った。
傷つくかも知れない。真雪も、わたしも。でも、それでも伝えたかった。
真雪が美しいのだという事実を。
「綺麗。すごく。全部、綺麗」
伝わるだろうか。清潔、という意味のきれいではなく、容姿が優れているという意味での綺麗、なのだと。
源ちゃんの言った通り、真雪は眉をかすかに顰めて、スッとわたしから目線を外した。
「真雪は綺麗だよ」
もしかしたら本当に地雷を踏むどころか新たな燃料を投下してしまうかも知れない。それでもわたしは真雪を綺麗だと思うし、それを真雪にもわかって欲しかった。それを伝えたことで何かが爆発してしまうなら、真雪の分までわたしひとりで全部引き受けて潔く散ろう。
もしわたしの気持ちが通じなかったら、ということばかり考えていたら、いつの間にか真雪がポロポロと涙をこぼしていた。ただ、黙って、どこか空を見つめるみたいにして、真雪は泣いていた。
抱きしめてあげたい、と思った。手が、出かけた。
でも、わたしはまだシャワーを浴びていない。せっかくきれいになった真雪を今わたしが抱きしめたら、また汚してしまう。
悔しい。
どうして、今。
こんな、必要な時に思うように動けないなんて。
手だけは石鹸でしっかり洗った。手だけなら、触れても許されるかな。
「真雪」
タオルの端っこをギュッと握ったまま太腿の上に行儀よく置かれた真雪の手に、そっと触れる。拒絶されないことを確認してから、真雪の大きな拳を包むみたいに握った。わたしの小さい手では全然覆い切れていないけど。
「ごめんね。源ちゃんからダメって言われてたけど、どうしても我慢できなかった。わたしは、真雪をすごく綺麗だと思う。でも、わたしは真雪とは違うから。真雪のことを羨んだり、真雪になりたいと思ったり、しないから、ね」
真雪の大きな目から、ボロボロと雫がこぼれる。感情の伴わないいつも通りの顔のまま、ただ涙だけがボロボロと落ちてくる。真雪はそれを止めることも隠すこともしないで、ただ、ひたすらに垂れ流している。
今の真雪に必要なもの。
支えになるもの。
真雪を優しく包み込めるもの。
それは、わたしでは無理だ。
「真雪。服、着よう。服着て、みんなのとこ行こう」
源ちゃんに託すしかない。彼なら、今の真雪を支えることができる。
「わたし、シャワー浴びちゃうから。交代してもらえる?」
早くわたしも全身洗ってきれいになって、そうしたら改めて真雪を抱きしめたい、とか、思ったのかも知れない。自分と真雪との間に制限のような距離のようなものがあることが、なぜか無性に気持ち悪かった。
唯一清めてある手を貸して、まだ水滴が滴っている髪をタオルでそっと包んで、圧し絞る。なかなか泣き止まない真雪の身体の向きをそっと変えて、ドライヤーで髪を乾かす。それから、真雪が服を着るのをサポートした。
「よし。とりあえず、これで」
長い髪をそっと退けて覗き込むと、真雪の涙はどうにか止まったようだった。
「源ちゃん、呼んでもいい?」
「……ん」
返事が曖昧で読み取りにくいけど、たぶん、イエスだ。
「じゃあちょっと待っててね」
そう言って脱衣所のドアを開けたら、すぐ前に源ちゃんが立っていた。
「あ。びっくりした。あの、真雪、支度できたから」
「うん」
「あの、ちょっと、泣いちゃって」
「……そっか。うん」
もしかして、やりとり、聞かれていたかな。約束、破っちゃったのだけど。
「あと、お願いしていい?」
「うん。朔ちゃん。ありがとね」
怒られなかったということは、真雪を綺麗だと言ってしまったことはバレていないのかな。
「……はい。あの、いえ、それは」
何もしてあげられなかった。ろくに力になれなかった。
源ちゃんは脱衣所で座っている真雪に近づくと、腕を掴んで立ち上がらせて、そのままギュッと抱き込んだ。
「よし。がんばった」
同じくらいの身長なので、すっぽりというわけにはいかなかったけど、それでもちゃんと全身を包み込むように抱きしめることができていて、見ていても安心する。
安心、するのだけど。
それだけではない気がしていて、なんとなく胸の中がざわざわする。
でも今はそれを追求する余裕はなくて、他にやるべきことがあって。
「朔ちゃんも早くシャワー浴びてきな。そしたらあんたもハグしてやっから」
そうだった。とにかくシャワー。それが最優先。
「うん。浴びてくる」
真雪の肩を抱くようにして脱衣所から出て行く源ちゃんを見送って、わたしはドアを閉めた。それから、ローラさんが買ってくれた服を脱いで、すでに真雪が着ていた服が入れられているゴミ袋に突っ込む。
ゴミ袋の口を閉めてしっかり縛って、今夜の出来事をなんとなく思い出した。
とんでもない出来事だったけれど、真雪と源ちゃんに少し近づけたのも事実。良かった、なんてとても思えないけど、全く救いがなかったわけでもなくて、そう思うとほんの少しだけ救われる気がした。
シャワーを全身に浴びながら、わたしはさっきの真雪の泣く姿を思い出していた。
スラリとスタイルが良くて、美しい顔に、美しい髪。神様から二物も三物も与えられて、不満なんてないだろうに、と思ってしまうくらいのルックスなのに、あんなに大きな闇を背負っていて、苦しんでいて、あんなふうに泣いて。
真雪の拗れた罪悪感を、取り除いてあげたい、と思う。10年前のあの事件で真雪の落ち度はなくて、言ってみれば真雪が被害者なのに、こんなに長い間罪悪感を抱いて生きてこなくてはいけなかったなんて。
でも、今まで源ちゃんたちが10年かけて頑張ったのにどうにもならなかったものを、新参のわたしなんかがどうにかできるわけもないと、それはわかっている。それでもただ黙って見ているのは辛くて、ほんのわずかでもいいから役に立てたらいいのに、と願わずにはいられない。
悔しさに、思わず涙が滲む。でも、わたしが泣いてどうするのだ。わたしが泣いていい余地はどこにもない。
じわりと浮かぶ涙を即刻消し去りたくて、シャワーに顔を向けて正面から浴びた。浴びまくった。痛いくらいにシャワーを強くして、ひたすら流した。
きっと今、真雪は源ちゃんにハグされて癒されている、はず。
それでいい。それが最良の方法だ。
わたしがいなくても、大丈夫。だって今までずっとそうだったのだから。
わたしの存在なんて、オマケみたいな、ちょっとした食玩みたいな程度のもので、たいした存在ではない。
だからみんなのところに行ったら、わたしは頑張って邪魔にならないように笑顔でいるから。
今だけ。今だけは、この不安な気持ちや情けない気持ち、それからモヤモヤと謎の得体の知れない黒い気持ちを身体から排出してしまいたくて、その潤滑剤として涙が必要なので、これは仕方がない。仕方がないのだ。
誰にするでもない言い訳を山のように積み上げながら、わたしはシャワーに助けられるみたいにそっと泣いた。
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