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scene 15 衣装倉庫(夕方)
エマの妹が来るという情報をもらってドタキャンしたイベントのリベンジが叶った。同じお店で臨時に開かれるイベントで、仲間内のちょっとしたパーティーなので口コミでしか告知していない日。無関係の一般客は入れないありがたいイベントになっていた。
今日こそ、新しい衣装を着させてもらって、メイクも自分で、と思って、まさしくリベンジの心意気で出かける準備をした。
アポなしで早めに倉庫に着いた。約束では16時集合になっていたのだけど、衣装やウィッグを色々と見せてもらいたくて早めに来てしまった。
鍵は暗証ナンバーを教わっていて、先に着いたら入っていて良い、と言われている。
部屋の中は電気がついていない。まだ誰も来ていないのか。
でも、中に入ってドアを閉めると、何か微かに音が聞こえた。会話のような、雑音のような。
誰かが部屋の中で話している感じではない。これは、スマホから流れる音声?
音の出所を探るように見回すと、部屋の端に置いてある小さなソファの辺りからだった。
背もたれがこちら側になっていて、座面は隠れている。でも確かにその辺りから音が聞こえる。恐る恐る近づくと、ソファで小さくなって寝ている人がいた。
薄い毛布にくるまっていて、顔もほとんど隠れている。
でも、毛布からはみ出した長い髪は、他の誰のとも間違えることはない。
真雪。
眠っているのか、わたしが入ってきたことには気づいていない。
胸元でスマホを握りしめていて、音はそこから出ていた。
ひとのスマホの画面なんて見ていいものではない、と、わかってはいた。でも、真雪が何を見ていたのかが気になって、つい、覗き込んでしまった。隠してあるものをほじくり出して盗み見たわけではないから、と言い訳をして、真雪の手の中にある画面を見た。
動画投稿サイトの動画。
楽しそうな雰囲気の、これは、何かのイベントの打ち上げ、のような。ガチャガチャと大勢で騒ぐ、パーティーのようなシーン。
そこに映っているのは、知っているような、知らないような。
そうか。これ、昔の真雪か。あと、もしかして隣にいるのは、源ちゃん? 今より少しほっそりとしていて、でも表情や話し方は全然変わらない。
びっくりしたのは、真雪の表情。
すごい笑顔で、源ちゃんと声を上げて笑っている。
見たことのない顔。知らない笑い声。
すごくいけないものを見たような気分になって、やめとけば良かったな、と思う。そして、もうやめよう、と思ってその場を去ろうとした時、真雪にぶつかるように画面に飛び込んできた人影に気付いた。
すごく可愛い女の子。真雪に甘えるようにまとわりついて、腕を絡めたり、抱きついたり。それを困ったような笑顔で優しく見守る真雪と源ちゃん。何かおねだりするみたいに真雪に話しかけて、その願いが叶わなかったのか、プクッと膨れる女の子。そして、それを見てまた笑う真雪。それから、その子の頭を撫でて、何かを言って、またみんなで笑って。
予感はあった。以前、源ちゃんから聞いたことがあった。
その予感が、確信に変わる。源ちゃんが、動画の中でその子の名前を呼んだ。
エマ。
真雪を傷つけて自らこの世を去った子。
真雪が今でも引きずっていて、未だに背負っているものを下ろせないでいる。
自分のせいでこの子が病んでしまった、と思っていると。
真雪のせい?
本当に?
源ちゃんは、真雪もある時からこの子の扱いを色々と困っていた、とも言っていた。
でも、この子がこの世を去ったのは事実。
この子が真雪に憧れていたのも事実。
真相は、わたしなんかにはわからない。真雪がどう思っていたのか。エマがどんな子だったのか。源ちゃんは彼女たちをどう思っていたのか。
関係ないのに、と思いつつ、それでもこんなに心がざわざわするのはどうしてだろう。源ちゃんと真雪の過去なんて、しかもこんなに昔のことなんて、わたしには本当に全く関係ないのに。どうでもいいことなはずなのに。
そろそろ準備を始める時間だし、と思って、真雪を起こそうかと声をかけようとした。
ソファの背もたれに手をついてそっと覗き込んで、真雪の顔を見て。
そこでわたしは、今度こそ本当に見てはいけないものを見た。
真雪は、確かに眠っていて、それは真雪の呼吸のテンポと深さでわかる。でも、ただ眠っているだけではなかった。
真雪の閉じられた瞼から、ソファに向かって一筋の涙が流れていて、それが毛布の一部に小さな沁みを作っていた。
どうして泣いていたの。
何が悲しいの。
懐かしい、楽しい動画なはずなのに。
失ってしまったものを思い出して?
もっと何かできたのではないかという後悔?
それとも、罪悪感?
違う。
これはたぶん、恋心だ。
わたしには持つことができない。人を好きになる気持ち。自分では実感できないから、わからないなりに、小説や漫画を読み漁り、ドラマや映画を観まくって、感情としてではなくセオリーとして頭に叩き込んだ心情。
たぶん、これがそれだ。
この人は、違った。わたしと同じなんかじゃなかった。
どうしてほんの一瞬でも同じだなんて思えていたんだろう。何を、勘違いして。
この人はちゃんと人を好きになれる人だ。
わたしとは全然違う。
全然似てないよ、源ちゃん。
心臓が、圧迫されるみたいに苦しい。
話していることはなんとなく聞こえているけど、頭に入ってこない。ざわめきだけが周囲の騒音と混ざり合って、ただの音圧として聞こえるだけ。
分かりたくない。会話の内容を、理解したくない。
もう聞きたくない。
観たくない。
気付いたらわたしは倉庫を出ていて、そこからどう動こうかと考えがあったわけではないのに、1階に降りる階段を駆け下りていた。
ビルの下にある歩道に出たところで、これからどうしたらいいかわからないことに気付いた。スマホの時計を見たら、間もなく集合予定の16時になりそうで、今ここから去るということはイベントの準備を放棄することになるのかもしれない。
帰るつもりはないけど、でも、倉庫にいるのは嫌だ。
どこへ向かうともなくふらふらと歩き始めたところで、背後から名前を呼ばれた。
「朔ちゃん、どこ行くの?」
源ちゃんだ。しまった。会いたくなかった。
顔を見られたくない。たぶん、すごく変な顔をしている。
取り繕えない。得意技が出せない。どうしたんだろう。
「もう時間だよ、何か忘れ物?」
「あの、ちょっと、コンビニ……」
振り返らずに答えて、そのままその場を去ろうと思ったのに、腕を掴まれて動けなかった。
「どうした? 何かあった?」
引っ張られて、覗き込まれるようにして、顔も見られて、色々バレた。
「どした!? 真雪……真雪に何かされた!?」
「え、ちが、何も、何もない、されてない、何も」
言葉が支えて、みっともないほどしどろもどろになる。なんだこれ。役者としてはアウトだろ、となぜか笑えた。
「じゃあどうしたの、今、上から降りてきたよね? 真雪、いなかった?」
「……真雪は、中で寝てて」
「…………ちょっとおいで」
そのまま腕を掴まれて2階の倉庫内へ連れていかれる。
無言の源ちゃんは少し怖い。
倉庫の入り口で、源ちゃんは室内の様子を見てから振り返った。
「ちょっとここで待ってて」
「あの、別に、何も」
「いいから」
源ちゃんがソファに近づいて真雪を確認している。そして、大きなため息をついた。
「はぁああ、もう! バカチン!! 真雪!! 何してんの!!」
真雪がモゾっと動いて頭を上げた。
「こら! 起きろ! あんたねぇ、朔ちゃん来るってわかってんのに、何そんなモン観てんの、しかもそのまま寝るとか……あーもう、ほんとおバカ!!」
「……え? な、に……?」
片目を細く開けた真雪が、まず源ちゃんを、そのあと入り口にいるわたしを確認した。それから、自分がいる場所を見て、自分が持っているものを見て、さっきの源ちゃんより大きなため息をついた。
「……あ、いや、あの……ごめん……」
謝ることなんてない。昔の動画を観ることなんて、何も悪くない。真雪は何も悪いことしていない。わたしが勝手に動揺しただけ。
動揺?
なぜ?
何に対して?
のそのそと起き上がった真雪は、スマホの画面を閉じて、壁に掛けられた時計をじっと見て、それからゆっくりと両手で顔を覆った。そしてしばらくじっとして何かを考えているようだった。
「源太郎……ちょっとだけ席外してもらえる?」
「……わかった。15分までね。4時15分まで出ててあげる。きっかり4時15分に戻るからね!」
「ごめん。ありがとう」
どうして源ちゃんが席を外すんだろう、とか、流れがよくわからなくて、ただそこに立っていることしかできない。わたし、何をしにここに来たんだっけ。
「戻ったらすぐ塗り始めるからね、メイクできないような顔になるなよ!」
「わかった」
ズカズカと入り口まで戻ってきて、源ちゃんはじっとわたしを見た。
「朔ちゃん」
「……はい」
「おいで」
手招きされて近づくと、そのままガバッとハグされた。びっくりしすぎて動けない。
「あああ、もう! 早く……早く気付け……!」
気付け?
わたしに言ってる?
何を。何に気付けと言っているの?
わたし、何かを見落としている?
それとも、何か勘違いでもしている?
「もし困ったことあったらすぐ電話しな。飛んで帰ってくるから」
ふわりとわたしを解放すると、わたしの頭に手のひらをポンと乗せた。
「うん」
「じゃあね、ちょっと出てくるね」
「うん」
音も立てずにそっとドアを閉めて、源ちゃんは出て行った。
これから一体どんな話が始まるのだろう。わざわざふたりきりにならないとできない話なんて、どんなのだろう。想像しただけで不安になる。
真雪とふたりで残された倉庫は、なんだかいつもより広く感じて、少し怖い気がした。
「えっと……」
「……はい」
源ちゃんが出て行ってから、わたしは呼ばれてソファが置かれた部屋の奥まで行った。
でも、そこからどうしたらいいのか、何をすればいいのか、わたしもだけどたぶん真雪もわかっていないようで。
「あれ。なんで源太郎追い出したんだ?」
「……?」
「……あと、私、なんで源太郎に怒られたんだっけ」
わたしに訊かれても。そんなこと、こっちが訊きたいくらいなのに。
「え、それは……なんで、だろうね……」
なんだか気が抜けて、とりあえず目の前のベンチに腰を下ろす。本当に、なにがどうなってしまったのか。
「朔は、なんか、怒ってる?」
真雪も困惑していて、少し気の毒なくらいだ。
「……いや、怒っては……」
「……」
「……」
本当に困ったな。
「はーーーーい!! そこまでーーー!!! 時間切れーーー!!! 続きのイチャコラは帰ってからや……あ、あれ?」
突然、ドバーン!と勢いよくドアが開いて、源ちゃんが叫びながら入ってきた。
わたしと真雪はびっくりして、ただ固まった。
「…………あんたたち、何してんの……?」
「え……話、だけど……」
最初に座った時の位置取りのまま、ただ、向き合って。真雪がソファで、わたしが対面のベンチで、そのまま。
そう。話していた。
ただ話をしていた。
でもお互い、何をどう話していいのかわからなくて、ただ、どうしようね、というだけで。
「……はぁ? 話、って、何を話したの?」
「え、いや……源太郎がなんで怒ったんだろうね、って」
「…………それだけ?」
源ちゃんは心底呆れたようにわたしたちを交互に睨んだ。
「うん。だってわかんないんだもん」
真雪も間抜けな返事をしている。
「……朔ちゃんは? 朔ちゃんはちょっとは気持ち整理したりとか、何か」
「…………いや、ちょっと、何をどうしていいかわかんなくて」
わたしも同じような返事しかできない。本当に、なにしているの、これ。
「あああああ!? 何やってんだお前らは……」
源ちゃんが叫んだ。いきなり大声を出すので普通にびっくりした。
「え。ホント、なんでそんな怒ってんの」
真雪も引き気味で、もう3人の誰もが誰のことも理解できていないのだろう。
「もーーーびっくり。マジでびっくり。なんなん!? アホなの? お前ら……」
「はぁ? なんでそこまで言われなきゃいけないの」
「ちょっとさぁ……あー、これはマジで言っても伝わらんやつかも知れん」
わたし何か本当に重大な見落としや勘違いがあったりしないだろうかと、記憶や状況をもう一度見直してみようと思ったのだけど、源ちゃんのプリプリ具合がすごすぎて気が散ってうまくいかない。
「ダメだもう、いいよ、じゃあそれぞれに思い知らせてやるから」
ドサリ、と源ちゃんのバッグがローテーブルに乱暴に置かれた。
「真雪、ちょっとそこどけ」
源ちゃんが真雪を退かして、ソファに座った。真雪はその場に立ち尽くしている。
「じゃあまず、真雪。ここに、こっち向いて座って」
「はぁ? なんでよ」
「いいから。ほら、来い」
「……」
仕方なさそうに真雪が座ると、源ちゃんはわたしをジロリと見た。
「朔ちゃん、見てな」
そう言うと、真雪の方に向き直って、ゆっくりと近づいていった。
「なぁ。なんであんな昔の動画観てた?」
「……そんなの、なんで言わなきゃいけないの」
「いいから言えよ。なんで今、ここで、あんなもん観てた?」
なんだかいつもの源ちゃんと違う。
「……ちょっと、確かめたくて」
仕方なさそうに真雪が答えると、少しずつ顔を近づけて追い詰めるように続けた。
「何を?」
「いいじゃん、別に」
「良くねーよ。言えよ」
なにかいつもの源ちゃんと雰囲気が違って、少し怖い。
「……自分が、どうやって、どんなことで笑ってたのか、を、思い出したかったんだよ」
「ふーん。それで? 思い出したの?」
「……わかん、ない、けど……ちゃんと笑えてたことだけは、わかった」
「へぇ。そうだよな。お前、昔はよく笑って可愛かったもんな」
そう言うと、さらに真雪に近づいて、逃げ腰の真雪の上に乗り上げるみたいにしてのしかかっていく。
「ちょ、近い……」
真雪のすぐ背後にはソファの肘当てがあって、もう下がれない。本当に近くて、見ている方もハラハラする。
「わざとだよ、黙ってろ」
「……なんでよ」
「いいだろ、昔はよくキスしたじゃん」
「はぁ? そんな、の」
今、なんて?
キスを、よくした?
誰と誰が?
「思い出した?」
そして、わたしの方をチラリと見てから、動けずにいる真雪に更に近づく。
真雪が腕を上げて顔の前でクロスして防御壁を作った。でもすぐに源ちゃんの手がそれを退けて、また、グイと顔を真雪に近づける。
真雪はバタバタと暴れて、顔を思い切り横に背けて逃げている。
どうなるのだろう、やっぱりそういう展開なのかな、と思っていて、心のどこかで覚悟はしている。でも、本当にその行為に行き着きそうな状況を見てしまって、わたしは予想以上に混乱して、どうにもならなくなった。
思わず立ち上がると、源ちゃんも身体をパッと起こして、わたしの方を見た。
「はい。交代」
そう言うと、呆然と固まっている真雪の身体も引っ張り起こして、背中を押して立ち上がらせた。
「じゃあ次。朔ちゃん、おいで」
「え、あの、いいです。わたしは」
「いいから」
真雪のお尻を蹴っ飛ばして退かせてから、腕を伸ばしてわたしの手を掴んだ。そのままソファの方に引っ張られて、強引に座らされる。
そしてさっき真雪がされたみたいに、ソファの端に追いやられて上のポジションを取られた。
「僕のこと、好き?」
やっぱりいつもの源ちゃんと違う。
「え、それ、は、好き、だけど」
「良かった。僕も朔ちゃん好きだよ」
「あの、あ、えっと、ありがとうご、あれ、あ、すみません、じゃなくて、えと」
完全にパニックで、どうしていいのか、何を言えばいいのか。
「キスしたことある?」
「え、あり、な、ない、ですけど」
とりあえず源ちゃんの意図を読み取りたくて、でもどうしても顔を見れなくて、つい目を逸らした。
「じゃあ、してもいい?」
「え。それは」
「源太郎」
ふいに、源ちゃんの身体がふわりと軽くなって、見たらすぐ横に立っている真雪が源ちゃんの肩を引っ張り上げていた。
「やめろ」
真雪、怒っている?
源ちゃんがニヤリと笑って身体を起こした。
「はい。おしまい。わかった?」
表情も口調もいきなり見慣れた感じに戻って、余計混乱した。なにがどうなったというの。
「……は?」
「ふたりとも、わかったでしょ」
「え……?」
やけにスッキリした顔をして、ソファに丁寧に座り直す。完全にいつもの源ちゃんだ。
「朔ちゃん、僕が真雪にキスしようとしてるの見てどうだった?」
「どう、って……それは……」
自分が見たことと感じたことを、なんとか言葉にしようと頭を動かす。まだ混乱が収まっていなくて、なかなかまとまらない。
「面白かった? 気持ち悪かった? 悔しかった? ムカついた?」
源ちゃんが助け舟を出してくれたので、その候補からなんとか言葉を紡ぐ。
「……面白くも、気持ち悪くもないけど、なんか、ちょっと……嫌だった」
「んん? なんで? なんで嫌なんだろうね?」
「……それ、は」
「もういいじゃん」
わたしが必死に答えようとしていたら、真雪が割り込んだ。
「よくないからやってんだろ。じゃあ、そういう真雪は? なんか思ったことねーの?」
「……源太郎は関係ないじゃん」
「関係なくねーだろ。めちゃくちゃ関係あるじゃん」
「…………やだよ。言いたくない」
急に失速したみたいに言い淀んだ真雪が、それとなくわたしに背を向ける。わたしに知られたくないなにかがあるのかな、と卑屈モードが発動しそう。
「朔ちゃんに直接言う?」
「…………」
不安ばかりがどんどん膨らんで、もう逃げ出してしまいたい。
「ちょっと外出てようか?」
「いや、いい」
「……はぁ、もう。ホンットにね」
「もう、困る」
「そりゃそうだろうねぇ」
困惑気味の真雪と、呆れ顔の源ちゃんと、わけがわかっていないわたし。状況が進展する気配がない。
わたしはひたすら、なにか良からぬことを言われてしまうのではという不安と戦っている。
「わかんないよ」
「まぁ、そうだろうねぇ」
「……どうしたらいいか」
とうとう呆れ果てたのか、源ちゃんが少し厳しい顔をして真雪を見た。
「そのまま、思ってることをそのまんま、言えば?」
「…………」
「まぁいいけど。そのまま何も言わないでいて、朔ちゃんがどっかの誰かに持って行かれてもいいならね」
持って。
わたしが?
誰に?
っていうか、どうして?
「…………かも」
「……はい?」
「……き、かも」
「何? 朔ちゃん、聞こえた?」
よく聞こえなかったので、首を横に振る。
「だよねぇ」
「好き、かも、って言ったんだよ」
「……何を?」
真雪の曖昧な言葉にいちいち源ちゃんがツッコミを入れる。それで余計に会話が進まない。わたしは相変わらず見ていることしかできない。
「なに、って……」
「え、僕のこと? そんなの知ってるけど」
源ちゃんが茶茶を入れて会話を乱す。でもきっと、目的があってそうしているのだと思う。
「違うよ……朔のこと、好きかも、って言ったの」
「……え?」
やっと会話に参加できた言葉が、これ。
いや、これでは参加できたとは言えないか。
「だってさ。朔ちゃん。どうする?」
どうする、と言われても。
「え。だって、あの、わたし女だけど」
一瞬、痛いくらいの沈黙が訪れて、どうにもいたたまれなくなった頃に源ちゃんが特大のため息をついた。
「…………真雪。僕、真雪のことバカだなーアホだなーって思ってたけど、初めてあんたのこと可哀想だと思ったわ。真雪よりスゴいのがいたとは……」
皮肉とか嫌味とかなのか、いや、この場合、真雪がひどいことを言われているのかわたしが言われているのか、どちらだろう。
「え? え? スゴい? なにが?」
もしかして頭が使えなくなる呪いでもかかったかな、というくらい、なにがどういう意味なのかわからない。
「…………もっかい言ってやれば。もっとちゃんと」
「……はぁ、もう、なんでこんなことになってんの」
「相手が悪かったな。でもしょーがねーじゃん」
「クッソォ……なんだよ……」
なにがどうなってこうなった?
「朔。ちゃんと聞いて」
真雪がわたしに向き直って、わたしの手を引っ張って立ち上がらせた。そして、正面からじっと見た。
よし。ちゃんと聞こう。
「はい」
「私、朔のこと、好きかもなんだけど」
「……はい」
ちゃんと聞いた。しっかりと。
「……聞いてる?」
「はい」
聞いた。聞こえた。
「……意味、わかる?」
「……はい。でも、わたし女だよ?」
「そうだね」
意味もわかるし、でも本当にわたし、女なのだけど。
「女、同士、で」
「まぁ、そうだね」
「え、あの」
なんとなくもしかしてわたしが会話の流れを滞らせているような気がしてきた。
「私は元々、レズビアンだから、別に問題ないんだけど」
「……え?」
頭の中で、誰かが言っていたセリフや状況や表情や、そんな記憶の欠片がカタカタと小さく音を立てて存在を主張しているような感じ。
「あれ、そこからなの」
「……」
なにか、ずっと胸の中で燻っていた正体不明のモヤモヤが、姿を現しそうな気がする。
「朔ちゃんさぁ、今まで何見てたの。ビアンナイト常連だよ、この子」
「……あ、そうだ、そうだね。そっか」
どうして今まで気づかなかったんだろう。いろんなイベントに顔を出していて、ゲイイベント、ドラァグイベント、ビアンナイト、顔が広いんだなぁ、と、どこにでも顔出せるだけだと思っていて。
さっき、動画を観て泣いていた姿を見てエマを好きだったのかも知れないと思ったのに、それが真雪がレズビアンなのだということにつながっていなかった。
でも真雪がビアンじゃない証拠なんてひとつもなくて。どうして気づかなかったんだろう。
「いやぁ、鈍い鈍いとは思ってたけどここまでとはね」
「……いや、うん。わかってたけど」
鈍いとか、わかってたとか、実は結構な言われようだけど、その通りなので仕方ない。台本がないとこうしてヘタレになるところは、いつまで経っても改善しない。
「それで? 朔ちゃんは?」
「え?」
「朔ちゃんはどうなの?」
「どう、って」
今度はわたしがなにか言わなきゃいけないターン。どうしよう。なにを言えば。
「うーん、もっかいチューしよっか?」
源ちゃんがジリ、と近寄ろうとしたので、慌てて両手を胸の前に押し出してお断りした。
「いや、1回もしてないけど」
「あはは。この子マジで面白すぎ」
「茶化すなよ」
たぶん、源ちゃんはわたしの混乱や緊張を和らげようと冗談を言ってくれている。それを真雪は気に入らなくて、でもわたしはやっぱりクッションがあってありがたいと思ってしまう。
「あはは、ごめーん」
せっかく源ちゃんがその場を和ませてくれたので、わたしは一旦深呼吸をして気持ちを引き締めて、自分の置かれた状況を改めて迅速に整理した。
「あの、わたし、今まで誰かを恋愛的に好きになったことってなくて」
「そう言ってたね。だから?」
真雪が黙っているので、源ちゃんが返答した。
「だから、あの……好き、って言われても、どう、応えたらいいか」
もう逃げ場がないことはわかっていて、だから正直に思ったことを伝えるしかないのだけど、その思ったことというのがうまくまとまらなくて困る。
「僕、アロマンティックの友達いるけど、まぁ朔ちゃん見てると全然違う感じだけどね」
少し呆れたような口調。いや、呆れられても無理もないけど。
「まぁ仮に同じセクシュアリティだったとしても個人差あるからそこは断言できないけど、要するに今、あんたは真雪のことどう思ってんの、って話だよ」
「……どう、って」
わたしが真雪をどう思っているか。
そんなこと。
「真雪ぃ、僕ともっかいキスしてみる?」
「ヤだし。ってか、してないし」
「えぇー、いいじゃん、しようよ」
「はぁ? なんでよ」
それは、嫌だ。
して欲しくない。
さっきも嫌だった。
だって、それは。
「……や、です」
「え?」
「やです。ふたりが、キスするの」
そう。嫌なのだ。嫌なものは嫌だ。どうしても。
「なんで?」
「わかんない、けど、やです」
「……そういうことなんだけどね」
そういうこと?
「……あああ、もう。なんか私怖いよ」
「わかるぅ……真雪ぃ、頑張りなぁ!」
「はぁ……」
またわたし、なにかを取りこぼしている?
「朔ちゃん。こっちおいで」
源ちゃんがわたしを手招きした。
「……変なことしない?」
「しない、しない。なんもしないから」
騙したり、本当に嫌なことをしたりしないのはわかっているので、言われた通りに源ちゃんのそばに寄る。座れと促されたので、ソファに座った。
「あのね。真雪が誰かとキスしてるの見たくないんでしょ。それね、朔ちゃん、真雪のことが好きだっていうことなんだと思うよ」
「……すき?」
自分の中にその事実を仕舞う引き出しがまだなくて、処理の仕方がわからない。
「そう。真雪が他の人と仲良くしてるの見たくないってこと。真雪が昔の動画観てるの知って動揺したのも同じ理由だと思うんだけど」
「……そう、なんだ」
わからないので、ただそのまま受け取るしかない。
「あらぁ、素直で助かる」
「好き、なのか……」
「ちょっと自分でよく考えてごらん、ゆっくりでいいから」
「……はい」
それ以上の説得や強制はしないで、源ちゃんはあっさり引き下がってくれた。正否の判断がまだ自分でできないので、考える猶予をもらえたことは助かった。
「よし。じゃあ準備するよ。ぎゃああ、こんな時間! 間に合わない!!」
源ちゃんがいきなり立ち上がって大きな声を出した。
「え? これで終わり? この話、終了?」
「しょーがないでしょ、時間ないんだから」
「マジか……」
置いてきぼりを食らったみたいにしょんぼりした真雪が可愛い。
いや、待って。
真雪はまだこの話を続けるつもりでいた、ということ?
なにを話したくて?
どうして続けたかった?
続けたらなにがわかるの?
ダメだ。わたしには高度すぎて、今は付いていけない。やっぱり猶予をもらえてよかった。
「はい、じゃあメイクからね、朔ちゃんからやるんでいい?」
「あ、はい。お願いします」
頭の中も胸の中もなにかが詰まっていっぱいで、自分でいろいろなことを決める余裕がない。言われたことをこなすので精一杯。今はそれで、なんとか乗り切ろう。
それから、いつものように鏡の前に座って、真雪にメイクをしてもらう。
でもなんだか色々と照れ臭くて、鏡越しでも真雪の顔を見れない。
どういうことになったの?
真雪に、好きだって言われて。それは、真雪が源ちゃんのことを好きだと思うのとは違うの?
じゃあわたしは?
真雪が源ちゃんとキスしそうになってるのを見て、苦しくなった。
昔の動画で真雪がエマたちと仲良く笑ってるのを見て、それも苦しくなった。
なんで苦しくなった?
それは、わたしが、そこに、居たかったから。
わたしが真雪の隣に居たかったから。
わたしが真雪と笑って居たかった。真雪の笑った顔を見たかった。笑った声を聞きたかった。
わたしが、真雪と、キスをしたかったから。
そうか。
わたし、真雪のことが好きなんだ。
なんだ。
そうだったのか。
「ちょ!!! なに!? こら、何泣いてんの!!!」
「ちょっとぉ、危ないじゃないの、もう、また目に入っちゃうでしょうが」
誰かに恋愛感情を抱いたことがなくて、これがそうなのだと気づかなかった。
もうずっと、長い間、自分は人を好きにならない人なのだと思って生きてきた。それが今、覆された。
わたし、真雪のことが好きだ。
ずっと閉じ込もっていた場所から這い出てきたような感じ。いつもガラスの小さな箱の中から外を眺めていて、あっち側はどんな世界なんだろう、と思っていた。そこから、やっと出てきた感じ。
でも、じゃあこちら側に来てみてどうだった?と訊かれたら、どう答えたらいいのか迷う。
全然幸せじゃない。楽しくもない。嬉しくは、ちょっとはあるけど、でも手放しでは喜べない。
なんだか苦しくて、不安で、ただ、しんどい。
自分の本音を確かめるのも、真雪の本心を知るのも、怖い。この先どうなるかとか、周囲がどんな反応をするのかとか、そういうのを考えるのも怖い。
これからずっとこんな気持ちを抱えていかなきゃいけないのかと思うと、もう一度ガラスの箱の中に戻ったほうがいいのかな、とか思ったり。
でももう、それは無理だ。
もう、自覚してしまったから。
「もぉおおお、やり直しじゃん!」
「時間ないよ! じゃあもう朔ちゃんは後回し、クレンジングして! 真雪、先! 急げ!」
ふたりにギャーギャー怒られながら、ぐしゃぐしゃになってしまった下地を一旦オフして、こんな大騒ぎになってしまってちょっと助かったな、と思った。
真雪とふたりで静かなところに閉じ込められたりでもしたらどうなるか、考えたくもない。
わたしのせいでメチャクチャになってしまって慌てているふたりに、心の中で、ごめんね、と謝った。
それから、ありがとう、とも。
真雪も、源ちゃんも、大好きだ。
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