scene 19 衣装倉庫(夜)

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scene 19 衣装倉庫(夜)

 倉庫に着くと室内にはもう灯りが点いていた。真雪の方が先だったか。  源ちゃんに言われて、会って話すことにしたけど、何を話そうかまだ決めていない。真雪には源ちゃんから待ち合わせの内容を伝えてもらったので、わたしはまだ直接やり取りはしていない。  何を話そう。どうやって、何から話そう。  倉庫の入り口の鍵はデジタルロックのナンバーキー。鍵の受け渡しがなくても番号を知っていれば入れるので、待ち合わせには便利でありがたい。  真雪はいつも、倉庫内にいても鍵をかけてしまうので、ノックして開けてもらうより自分で番号を押して入る方がいいかと思った。今、まだ、ちゃんと話す前だし。  そう思ってナンバーキーに手をやって、ふと気づく。  キーにロックはかかっていない。ドアがうっすらと開いたままだ。こんな不用心なこと、今まで一度もなかった。まさか、そんなところが抜けてしまうほど真雪が不安定になってしまっているのかと心配になる。  そっとドアを開けて、室内の様子を伺う。 「……真雪?」  すぐにわかるような反応はない。 「こんばんは」  もう一度、挨拶を口にして、室内に入る。 「真雪? いる?」  電気は点いているけど、物音や話し声がするわけではない。 「真雪?」  少し大きめな声で呼ぶと、ソファーの辺りから衣擦れのような微かな音がした。  わたしが真雪を避けていたことを、もしかしたら怒っているのかも。名前を呼ばれても素直に応答できないくらい、機嫌を損ねてしまっているのかも。でも、それをちゃんと話すために来た。 「真雪、あの……」  ソファーの背もたれの向こう側から、スッと人影が起き上がった。  それは、いつも見る真雪のサイズ感とは程遠くて、顔を見なくても別人だとわかった。  しまった。待ち合わせの場所か時間を間違えた?  源ちゃん、倉庫と言っていたと思ったのだけど。時間も、合ってるはずだけど。でもここは源ちゃんひとりの倉庫というわけではなく、プロダクションの倉庫、と言っていたので、源ちゃんや真雪以外の人が使う可能性もある、ということだ。  やっぱり、何か手違いや行き違いがあったのかもしれない。 「あの、すみません、間違えました」  とりあえず、倉庫で真雪と21時に待ち合わせ、という約束とは相違がある状況で、このままここにいていいわけではないと判断した。 「失礼しました」  そのままそっと振り返ってドアに向かうと、その真雪よりひと回りもふた回りも小さい人影がこちらに向かって声を発した。 「真雪は来ないよー」  ああ、この声は知っている。  この前、聞いたばっかり。 「ザンネンでしたぁー」  リナ。  どうしてここに。 「ねぇー、あんた、サクヤって人でしょお?」  返事をしたくない。答えたくない。  でも、もしかしたらそれなりに丁寧に対応して丁重にお引き取りいただく方が後々角が立たなくて良かったりするのかな、とも思ったり。  源ちゃんや真雪なら、こんな時どう対応するだろう。 「ねぇねぇ、あんたって女優なんでしょ? なんで裏方なんかと仲良くしてんの?」  裏方、なんか。  なるほど、そういう思考の人か。  そういう情報を、いったいどこから仕入れてくるんだろう、と思ったけど、そういえばこの子は地下アイドルをやっていると言っていた。つまり、業界に知り合いはたくさんいる、ということか。 「真雪なんてさぁ、昔はモデルだったのかも知んないけど、今はただのスタッフじゃん。女優とスタッフが仲良しとか、意味わかんないんだけど」  この前は、嘘の塊である女優と一緒にいる真雪が可哀想だと言っていた。それなのに今は、スタッフなんかと(つる)んでいる女優を理解できないと言う。一体、何が言いたいんだろう。  目的は、何だ? 「プライドとかないの? 女優のプライド。女優なら、俳優とかと付き合えばいいじゃん」  ジョユウノプライド。なんだ、それは。  そもそもわたしは自分のことを女優だと思ったことはないし、ただの劇団員、ただの役者のわたしにどんなプライドがあればこの子は納得するのか全くわからない。 「あの人たちと一緒にいるのは、仕事関係なく、プライベートだから」  とりあえず無視し続けるのも良くないかと思って、差し障りのない返答をした。  その無難さが気に入らなかったのか、リナはわたしの返事をスルーして勝手に話を進めた。 「源太郎さんは、オカマなんだよねぇ。じゃあ、真雪もあんたも源太郎さんのカノジョではないよね」  なるほど。「ゲイ」と「オカマ」の位置付けも理解できていない、そこからか。  それから、世間一般的に男性、女性、と位置付けられている人が一緒にいたらカレシカノジョの仲になって然るべき、という思考回路は、若さ(ゆえ)のものなのか、個人差か。本当に何を言いたいのか何をしたいのかよくわからない子だ。  それに、そんな蔑称を簡単に口にできるということは、マイノリティの理解者である可能性はほぼないし、それどころか関わらない方がいい人の可能性もある。 「なぁーんかアヤシー。どーゆー関係?」  関係、というのが誰と誰のことなのかがわからない。いや、わかったところでほぼ初対面のこの子に答えなきゃいけない義務もない。 「それをあなたに教えなきゃいけない理由が見つからないので」 「はぁ!? なにそれ、キモいんだけど」  当然の流れのようにひどい言葉を投げかけられているけど、よくよく考えて、わたしがこの子にこんな見下され方をしなければいけない理由がわからない。 「っていうか、どうやってここに入ったの?」 「入り口から普通に」 「普通、って……閉まってたでしょ?」 「鍵開けて入ったけど?」  いちいち突っかかるようなこの話し方、どうにかならないかな。 「だから、その鍵をどうやって開けたの?って聞いてます」  しまった。わたしもつい釣られてムキになってしまった。大人げないな。落ち着かなきゃ。 「源太郎さん、バカだよねー。部外者が近くにいる状態で隠しもしないで暗証番号押すとか」  鍵を開けることができた理由を話しているのに、それが全然頭に入ってこない。  なぜ、どうして源ちゃんがバカだなんて言われないといけないのか。 「盗み見た、ってこと?」 「そ。前に来た時にね。あんなのすぐに覚えられるもん」  源ちゃんはそんな迂闊な人ではない。うっかり他人に暗証番号を知られて困るような人ではない。  たぶん、リナを気遣ったのだ。リナを排除しないつもりだとアピールするために、信用していることを伝えるために、わざと隠さないで押したのだ。それを、その源ちゃんなりの思いやりを、こんなふうに悪用するなんて。  腹が立って、どうにかしてやりたい、と思う。でも、今こうして直接話してみて、なんとなく違和感を感じた。  この前、ローラさんのお店の前で話しているのを見たとき、友達と一緒にここで飲む、と言っていた。当然、お酒を飲める年齢なのだと思った。でも、実際話してみるとだいぶ幼く思えて、もしかしたら未成年なのかも、と思う。  もしそうなら、あんまり若い子にムキになっても仕方ないし、落ち着いて冷静に対応した方がいいのかも、と思い直す。いや、そもそもわたしひとりでどうにかしてもいいのか、源ちゃんを呼んだ方がいいのか。  頭の中でぐるぐるといろいろなことが巡って、なかなか良い方法が見つからない。 「なにがしたいの? 目的はなに?」 「べぇーつにぃ。ただ、源太郎さんとか真雪が楽しそうにしてるの見に来たかったんだよ」 「楽しそうに……?」 「お姉ちゃんが死んじゃったのに、源太郎さんと真雪はそんなこと忘れて楽しく普通に生きてんでしょ。そんなのムカツクじゃん」  なにか盛大に拗らせてしまっている感。  価値観が根本的に違う、土台の部分でズレている人とはどんなに歩み寄ろうとしてもわかりあえない、という経験がいくつもあって、それを思い出す。厄介だ。 「エマさんが亡くなったのは、源ちゃんや真雪のせいじゃないよ」 「あのふたりのせいじゃん! あのふたりに会わなかったら死んでなかったよ!」  いきなり激昂したリナを、これ以上刺激したくない。でもここで「そうだね」と言うのも違うと思う。困ったな。 「オカマ好きになって失恋して自殺とか! そんで信じてた先輩にも裏切られてたとか、マジありえないんだけど!」  これはわたしひとりでは対応しきれないかもしれない。やっぱり源ちゃんを呼ぼうか。  でもこれだけの思いをぶつけられたら、源ちゃんも真雪もかなりしんどいだろうな、と思う。それなら部外者のわたしが対応した方がまだマシか。でも、開くんなら呼べる? 「源ちゃんが女性を好きにならないのも源ちゃんのせいじゃないし、真雪だって、エマさんに一生懸命寄り添って支えてたって聞いたよ」 「でもお姉ちゃんだけ死んじゃった。あのふたりは幸せに生きてる」  当時の様子を直接は知らないわたしは、目の前のよく知らない子が次々と口にする情報の真偽を正確に判断することができなくて、いろいろと聞いているうちにもしかしたらこの子が話している内容の方が正しかったりするのかな、などと迷いが出てきそうになって、焦る。まずい。本当に助っ人を呼ばないといけないかも。 「源ちゃんも真雪も、エマさんのことがあって元の生活には戻れてないよ。特に真雪はモデルの仕事もできなくなっちゃったし、そこから何年もずっと苦しい生活してたし」  実際には真雪は被害者ですらある。無理心中させられそうになって大怪我をした。そのことを知っているのかわからないけど、ここでそれを突きつけてやりたい欲望に駆られる。  でも、相手はまだ子どもと言ってもいいくらいの子だし、エマの妹だし、ここは堪えて我慢すべきか。 「エマさんのことは、当時一緒に過ごしてた人たちみんなで受け止めて、エマさんがいたこと誰も忘れてないし、今でも思い出として大切にしてると思うよ」  そう言うと、今までずっと腹立たしいほど偉そうな態度でいたリナが、急に俯いて黙り込んだ。  どうしたのかと見守っていると、小さな嗚咽のような息遣いが聞こえた。泣いてしまったのか。  困ったな。これ以上、どう扱ったらいいのだろう。  とりあえず、ソファーの方まで行って、すぐ隣に座るスペースがあったのでそっと腰を下ろした。声をかけようかどうしようか、と迷っていたら、泣き声だと思っていた声が急に転がるように跳ねた。 「ククククク……」  泣き方が変わったのかと、そう思おうとした。  でもそうじゃないことはもうわかっていた。  リナは、笑っていた。  まるでわたしを嘲笑うかのように。 「あはははは! ばっかじゃねーの! アマゾン生えるんだけど!」  ああ、そうか。ちょっと生きている次元が違うのだ。足を着けている土台が違う。この子とは分かり合えるステージにはいない。 「なんでそんなあいつらの肩持つの? 源太郎とか、ただのオカマじゃん」  源ちゃんのこともとうとう呼び捨てになった。本当に、どうしようもない。 「源ちゃんは大切な友達。同じマイノリティとして尊敬できる人だから肩を持つよ」  源ちゃんはオープンリーゲイだし、わたしももうバレて構わないと思っているけど、真雪はオープンかどうかわからないしカミングアウトもどの範囲までしているかわからないので、ここではわたしはアウティングしないでおく方が無難。 「え、待って、え、え? それってなんだっけ、どういう意味だっけ?」  わたしが答えないでいたら、スマホで検索をし始めた。  なんだか自分の中で、もういいや、という気持ちが生まれた気がする。  もういいや、なんでも。  もういい。どう思われても。 「あっ! ウソ、マジ!? あんたも同類ってこと? ウッゲェ、きんも! オカマだけじゃなくレズもなの!? マジかー、あたおかー」  あたおか、ってなんだっけ。わたしこそ検索したい。  あ。思い出した。頭おかしい、で、あたおか、だ。  そうか。この子にとってわたしとか源ちゃんは頭おかしいカテゴリーなのか。それはすごいな。 「えーそれって世間に公表してんの? SNSとかで拡散されたらどーなんの?」  そういう思考なわけね。なんともわかりやすい。 「……したければ、勝手にどうぞ」 「えー。なんかそう言われるとやる気なくすー」  ふと、ドアの向こうから階段を上がる足音が聞こえてきた。あの階段を上がって行き着く場所はこの倉庫だけで、ということは、あの足音の主はここに来るつもりか。  真雪は来ないとさっきリナが言った。それなら、源ちゃんかな。開くんかも。  良かった。ヘルプに入ってもらえたら助かる。  階段を踏む音が終わって、ドアの前に人が立つ気配。  その時、自分の身体が想定外の方向から強く引かれて、慌てて体勢を立て直そうと思って一瞬で状況を見ながら手をついて、気づいたらソファーに仰向けに倒れたリナの上に乗るみたいな形でわたしも倒れかかっていた。  ドアが開いたのと、わたしの真下にいるリナが叫んだのは、ほぼ同時。 「きゃああああ! 何すんの!! やめてよぅ!!」  甲高い叫び声にリアルな感情が乗っていないことは、その道のプロとしては間違いなく判別できた。自信はある。  でも、振り向いた先で立ち尽くしている真雪の姿を見つけてしまって、わたしは自分の状況とリナの罠と真雪の感情を、正しく処理できなかった。 「真雪! 助けて!」  わたしの胸倉(むなぐら)をがっつり掴んだまま、リナが真雪を呼んだ。おそらく、真雪の位置からはソファーの背もたれがブラインドになって見えていない。普通に、わたしがリナを襲っているように見えるだろう。 「やだ、やだぁ、触んないでぇ!」  あ。なるほど。  そっちか。  真雪はドアのところで立ち止まったまま動かない。  驚いているのかな。当たり前か。  ずっと自分のことを避けていたわたしが、話があると待ち合わせをした場所で、別の女の子に乗っかっているのだから。驚かないわけない。そして、怒らないわけもないな。  できれば怒らせたくないな、と思う。あの穏やかな真雪を、怒らせたくない。  こんな小さな女の子の手なんて簡単に払えるはず。でも、力づくでこの体勢から抜け出したところで、今まで見られた状況をなかったことにはできない。  どうしよう。  それにしても、策士だなぁ、と感心する。演技力としてはイマイチだけど、頭の回転は早い。地下アイドルにしておくのはもったいない。是非とも地上の世界に、できれば役者の道に入っていただきたい。経験を積めば、きっと良い仕事ができそう。  混乱しすぎて、どうでもいいことばかり頭に浮かぶ。この子の将来なんてどうでもいいのに。  ああ。真雪、怒ってるかな。怒られるかな。怒られるだろうな。絶対誤解されてるよな。嫌だな。 「はい。起きて」  くだらない思考の群れが、至極冷静で穏やな真雪の声で一刀両断された。  気づいたらもうソファの近くまで来ていて、高いところからわたしたちふたりを見下ろしていた。 「ちょっと、真雪! 助けてよ!」  ヒステリックを装って、リナが真雪に訴える。でも、真雪は動じる様子はない。 「助けてるよ」 「違うよ、あたしを助けてよ!」 「だから、助けてるよ」  思った通りの反応をしない真雪にイラついているのか、リナの口調にさらに棘が増えた。それでも真雪は落ち着いている。 「この人じゃなくて! あたしのことをだよ!」 「うん。助けるよ」  わたしの胸倉に絡みつくリナの指を1本ずつゆっくり解くと、解放されたわたしの上半身に腕を回して引き起こした。やっとソファから降りられて、気持ちの悪い緊張が解ける。  ああもう、最悪。ブラウスの胸のところがグシャグシャになってしまった。お気に入りだったのに。 「はい。よいしょ。あんたも」  続いて、わざとらしく仰向けで寝ているリナの腕を引っ張って無理やり起こす。 「なんで? あたし、襲われたんだけど!」  まだ言うか。こんな工作まで見られたのに。  真雪の反応が悪くて、もしかしてこれはリナに呆れているのではなくて、やっぱりわたしに対して怒っているのかも、という不安もまだ消えない。 「あのね。朔は、ネコなの。バリネコなの。わかる?」  びっくりした。今ここで、そういう話題を出してしまうのか。 「へ? 猫? 人間じゃん」 「バリネコ。えっと……ウケなの。BLで言うところの、ウケ専門なの」 「……ウケ?」 「そう。だから、朔が誰かに乗っかって襲いかかるなんてことはあり得ないの」  事情を理解して、それでも納得がいかないのか、噛み付く気満々で吠えてくる。 「……でも、でも襲われたし!」 「襲わないの」  ここまでくると、冷静を通り越して冷酷と言ってもいいくらいだ。全く表情を変えず、言葉にも抑揚がないまま、ただただ事実だけを淡々と述べている。それが却って冷たさを増長させて、怖かった。 「……でもぉ」 「レズビアン、舐めんなよ」  諦めないリナにいい加減腹が立ったのか、真雪がすごい目でリナを睨んで、吐き捨てるように言った。  リナはいよいよ怖気づいたのか、身を縮めて口を(つぐ)んだ。 「…………」 「はい。立って」  自力では動き出さないリナの腕を真雪が掴んだ。  観念したリナが、渋々、という感じで立ち上がる。 「はい。荷物持って」  やっぱり動かないリナの荷物をひっ掴んで、彼女の胸元めがけて突き返す。 「はい。では気をつけてね。さようなら」  荷物を受け取ったリナは、納得がいかなさそうな顔をしてその場に立っている。  真雪はそれをスルーして入り口の方へ歩いて行った。そして、ドアを開けてリナの退出を促すようにしている。  それでも動かないリナ。これは、どうしたらいいのだろう、とわたしも悩む。これ以上、何をどう言って説得すればいいのか。 「はぁ。もう。じゃあ勝手にしてどうぞ」  真雪が諦めて、メイクスペースの椅子に座った。 「まぁ、ここにいてもいいけど、私今からここで朔とエッチなことしようと思ってるから、それ見せられることになるけど、いい?」  なんてことを。この人は。せっかくわたしがアウティングしないように気をつけてそっとしておいたのに。いくらリナを帰すための嘘だとしても。そんなネタに巻き込まれたわたしは、一体どんな顔をしていればいいの。  わたしがリナにカムしたことは、リナの一連の暴挙でたぶんもうバレているな。 「え……」  リナが、絶句、という雰囲気で真雪を見ていた。  さっき、わたしがビアンなのだと知って、リナはものすごく嫌な顔をした。なんと言ったのだっけ。そうだ。きんもー、と最初に言った。気持ち悪い、ということか。フォビア、とまではいかなくても、まあ、そういうことだよな。それはそれで逆に安心するけど。わたしと真雪の間にそういう意味で入られる可能性が皆無だから。  レズビアンを気持ち悪いと公言してしまったリナは、わたしだけでなく真雪もそうなのだと今知って、納得が行かなくてももうここを出て行かざるを得ないだろう。間違ってもそんなシーンを見たいわけがないから。だから、わたしも真雪も当然そうなると思って待っていた。  ここまま出て行くのだと。  手に持ったバッグを肩にかけてから、数歩移動して。  でも、リナは出て行かなかった。  突然しゃがみ込むと、床に置いてあるサーキュレーターに触れた。  トースターくらいのサイズのサーキュレーター。そんなものを触って何がしたいのだろう、と思ったし、おそらく真雪も同じ。  わたしは先が読めないまま、ただ、リナの手がそれをゆっくり持ち上げるのを見ていた。  リナの視線がわたしの方に向いていることは気づいていて、そのまま、リナがサーキュレーターを振り上げるのも見えていた。  でも、それをわたしに向かって投げようとしていることまでは読めなかった。  リナの頭上高くに持ち上げられたサーキュレーターは、背の低いリナが持ち上げてもコンセントが抜けるような高さにはなっていなくて、つまり、ずっと稼働したままで、わたしはなんとなく危ないなぁと思いながら見ていた。  視界の端の方から、シュッと人影が飛び込んできたのが見えた気がした。でも、そのサーキュレーターの行き先の方が気になって、それから目が離せなかった。  リナの表情が歪んで、次の動きを生み出すために力を溜めた一瞬なのだとわかった。  次の動き。  それは深く考えなくても、リナの手からサーキュレーターが離れて行くということ。  そしてそれが振り上げたのとは逆の方に飛ぶだろうということは、理系じゃないわたしにもなんとなくわかった。  飛んでくるのだろうな、という気はした。  でも、どうしたらいいかわからなかった。  わたしは反射的に顔や頭を両腕で覆うようにして、来るはずの衝撃に備えた。できれば身体ごとアレが飛んでくる範囲内から逃げ出したいけど、そこまでの時間的余裕はないかもしれない。  とにかく顔だけは死守しなきゃ、と思う。今、芝居の稽古中だし、顔だけは怪我するわけにはいかない。そう思いながら、でも何もできずにただ成り行きを待った。  リナが腕を振り下ろそうとしたのと、飛び込んできた人影が長い腕を伸ばしてサーキュレーターに触れそうになったのと、どちらが早かっただろう。  真雪の長い腕が、リナの手から離れたサーキュレーターに届いたのが見えた。でも、指先だけで、本体を受け止められるところまでは行かなかった。その代わり、もう片方の手が同じ方向に伸ばされて、そちらがコンセントのコードをしっかり掴んだ。  放り出されたサーキュレーターの導線が遮断されて、わたしの方から止めた真雪の方へと向かう先を変える。  それがまだ稼働したままなことは、わたしには見えていた。  だから、絶対に危ないと思った。  真雪は掴んだコンセントを離そうとはしないで、そのまま自分の方へ引き寄せようとした。  でも、高さが良くなかった。  空中から引っ張られた方に落ちて行ったサーキュレーターは、そのまま真雪の頭の上に落ちて、それなりに大きな音を立てた。  そして、嫌な予感は現実になる。  頭に当たって動きを乱したサーキュレーターが、そのままぐるっと真雪の頭の周囲を回って、当然と言えば当然なのだけど、真雪の長い髪を、巻き込んだ。  ガ、ガ、ガ、と嫌な異音がして、真雪が声を上げた。 「いてて、痛!!」  言いながら、コンセントを引き抜いて、羽の動きはすぐに止まった。  でもそれは電源が落ちたからというよりは、真雪の髪が絡まって動けなくなったからだった。 「真雪!!」  それまでのぼんやりが夢だったみたいにものすごい勢いで身体が動いた。  飛ぶように真雪に駆け寄って、片手でコンセントを持って支えているだけの真雪の手からそっと受け取って、サーキュレーターの重みを支える。 「動かないで、ちょっと……取れるかやってみるから」 「うん、お願い」 「ここ、座れる?」 「うん」  真雪を床に座らせて、髪が張らない程度の場所にサーキュレーターを持ってくる。 「リナさん、ちょっとこれ、ここで持ってて!」  怯えたような顔で立ち尽くすリナに声をかけた。今は誰でもいいから手が欲しい。 「ちょっと! 早く!」 「あ。あ、はい……」  おどおどして自分からは動けないリナに指示を出して、ちょうど良い作業スペースを作った。でも、事態は思ったより深刻で、真雪の髪はサーキュレーターのかなり内部まで入り込んで絡んでしまっている。 「これはちょっと、厳しいかも……ちょっと開くん呼ぼう」  やっぱり、もっと早くに源ちゃんや開くんを呼んでおけばよかった。こんなことになる前に。 「そっか……まぁ、髪は別にいいけど、痛いのがキツい」  見るからに痛そうで、とにかくその痛みだけは出来るだけ早く緩和してあげたいのだけど。 「どうしようかな、横になった方が楽かな」 「ちょっと試してみてもいい?」 「じゃあ、ゆっくり右を下にして寝てみて」  わたしとリナでサーキュレーターを支えて、なんとか一番痛くない体勢を探した。 「これならなんとか」 「このまま寝てて。わたし源ちゃんに電話してみる」  本当ならこの後、真雪と仲直りをしてから源ちゃんたちの家に行く予定だった。だからたぶん、ふたりとも家にいてくれているはずで。 「あ、源ちゃん! ちょっと、面倒なことになっちゃったんだけど、開くんと一緒に倉庫に来て。今すぐ」 『え、何? 何があった?』  あまり慌てて余計心配かけても申し訳ないので、さっきの真雪の冷静さを真似してできるだけ丁寧に話すようにした。 「ちょっと、事故。怪我はしてないけど、開くんに来て欲しいの。あ、できれば髪切る道具一式持ってきて欲しい」  矢継ぎ早に言葉を飛ばして、とにかく急いでいることだけ確実に伝わって欲しいと願う。 『え、えと、わかった、わかったけど、大丈夫なの?』 「開くんに来てもらえれば大丈夫。でも源ちゃんも来て手伝って」 『わかった、すぐ行く』 「お願いします!」  どんなに急いでも、源ちゃんの家からだと10分はかかると思う。その間、真雪がしんどくないといいのだけど。 「痛くない?」 「うん、まぁ、平気」  それから、ただひたすら待った。真雪の体勢に無理がないことを何度も確認しながら。  時計を見ていたら本当に10分くらいでふたりが駆けつけてくれたのだけど、体感としては1時間にも2時間にも感じたくらい長かった。 「お待たせ! どした!?」  開けっ放しだったドアから飛び込んできた源ちゃんが、床に横になっている真雪を見て顔色を変えた。 「え、どした、何!?」 「あの、大丈夫。怪我とかはしてないの。このね、サーキュレーターに、真雪の髪が巻き込まれちゃって」  見たままの説明しかできない。焦りすぎ。落ち着かなきゃ。 「は!? なんでどーしたらそんなことになんの!!」 「あー……まぁ、ね、それは、色々あって」  真雪が言葉を濁した。どういうつもりだろう。説明しないのかな。 「はぁー、源太郎、早いよ……あ、あれ、真雪!? どしたの!?」  源ちゃんより遅れて到着した開くんも、真雪を見てびっくりしている。当然だ。  ふたりともほぼ部屋着のままで、本当に急いで来てくれたのがわかった。ホッとして、ありがたくて、涙が出そう。 「開くん、ちょっとさ、私の髪、上手いこと切ってくれない?」 「え……切、切って、切るの? いいの?」 「だってこれ、もう切らないと無理じゃない?」 「……ちょっと見せて」  開くんが慎重に髪の絡まり具合を見ている。 「いてて、痛。痛いっす」 「……ごめん」  難しそうな顔をしている開くんを見て、嫌な予感が増す。 「どう? 切らないと無理でしょ?」 「うーん、一番短いところまで絡まってるのが、この左側の後頭部で、だいたい7、8センチのとこかなぁ。でも広範囲じゃないから、まぁウルフっぽい感じでいいなら目立たなくできるかも」  そんなに短くなってしまうのか。まさかそこまでとは。 「あー、じゃあお願い。切っちゃって」 「……本当にいいの? そんな簡単に……」  さすがに開くんも戸惑い気味で、快諾というわけにはいかないらしい。  本当に、どうしてこんな事態になってしまったのか。流れを遡ればやっぱりわたしのワガママや愚行にたどり着きそうで、この場から逃げ出したくなる。  でもそれをしたらまた同じことの繰り返し。だから、ちゃんと向き合わなきゃ。 「まぁ別に伸ばしたくて伸ばしてたわけでもないし。気づいたらこうなってただけだから別にいいよ」 「……わかった。じゃあ、最終的にどんな髪型にしたいか相談」 「んー、なんでもいいけど」  投げやりな感じでもなく、本当にこだわりがないというような言い方。やっぱり、自分のスタイルについてはまだ考えられないということか。 「ねぇ、そういうのやめてよ。真雪、もうちょっとさぁ……自分に優しくして」  なぜか開くんが泣きそうになっていて、わたしも焦る。 「そんなこと言ってもさぁ……じゃあ、朔。朔は短いのならどんなのが好き?」  どうしてそこでわたしに振る!? 「え、えと、えー……急に言われても……」 「いいよ、もう、朔ちゃんが決めちゃいな。真雪はダメだ」 「えー、でも……真雪に似合ってれば、何でも……」  しまった。これでは真雪の答えとあまり変わらない。 「真雪はなんでも似合っちゃうからその答えはダメ。何か決めて」  焦るけど、でも、何か。 「……じゃ、じゃあ、あの、こないだみんなで観た映画でバーテンダーやってた人の髪型」 「わかんねぇ! 覚えてねぇ!!」 「あんた、ちゃんと役者の名前で言いなさいよ」  せっつかれると余計出てこなくなるのだけど。本当に、どうしてこんなことに。 「え、だってあの人、普段の髪型は違うんだもん、あの映画の髪型が良かったから。真雪もかっこいいって言ってたし」 「ちょっとじゃあ画像探して見せなさい」 「あ、うん、わかった、ちょっと待って」  なぜかみんなわたしに決めさせようとしていて、ほぼ強制だ。もっと時間をくれれば色々と考えられただろうけど。仕方なく、急いでスマホでその映画の写真を探した。  いつもどの作品でもロングだった海外の女優が、その作品でそれまで見たことがないようなショートボブになっていてすごく印象に残っていた。役柄が中性的でミステリアスな雰囲気だったので、真雪の髪が短くなったらどういう感じかということを考えたときにこのスタイルが思い浮かんだのだけど。 「あった、これこれ。この、これくらいの長さ。真雪、これ、どう?」 「……あー、うん。かっこいいね。いいよこれで」  ちゃんと見てちゃんと考えたのかわからないくらいの即答で、わたしの方が不安になってしまう。 「……ほんと? わたしが決めたのでいいの?」 「うん。朔が決めたのがいい」 「……へぇえ」  源ちゃんが呆れたようにわたしと真雪を見たけど、正直、それどころではない。  とにかく、大変な状況と、大事な判断を任されたことと、それから、この状況が少し楽しく感じてしまうほど源ちゃんと開くんの存在が頼もしくて嬉しくて、そして何より、真雪と、今までみたいに普通に話せたことと、そういうことが色々と押し寄せてきて、わたしは胸の中がパンパンで色々とよくわからなくなっていた。 「オッケー、じゃあとりあえず、まずはこれが外せるように大雑把に切るね」  そう言って真雪のすぐ隣に商売道具を広げて、開くんは丁寧に機械の隙間にシザーを入れていった。開くんの腕は信用しているけど、どうか、どうか、上手くカットできますように。  実はもうだいぶ前から、リナがサーキュレーターを押さえながら泣いていることに私は気づいていた。でも、今口を開いたら何か色々と止められなくなりそうで、申し訳ないけど彼女の存在をわたしの心の中からは完全に排除させてもらっていた。  こうしてわたしたちがこの状況にしては楽しそうに話している中にもさすがに入っては来ない。じっと、黙ったまま泣いている。そんなふうに泣いている子を見て全く心が痛まない自分にびっくりした。自覚している以上に薄情で、新たな一面を発見した気分。 「よし、あとちょっと……」  作業はサクサクと進んで、あっという間にサーキュレーターと真雪は分離された。 「オッケー、とりあえず取れた」 「ありがとー開くんさすが! カリスマ美容師!」 「なんだよーそんなぁ、本当のこと言わなくていいよー! ってかまだちゃんと切ってねーし」  おどけてくれた開くんのおかげで、このことが深刻な大事件扱いにならなくて済んだ気がした。  やっと自由に動けるようになった真雪が、身体を起こして肩や首を回す。本当に良かったのかと、平然としている真雪の前でわたしの方がヘコんでいる。 「真雪。あの、ごめんね、わたしのせいで」 「……や、朔は悪くないよ。うん。わたしもヘタクソだったからさ。もっとよく考えて動けばこんな大騒ぎしなくて済んだ」  ついさっきの、サーキュレーターが宙を舞う瞬間の映像が忘れられない。形状も丸いので、本当にボールのように軽々と飛んだのがシュールで、映画のワンシーンのように脳にこびりついている。トラウマになりそう。  サーキュレーターを持ったまま床にへたりこんでじっとしているリナを、今は見ないようにした。 「そんな……ごめんね、大事な髪、切ることになっちゃって」 「大丈夫だよ。本当にそんな、こだわって伸ばしてたわけじゃないから」 「でも、すごく綺麗だった。まっすぐで艶々の黒髪。せっかく綺麗だったのに」  好きだったのに。真雪の長い髪。  いつだったか、ペンシルで(かんざし)のように髪をまとめていて、わたしも伸ばしたらやり方を教えてもらおうと思っていたのに。 「放っとけばまたすぐ伸びるよ」 「うん……」 「ほら、真雪。そこ座れ。切るぞ」  商売道具をメイクデスクに移動させて丁寧に並べた開くんが、ケープを広げてこちらを見た。 「あー、うん……お願いします」  促されて座った真雪にケープを掛けて、鏡ごしに真雪の髪を触りながら切るイメージを構築しているようだった。 「えっと。そもそも、どうしてこうなった?」  いつの間にか穏やかなヘアカットシーンになってしまった光景を見ながら、源ちゃんが誰にというわけでもなく言った。 「誰か、説明して」  その言い方がなんだか少し怖くて、状況的にわたしが説明するのがベストな気がするのだけど、つい躊躇してしまった。そうしてグズグズしているうちに、真雪が口を開いた。 「えっと、まぁ、ちょっとね、ちょっと、盛り上がっちゃったんだよね」 「誰が?」 「…………」  真雪は本当のことを言わないつもりなのか、微妙に話を逸らしてごまかしている。わたしはそれに乗った方がいいのか、迷う。 「リナか。リナ、何した?」  そりゃそうだよな、と思う。源ちゃんみたいに鋭い人が、この場の状況を予想できないわけがない。わたしの迷いなんて何の意味もないほどあっさりスルーして、ザクザクと容赦なく斬り込んでくる。 「いや、わざとやったんじゃないよ、たまたま、ね、私も余計なことしたから」 「ちゃんと、説明!」  真雪のフォローも通用しない。 「……はぁ。わかったよ。リナがさ、ソレをね、ぶん投げようとしたからさ、私が止めようと思ったら巻き込まれちゃって」 「違う。真雪にじゃなく、わたしに……わたしの方に投げようとしたのを、真雪が(かば)って、それで……」  余計な口出しをしないようにしようと思っていたのだけど、無理だった。逃げられない。 「リナは? なんで投げた?」 「……ごめんなさい」 「そうじゃなくて、投げた理由を訊いてる」 「…………」  照準をリナに定めた源ちゃんが、俯いて泣いているリナをジワジワと追い詰める。こんな若い子をそこまでしなくても、と思う気持ちが心のどこかにあるけど、真雪がされたことと、それが元々はわたしに向けられていた悪意なのだと思えば、これくらいされても仕方ないよな、と思い直す。 「なんで投げた?」 「…………だって、サクヤ、っていう、ひと……あの人、が、源太郎さんにも真雪にも大事にされてんの、なんかムカついたんだもん」 「は? それだけ? そんな理由であんなもん投げようとしたの?」  全く同じことを思った。本当に、それだけ? 「だって……ズルい……そんなに可愛がられそうな人じゃないじゃん、見た目だって、中身だって……しかも、レズとか」  どういう意味か、と問いただしたい気がしたけど、腹が立ちすぎて逆に感情が停止していた。たったそんな、そんなくだらないそれだけの理由で、あんなに綺麗な真雪の髪を台無しにしたのか。本当に、怒りが大きくなり過ぎて自己防衛的に心が止まる。 「はぁ……あんたたちはもう、姉妹揃って同じネタで他人傷つけて」 「……え?」 「エマもそうだったんだよ。いっつも僕と真雪を羨ましがって、ズルい、ズルい、って」  呆れたのか、諦めたのか。それまでの攻撃的な空気を緩めた源ちゃんが、脱力したみたいに椅子に座った。 「真雪。あんたの傷、リナに見せてやってもいい?」 「……まぁ、いいけど」  源ちゃんは渋々頷いた真雪が座っている椅子をズルズルと動かして、リナの方に真雪の身体の左側が向くように角度を変えた。 「リナ。ちょっとこっちおいで」  散髪ケープを揺らして髪の毛を払うと、左側をガバッと持ち上げた。それから真雪のTシャツの袖を捲り上げて、二の腕の内側の傷をむき出しにする。  ローラさんのお店での血(まみ)れ事件を思い出して、思わず目をそらす。やっぱり、直視できない。 「これね。エマが刺した傷。すごいでしょ。真雪ね、エマが亡くなった時にエマに刺されて、大怪我したの。何週間も入院するレベルの。あとこっちもね」  リナは黙って、源ちゃんが見せた真雪の傷をじっと見ている。目線が少しだけ落ちたので、腰の傷も見せられたのだろう。それでもじっと見ているこの子は、心が強いのか、それとも単に鈍感なのか。  自分の姉が付けた傷を見て、どう思った?  親族として罪悪感を感じる?  姉を苦しめたのだからとザマアミロと思う?  あまりに衝撃的すぎて自分とは無関係なことだと逃げたくなった?  リナがどんなことを思ったとしても、わたしはたぶん今後それを確認することもないだろうし、もっと言えば興味を持つこともないだろうな、と思う。ただ、とにかく、真雪や源ちゃんに敵意を向けるのだけはもうやめてほしい。  あの傷でチャラにしてよ、なんて単純なことではないのはわかっているけど、それでも一方的に被害者意識を持って真雪たちに刃向かってくるのはおしまいにしてほしいと願ってしまう。 「エマのこと、誰からどういうふうに聞いてるのかわかんないけど、あんたももうコドモじゃないんだし、そろそろ真実にちゃんと向き合った方がいい。あんたがエマのことを思う気持ちはわかるけど、エマが亡くなったことを恨んでそれを僕とか真雪に向けるのはお門違い。むしろこっちがエマを恨みたいくらいだよ。こんな、殺人未遂レベルの傷」  殺人未遂、と聞いて、今更ながら鳥肌が立った。  確かに一歩間違えれば真雪も命を落としていたかもしれない。それほどのことだったのだ。  ゾッとしながら、その事実を聞いたリナがどんな反応をしているのかをそっと盗み見ると、相変わらず黙って真雪の方を見ているだけで、その心の内側はわたしには見えない。 「それに朔ちゃんは全くの部外者。完全に無関係。その子にそんな突っかかってどうすんの」 「源太郎さんがホモだからいけなかったんじゃん、そもそも」  リナが前を向いたまま、小さく、でもはっきりと言った。  この期に及んで、まだそれを言うのか。  世代とか育った環境とか価値観とか、もう何もかもがわかり合えない、別次元で生きている子なのだと改めて思う。どうしようもない。 「あんたねぇ!」 「ちょっと、源太郎。落ち着いて」  ずっと黙っていた真雪が立ち上がって、リナの方に向き直る。シザー片手に開くんが仕方なさそうにため息をついた。 「リナ、良く考えてみて。今、ここで、5人いる中で、マイノリティなのはあんた。5人中4人が世間的にはセクシュアルマイノリティで、あんただけがマジョリティ。ヘテロなのはあんただけ。今、ここで、あんたひとりだけが他の4人と違うの。どう? マイノリティになった気分は」  何が始まったのか、突然流れが変わった倉庫内の空気を、わたしは固唾を呑んで見守った。 「でも、私は、私たちは、ここにいる私たち4人は、マジョリティかマイノリティかの違いではあんたを排除しない。マイノリティだからって存在を否定されることのしんどさをみんな知ってるから、同じことをあんたにはしない。でもあんたが私たちに対して敵意を向けるなら、そのことを理由にあんたをここから追い出す」  すごい。  なにか、芝居の一節を聞いているみたいな。よく知っているのによく知らない人みたいな。 「源太郎がゲイなことは源太郎のせいじゃない。リナが女性から告白されてもどうすることもできないのと一緒。生まれつき、源太郎の心は女性には向かない。そこを恨まれたら、源太郎が生きてることそのものを否定されることになる」  わたしは何もしていないのに、テンションが上がる。彼らを包み込む空気が研ぎ澄まされて、場の空気がピンと張り詰めているのがわかる。 「源太郎がエマを受け入れることができなかったのは、セクシュアルマイノリティだけのせいじゃない。異性愛者同士だったとしてもありえることだし、それで今生きてるマイノリティたちを攻撃するのは違うでしょ」  真雪が、源ちゃんや開くんを指差そうとして腕を上げた。ケープが一瞬、ふわりと(なび)いて、風を包むみたいにゆっくりと元の位置に戻った。  ああ、なるほど。  芝居のようだと思った理由がわかった。  真雪が纏っている散髪ケープは外側がノーブルな青緑色で、内側がリバーシブルなのか臙脂(えんじ)色になっている。素材的にナイロンなのかパッと見でベルベットのような光沢があって、そこに、白いタオルを首に巻いているので、全体感がなんというか、王族とか貴族のような雰囲気なのだ。身体が大きいからその威圧感もあって、手足が長いので動きもいちいち大きくて、まるで国王のスピーチでも聞いているかのような錯覚に陥る。 「あんただって、たくさんのファンから思いを告げられて、中にはガチ恋ぶつけてくるファンだっているだろうし、そういう人に対してまさか全て受け入れて対応するわけじゃないでしょ。ごめんなさい、って言わないといけないことだってあるでしょ。そのごめんなさいしたひとりひとりに恨まれて付きまとわれてひどいこと言われたりされたりして、納得できる?」  源ちゃんも開くんも、もちろんわたしも、何も口を挟めない。いや、挟みたいとも思わない。真雪の独壇場。まさに一人舞台。見応えのある、上質なショーのよう。 「それと、ホモっていう言葉はれっきとした差別用語。レズも同じ。ちゃんと、ゲイとかレズビアンって言って。アイドルっていう人前に立つ仕事やってんなら発言に気をつけた方がいいんじゃないの」  リナも、反論することもなく黙って真雪の話を聞いている。これだけの真雪の話をこの子がどこまで受け取れるのか、期待はしないでおきたいけど、でも、少しでもいいから伝わって欲しい。 「私は今でもエマのこと忘れてないし、悲しい終わり方はしたけど楽しかった思い出もいっぱいあるし、エマと一緒にモデルの仕事やれて良かったと思ってるよ。でも、あんたがしてることでエマと私たちの過去がマイナスのイメージだらけにされていくのは私は嫌だ。許せない。自分の言動がエマのことを(おとし)めていってること、自覚して」  こんなにたくさん話す真雪を、初めて見た。  いつも無口で、クールで、感情をあまり出さないように努めているみたいにしているのに、今日の真雪は別人みたい。言葉が、(あふ)れるみたいに流れ出してくる。  これが、本当の真雪なのだ。これが本来の真雪。すごい。こんなに熱くて、激しくて、眩しい。  新しい髪型と相まって、本当に知らない人を見ているみたい。  真雪。  本当に、真雪なの? 「私はエマのこと好きだったけど、今は私はここで生きてて、源太郎も朔も開くんも大事。お店の人たちもみんな大事。そこにドカドカ入ってきて色々踏み荒らして、そんなことされて黙ってるわけにはいかない」  なんだか、涙が出そう。リナが泣いているのは関係ない。そんなの、わたしには何も響かない。そうではなくて、真雪がかっこいいから。 「あと、朔は、特別だから。私の中で、特別な人だから。もし朔に何か危害加えるようなことがあったら、私はあんたを許さない」  世紀の大告白を聞かされているような、でもそれは今わたしがこの状況で聞いてはいけなかったような、複雑な気持ち。  本当に最後まで口を挟めなかった。動けなかった。ただ、見ていることしかできなかった。  かっこいい人を目前にして、しかもその人はわたしを好きだと言ってくれて、わたしもその人を好きだと思っていて、それなら全身全霊でその人に向かっていけばいいと思うのだけど、なぜか心のどこかにチクリとトゲのようなものが出っ張っていて、それがわずかに引っかかっていて前に進めない。なんとも言えない、不安のような、違和感のような。でもなんだか怖くて、その正体を突き詰めることができない。  リナの反応を一切待たず確認もせず、全て話し切った、というような顔をして再び椅子に座った真雪は開くんに、中断してごめん、と言った。  開くんは何も言わずに頷いて、またすぐにカットを再開した。  わたしはなんとなく、存在を消して身を隠すみたいにして、音を立てずにその場に留まった。密かに、真雪の言葉を自分の中だけで何度も反復しながら。    カットが終わって、開くんがケープを外して真雪の肌に付いている髪の毛をハケで丁寧に落としている。本当に別人みたいに変わってしまった。  真雪は鏡に映る自分の髪型を見ることもしないで、黙って後始末を手伝っていた。  源ちゃんが、座ったまま動かないリナのそばに寄る。 「ほら」  箱ティッシュを差し出して、涙や鼻水を拭けと言っている。 「もう遅いから帰りな」 「…………はい」  さすがにもう反論はしてこないか。 「んで、もう来んな」 「………………はい」  本当にもう、関わらないでいられたらいいのに。  ティッシュを受け取って帰り支度を始めたリナを見て、心の底からそう願う。 「……ほら、もう。早く拭いて。せっかく可愛い顔してんだから、もっとかわいこぶって笑ってなさい。アイドルなんでしょ」 「うわぁー、出たよ。人タラシ……」  真雪が呆れたみたいに呟いた。  確かにそうかもしれないけど、そのタラシ発言に救われる人はきっといっぱいいて、わたしもそのひとりだ。 「ちょっと僕、こいつ駅まで送ってくるわ」  やっぱり源ちゃんは優しい。 「オッケー。じゃ、真雪、ここ片付けるよ。サーキュレーターの中、掃除して」 「うん」  しまった。出遅れた。わたし、やれることがない。 「あの、わたしも」 「朔ちゃんはちょっと、そこで休んで体力温存しといて」  開くんの指示をどういうふうに受け取ればいいのかわからなくて戸惑う。 「体力?」 「そう。これからね、真雪が色々ぶっ壊れてグズグズになると思うから、それを受け止めるために、体力温存」 「え。あの、はい……」  ぶっ壊れる?  グズグズ?  真雪はその言葉を聞いても顔色を変えず、黙々と掃除を続けている。  どういうことなのかよくわからないけど、休んでいろと言われたことだけはわかったので、とりあえずその指示には従うことにする。  真雪がこれからどうなっても、わたしは受け止めるつもりでいるから。  全て、どんなことでも。
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