27人が本棚に入れています
本棚に追加
scene 2 稽古場近くの路上(夜)
「お前、まさかその歳で処女とか、言わねぇよなぁ?」
「あははー、やだなぁ、そんなわけないじゃないですかぁ」
普通の会社で口にしたら即懲戒レベルのセクハラ的な言動が黙認されてしまうのがこの業界だ。悪習だな、と辟易する。
劇団系では通例の、稽古後の飲み会。特に大事な用事がある場合でなければほぼ半強制的に参加させられる。なぜなら、反省会や打ち合わせを兼ねているから。
例によって稽古でヘトヘトになった後にいつもの居酒屋に集まってワイワイやって、一応お開きになった。また明日ねー、と言って半分以上の参加者が解散した後。
わたしも解散組と一緒に帰ろうと思って、二次会組とさりげなく距離を取って歩き始めたら、後ろから声をかけられた。
「なんだよ、帰んのかよ」
元役者故の迫力のある大きな声は、他の人と間違えようがない。
「お前、もっとみんなと交流して色々教えてもらえよなぁ」
演出家の田久保だ。二次会組の方に入っていたと思ったのだけど。
「いや、あの、まだセリフ全部入ってないので、早く帰ってやろうと思って」
脚本をもらってもう1ヶ月以上経っているし、わたしの出番なんてほんの数ページしかないのだから、そんなわけはないのだけど。
田久保はだいぶ酔っているのか、表情にどうにも締まりがない。なんとなく嫌な予感がする。
そう思っていたら飛び出して来た失礼極まりないセクハラ質問を、わたしはまともに受けていいのかどうか迷った。
処女じゃないことは、本当。
恋愛経験がなくたって、セックスだけならできる。
でもたぶんこの質問は、セックスの経験があるか、ではなく、恋愛の経験があるのか、ということなのだろうな。
でも面倒なので、そんなわけない、と答えたのだけど。
「だったら簡単だろうがよ。好きな男のこと考えりゃあすぐそんなカオできんだろ」
随分と乱暴な言い回しだな、と思う。
そもそもわたしは、表情を作るための感情コントールに過去の似て非なる経験をそのまま持ち出したりはしない。脚本通りそのまんまのシチュエーションを経験していたことなんてほとんどないのだから。
例えば、恋人が死んで悲しむシーンを演じるときに、昔ペットが死んでしまった時の悲しい気持ちを思い出して泣いたりはしない。
例えば、仕事が大成功して大きな収穫があった時の喜びの演技を、家族から誕生日祝いを沢山もらって嬉しかった時を思い出して演じたりはしない。
例えば、重い病気で心身ともに沈み切っている時の表現を、二日酔いでヘロヘロのグロッキーになっていたしんどさを思い出してやったりはしない。
そのシチュエーションごとに、感情なんて様々で、当然表情だって色々だ。だからわたしは、似たようなカテゴリーの感情で代用したりしないで、脚本にある状況をしっかり設定してその場面に相応しい感情をイチから構築するように努力している。もちろんその土台には自分の過去の様々な経験が大量に敷き詰められていて、経験したからこその構築可能な感情を材料にして演技を組み立てていくことになる。
だから今回の恋愛の表現は、例えわたしに普通の恋愛経験があったとしても、不倫の経験がないのならそんな簡単にはできることではないのだけど。
「今、オトコはいんのか?」
来た。これは、予感的中かな。
「……いや、今、は……」
しまった。バカ正直に答えてしまった。失敗した。
適当にスルーすべきだった。いますよー、のひとことで済んだのに。
「んじゃあ経験しちまえば早いだろうよ」
やっぱりな、という諦め感と、マジか、というガッカリ感と。
予想はしていても、いざそういう展開に持っていかれると、脳が勝手に拒絶して軽く混乱する。
「……は?」
「だから、手っ取り早く俺が相手してやるよ、って言ってんだよ」
「……え? なんですか?」
頭の中はパニックというか、この場に最適な対応が全くわからなくなって、真っ白。
でも、取り乱したら負ける、という恐怖感だけはあって、かろうじて表面的な冷静さだけはキープできていた。
「いいからついて来い。色々教えてやっから」
「え、え。でも、あの」
自分が今、完全なる無表情になってるだろうな、という自覚がある。これは、職業病。
何かが起きた時、自分がどんな顔をしてそれが周囲にどう映っているのかを客観的に分析してしまう癖。いつだってそういう分析結果を自分の中の表現パターンの引き出しにしまって、いつか芝居のネタとして役立てばいいな、と思ってしまう。
割と性格ひねくれてるな。可愛げがない。
「大丈夫だから。なんも問題ねーだろ」
「いや、いいです」
目の前の酔っ払いジジィには、今のわたしの表情がどういうふうに見えているのだろう。腐っても演出家だ。こちらの心情を、見せるために作っている形でなくたって受け取ってくれよ、と期待をしてしまう。
「オトコいねぇのにどうやって不倫する気持ち掴むんだよ」
「や、でも、あの」
「いいから来いって」
「いや、いいですいいです、帰ります」
お得意の作り笑顔が出てこないということは、本当に限界だということだ。
こんなピンチは、この場から走って逃げれば簡単に終わらせられる。実際、わたしは今日はそんなに飲んでいなくて、相手は結構な酔っ払いだ。簡単に抜け出せる。
でも、その酔っ払いはわたしが出演している芝居の演出家で、これからもまだまだ関係は続いて、今ここでわたしがする対応によってはその関係性に何か亀裂や綻びが生じてしまう可能性もある。
「なぁあ、来いって」
「いいです」
今後の仕事のことを考えてこの場は耐えた方がいいのかな、と思っていたけど、ふと、自分がやっている仕事に本当にそこまでの価値があるのかな、とも思った。
自分を押し殺してでも、プライドや羞恥心を捨ててでも、こんな気持ち悪いジジィの言いなりにならないと続けられないような仕事って、一体何なのか。
そんな思いをしないと続けられない仕事が、わたしにとって大事な仕事?
「なぁ、もう諦めろや」
諦める?
何を?
何を、何のために諦めるの?
どうにもならない押し問答のようなやり取りを繰り返して埒が明かない状況に嫌気がさしてきていたら、突然、頭上から大きな声がした。
「ちょっとぉ、おじさん。ダメよ、その子は。その子、ビアンちゃんだから殿方には靡かないのヨォ。無駄よ、無駄。残念だったわねぇ」
真上からの声。見上げると、わたしたちが立っているすぐ横の建物の2階の窓から人がふたり、頭を出していた。
ふたりとも、ド派手なドラァグクイーンメイクをしている。
「な、なんだよ、オカマかよ!」
わたしと同時に声がする方を見上げた田久保が、焦ったように声を上げた。
今時、とっさに出てきたのがそんな言葉だなんて。こんなのが人気の舞台演出家?
「お前らに関係ねーだろ!」
そう言うと田久保がわたしの腕をガッと掴んで引っ張った。
「ほら、行くぞ」
「え、ちょっと」
「ちょぉい待ちぃー!!」
突然野太い叫び声が響いたかと思うと、窓から見えていた人たちは消えていて、次の瞬間、建物のすぐ脇にある階段からドカドカと大きな人影が飛び出してきた。
「ちょっとぉおお、こんなヒールで階段駆け降りちゃったじゃないのよ! スゴイじゃないのアタシってば!」
ロングスカートを摘んで捲り上げて見せてくれた靴は本当に信じられないくらいのハイヒールで、階段なんて駆け降りなくてもただ降りるだけでわたしなら転がり落ちそうだ。
「あー、もう、無理だって言ってんでしょお。あぁ、もしかしてビアンだとわからない? レズビアンってことよ。ビアンちゃんなんだから、乙女ちゃんにしか付いて行かないわよぉ、その子は」
この人のことをわたしは知らないし、わたしがレズビアンだというのも事実ではない。だからこの人の言っていることは虚構で、たぶんこの場からわたしを助けようとして言ってくれているのだと思う。
最初に出てきた人が話しているうちに、もうひとりの人もゆっくりと階段を降りてきて、最初の人の隣に並んで立った。両手に、ふたり分らしきコートやストールやバッグなどの荷物を大量に持っている。
ふたりとも、とにかく派手で大きい。ヒールの高い足元と盛りに盛ったウィッグのせいもあって、2メートル超えてるんじゃないかと思うくらい大きい。
「ほぉら。あんたもちゃんとはっきりお断りしなさいな」
そう言ってわたしの背中をポンと叩いた手もすごく大きくて、味方感がすさまじい。
「あら、良く見たらシブくていいオトコじゃなぁい、なんならアタシがお相手させていただいちゃおうかしら。なあに、不倫? 不倫なの!? 奥方がいらっしゃるの!?」
そう言いながらジリジリと間合を詰めて、だいぶ上の方から獲物を狙った野獣のように田久保を追い詰めていく。
迫力ありすぎるふたりの圧力に屈した田久保は、口をつぐんだままゆっくり後退りをしていた。
結局、余裕たっぷりでグイグイ攻めるドラァグクイーンには勝てないと踏んだのか、田久保はブツブツと小さな声で文句を言いながらその場を離れようとした。
良かった。助かった。
「あ、そぉだった!」
突然、よく喋る方の人が、歩き始めた田久保を追いかけるようにして背後にぴったりとついた。それから、大きな身を屈めて、そっと耳打ちするような姿勢をとった。
「言っとくけど、この子のセクシュアリティをあんたが勝手に周囲に他言することは、アウティングって言ってとんでもない重罪だから、まぁやらないとは思うけど、まさかやらないとは思うけど、間違ってもやらないとは思うけど、気をつけなさいな。芝居のネタになんてしなさんなよ」
芝居……?
この人たちは田久保が芝居関係者だということを知っていたの?
このビルから出てきたということは、劇団とはご近所さんということで、もしかして知り合いだったりしたのかな。それか、ただ単にメディアで見て知っていたのか。
あなたの素性は知っていますよ、というアピールと、受け取りようによっては脅しとも取れる体での忠告をどう取ったのか、田久保は若干怯えたような仕草でそそくさと走り去って行った。それを3人で黙って見送る。
「なぁに、あのオッサン。しょーもないゲス野郎だったわねぇ。あんなのに絡まれるなんて、お気の毒に」
首が痛くなるほど見上げた大きなふたりは本当に綺麗で、もちろんメイクの種類的に素顔は全く想像できなかったけど、着飾った容姿全体もメイクもヘアスタイルも、全てが異次元的に美しかった。今まで生きてきた世界にはなかった存在感で、足元からゾクゾクと震えが来そうな不思議な感覚が生まれた。
芝居の世界にいるから、化粧をする男性に対して抵抗感は全くない。舞台に立てば、いろんなメイクをする役が無限にある。性別も年齢も国籍も関係なく、もっと言えば人か人じゃないかというところまで関係なく、色々と化けることがある。
だけど、こんな生のドラァグメイクは本当に初めて見た。
近くで見てもメイクの濃さの嫌味は感じない。派手だけど、美しさの方が際立っていて、圧倒される。美しくて、荘厳で、崇高で。
流れ的に最悪な状況だったけど、こんな偶然に巡り合えたことはわたしにとっては収穫だった。わたしの芝居に直接取り込める要素はなくても、何か、表現のひとつとしてのこの存在感は、きっと心の何処かに居座るだろうと思う。
そういえば、ずっと喋っていた露出多めの人じゃない方の露出少なめな人は全然喋らない。ただ黙って立っているだけ。喋っている方の人より細っそりとした印象で、顔もすごく小さくて、そのせいか喋っている人より背が高く見える。少し取っつきにくい雰囲気で、よく喋る方の人とは正反対な感じ。どちらかというと、冷たい、冷酷な感じさえする。
でも本当に綺麗で、この世のものとは思えない、という表現がぴったり。装いのテーマがダーク系なので、グリム童話に出てくる悪い魔女みたいな、そんな雰囲気。
「ごめんなさいね、勝手にビアンだとか適当言っちゃって。でもあんた、困ってるように見えたから。相手を怒らせないで助け出すには、そう言うのが一番無難かと思って」
急に話を蒸し返されて、現実に引き戻された気がした。
「気を悪くしたらごめんなさいね、本当に。嘘とは言ってもセクマイ扱いして、しかもアタシがアウティングしてるし!」
よく喋るドラァグの人が、あははーと大きな声で笑った。すごい、豪快。
「もし次にあいつに会ったら、あれは間違いでしたって訂正しときなさいよ。あんた自分では何も喋ってないんだから大丈夫よ。どう見てもあんたとアタシら他人だから。人違いされてました、とでも言いなさい。でもとりあえずよかったわぁ、連れて行かれなくて」
そうか。わたし、よくよく考えたら結構ギリギリな窮地に立たされていたのか。下手したら本当に連れて行かれて、大変な目にあっていたかもしれない。そう思ったら、今更ながらゾワッと全身が粟立った。今になって怖いという感情が溢れ出てくる。
バカだな。遅すぎる。
「嫌な時はもっとはっきり嫌って言いなさいな」
「はい。すみません」
「アタシに謝ることないでしょ」
「すみません」
やらかしたな、という後悔。
それから、周囲に迷惑をかけた、という罪悪感。
「もぉ。しょうがない子ねぇ」
それなりに人がいる場所で良かった。たまたまこの人たちがすぐ近くにいてくれて助かった。本当にラッキーだった。
「源太郎」
あ。喋った。
こっちの細い人、声もちょっと細めで、綺麗な声。
話し方とかからして、あまりドラァグクイーンをやるのに向いているキャラではなさそうだけど。でも綺麗だからいいか。
すごい。本当に何度見ても綺麗。アニメに出てくるキャラみたいで、ファンタジー感満載で、本当に浮世離れしている。
「ちょっと! この格好の時はその名前で呼ぶんじゃねーわよ!」
「……でも、時間」
「あら。もうそんな? じゃあ行かなくちゃね」
少し芝居掛かった仕草で慌てて見せて、源太郎と呼ばれたお姉様が言った。
「うぅお、寒!!」
喋らない方の人が手渡したファーコートを羽織って、羽根でモコモコのショールをバサッと肩にかけた。そういえば慌てて降りてきてくれたから、薄いドレス1枚しか着ていなかった。一年で最も寒いこの時期にあんな格好で飛び出してきてくれたなんて、お人好しというか、ずいぶん親切な人だ。
荷物が減って手が空いた喋らない方の人も、ようやくコートを羽織った。なんだか本当に申し訳なかったな。
「ごめんなさいね、アタシたちこれから行くとこあるから、これで失礼するわね」
わたしの返事を聞くこともなく、さっさとふたりで歩いて行ってしまった。
「早く帰りなさいな。気をつけるのよ」
ほんの少しだけチラッと振り向いてそう言って最後ににっこりと笑った源太郎さんを、わたしは黙って見送った。
隣の細い方の人は振り返らなかったな、となんとなく思いながら。
真冬の夜の凍てつくような冷たい空気が地上のあらゆる雑音を包み込んで、巨大な氷のドームの中にいるような錯覚を起こす。その冷気はネオンさえも全て凍らせて、光の粒が結晶化して目に飛び込んでくるようだった。刺さりそうで、ゾクゾクする。
凍った街を並んで歩いていくふたりはさながら、氷の城へ戻っていく冬の女王たち、という風情で、その存在感はファンタジックで非現実的だ。
ありがとう、と言いたかった。でも言えないうちにふたりは行ってしまった。その後ろ姿を見守っていたら、去っていくふたりの会話が聞こえてきた。
「源太郎ってああいうオッサンがタイプだったんだ?」
「はぁ!? んなわけねーだろ。僕はもっと守ってあげたくなるようなフレッシュでピッチピチの美青年が好きなの知ってんだろ」
友達同士だと素に戻ってあんなふうに話すのか、と思ったら、なんだか少し寂しい気がした。
羨ましいと思った。同じ趣味や嗜好を同じように楽しんで共有できる友達がいることが、羨ましかった。
できることなら友達になりたかったな、と思う。マイノリティであることを隠しもしないで目一杯楽しんでいるあの大きな男の人と、友達になれたら面白かっただろうな。
もうひとりのおとなしい方の人は、なんだか無愛想だしちょっと冷たい感じがするし苦手なタイプだから別にいいけど。
もっと、行動範囲を広げたい。もっと色んな世界を知りたい。わたしにはまだ知らないことが多すぎる。
帰宅するために電車に乗って完全な日常に戻ったのに、心の中にふわふわした夢心地な部分がまだ残っていて、その落ち着かない違和感が自分にとって良いものなのかそうでないのかが判断できなかった。
嵐のようだったな、と思う。本当に現実だったのかわからなくなるほどの、不思議な時間。直前の田久保とのおぞましいやり取りをすっかり忘れてしまうくらい衝撃的な出来事。
ドラァグクイーンの人と話せた。凄かった!
ふと、わたしもやってみたいな、と思う。でもすぐに、女じゃ無理かな、と思い直す。それに、背が低いし。わたしもさっきの人たちみたいに背の高い男性だったら、きっとやってみたと思う。この見た目じゃ、さすがに無理っぽいけど。
でも、なんだか新たな世界を知ってしまったような、嬉しさとドキドキとほんの少しの後ろめたさのような感覚が混ざり合った複雑な気持ちを、わたしはきっとずっと忘れないような気がした。
最初のコメントを投稿しよう!