scene 20 源太郎宅 // 源太郎宅近くの路地裏(夜中)

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scene 20 源太郎宅 // 源太郎宅近くの路地裏(夜中)

「うーん、何だこれ。へぇえ……」  開くんが不思議そうに唸りながら真雪を見ている。  真雪は源ちゃんと並んでキッチンに立って、テキパキとおつまみの用意をしていた。  さっき開くんは、これから真雪がぶっ壊れる、と言った。だからそれを覚悟していた。どういうことかわからないなりに、大変なことになるのかも、と思って、それこそ本当に体力を温存して全て受け止める覚悟をしていた。  でも、目の前の真雪はそんなぶっ壊れた状態にはとうてい見えなくて、むしろいつもよりしっかりしているようにさえ見える。 「あの、さっき言ってた状態がこれってわけじゃないよね?」 「うん。違うね」 「本当はどうなるはずだったの?」  軽やかに、しかも楽しそうに、自主的にどんどん動いて支度を進めている。  さっき倉庫であったことなんて夢だったのかと思うくらい、いつも通り。でも、あの美しい長い髪はもうなくて、やっぱりあれは現実だったのだと思い知る。 「んー、そうだな、なんかもう、魂抜けたみたいになって、無言でしなだれ掛かってくる感じ」  あの出来事で、あの髪型で、それで、あの表情。それも、開くんの予想に反して。 「普段抑えている感情がさっきみたいに暴走しちゃった後に、必ず、クールダウンタイムっていうか反省タイムみたいなさ、そういうどうにもならない精神状態になるのがパターンだったんだよね。だから今回もそうなると思ったんだけど」  パターン、ということは、今までもこういうことがよくあった、ということだよな。もしかして、前に倉庫でグダグダになっていたアレのことかな。あの時も、そんな感じの流れだったような気がするけど。 「それ、そうなったら今までは誰が対応してたの?」 「源太郎はダメ。それ無理みたいで、イライラしてすぐ怒っちゃうから。だからたいてい俺だったかな」 「そうなんだ……」 そういえばあの倉庫のグダグダの時も、源ちゃんはイライラして真雪を邪険に扱っていたっけ。なんだかんだ言いつつ、それでも見捨てないでちゃんと相手しているのは源ちゃんも開くんも偉いと思う。 「なんかちょっと懐かしいかも」 「懐かしい?」 「うん。昔の真雪を見てるみたいな感じ」  初めてこの家で開くんに会った時、エマの事件の時のことも知っているような話をしていたような。 「開くんも昔の真雪を知ってるの?」 「知ってるよ。モデル時代から」  そりゃそうか、と、妙に納得する。源ちゃんと同じだけ、開くんも真雪と一緒に生きてきたのか。親友のような、家族のようなその関係を、ずっと大切にしてきたのだ。 「そっか……」 「羨ましい?」  真雪がしんどい時にひとりぼっちではなかったことが嬉しい。ふたりがいてくれてよかったと思う。でも、できればわたしもそこにいたかった。その気持ちを羨ましいと呼ぶならきっと、そうなのだろう。源ちゃんから、真雪を羨むのはダメだと言われている。でもこれは、真雪を羨んでいるのではなく、源ちゃんと開くんを羨んでいるのだから、セーフ、だよな? 「……うん」 「じゃあ、朔ちゃん、ちょっとこっち来て」  リビングのソファのところまで連れて行かれて、そこで並んでスマホを覗き込んだ。  開くんが動画アプリを起動して、たくさんある動画の日付やタイトルを見ながらスワイプを続ける。 「お、あった。これねぇ……どこだっけな、ロンドンだったかな」  イベントっぽいステージや照明が映っている。真ん中にランウェイがあるということは、疑いようがない。 「……これ……ファッションショー?」 「そぅ。観ててごらん」  この流れで開くんが見せてくれるショーに誰が出てくるかなんて、言われなくてもわかる。勝手にこんな、もし見られたくない動画なら、真雪は嫌がらないかな。 「……いいの?」 「別に隠し持ってる動画とかなわけじゃないし。ネットで検索したらいくらでも出てくるやつだよー」 「そうなんだ」  確かに、探そうと思えば簡単に探せたのかもしれない。でも、自分が昔の動画を探されて見られたらけっこう恥ずかしくて嫌なので、なんとなくわたしもやらない方がいいのかとずっと思ってきた。 「ほら。この次。ほら、わかる?」 「……真雪?」 「そうだよ」  ぞろぞろと数人のモデルが連なって歩いてきて、どの人も割と背丈や雰囲気が似ていて、よくわからない。もっと近くまで来てくれないと、と思っていた時。 「なにしてんの」  両手にお皿を持った真雪が、背後から開くんのスマホを覗き込んだ。 「あー、ちょっとね、朔ちゃんに」 「だめ。それは」  コソコソと隠れて悪いことをしていたわけではないけど、それなりに焦った。  モデル時代の姿を見られるの、やっぱり嫌だったかな。当たり前か。もう離れてしまった世界なのに。 「ちょっとこれはやめて」  お皿をテーブルに置いてきた真雪にスマホを奪われて、やっぱりちゃんと見せてもらえなかったとがっかりする。 「こっちにしてよ。さっきのは全然良くなかったやつ。観るならこっち」  え?  観てもいいの? 「こっちはニューヨークでやったイベント。こっちは良かった。すごく」 「……ふーん。真雪、あんたそんなの観せられるようになったんだ。今まで誰がどんなに頼んでも絶対観せなかったのにね」  源ちゃんがキッチンから顔を出して、わたしたちのやり取りを見て言った。 「朔はいいの」 「へぇぇえええ」 「朔ちゃん、次だよ」  こっちのショーはモデルが歩いてくる間隔が割と空いていて、顔がみんなしっかり映っているのでわかりやすい。綺麗な人、かっこいい人、個性的な人、国籍もジェンダーも色々で華やかだ。 「ほら。来た」  開くんが指差したところに目をやる。  19歳の真雪。  世界の舞台で活躍していたモデル。  長い脚でランウェイをゆっくりと歩くその姿はさながら、サバンナを悠々と闊歩する高潔な孤高の猛獣のよう。  こんな美しい人がいたなんて。  そして、こんな人がステージに立てなくなるような不幸なことが起こるなんて。  唐突に思い出す。  リナの言葉を。 『真雪、超かわいそう』  わたしと一緒にいたら真雪の価値が下がる、と言っていた。  その通りだな、と思う。  わたしみたいな凡人が一緒にいていい人じゃなかったのかもしれない。わたしなんかが好いてもらえるような人じゃなかったのかもしれない。  さっき倉庫で、熱弁をふるう真雪を見た時に感じた違和感。  そうか。あれはきっと、気後れしたのだ。  自信を持って持論を高々と(とな)える真雪を見て、わたしは自分の小ささを改めて思い知って、心が(ひる)んだ。自分みたいな虚構の権化が真雪の隣に立って歩いている画を想像して、そのバランスの悪さに怖気付いたのだ。  どうして大丈夫だなんて思っていたのだろう。  勘違いをしていた。  こんな素敵な人たちと当たり前のように一緒にいさせてもらって、すっかり忘れていた。  わたしは失敗作なんだった。  残念な子。  そんなのが真雪みたいな人と並んで立っていてはダメ。  やっぱり、無理だった。  関わっちゃいけなかったんだ。 「え、朔ちゃん!? どした!?」  開くんが突然大きな声を出したので、びっくりして反射的に振り向いてしまった。 「ん? 何が?」  何のことについてどうしたのかと訊かれているのかがわからなくて、開くんを見た後、真雪を見て。それでもわからなくて、画面に視線を戻す。  ランウェイの先端まで歩いた真雪が、その場で立ち止まってじっと前を見据えた。  真雪の目には、何が見えていたんだろう。  真雪の心には、どんな気持ちが満ちていたんだろう。  小さな劇団で大きな役をもらったこともないわたしなんかには想像もつかないような壮大で上質な世界が見えていたのだろうな。  もっとよく見たい。もうこれで最後かもしれないし。だから、しっかり見て、よく見て、脳裏に焼き付けておきたい。そう思ったのに、視界が歪んで、見えているもの全てが滲んだ。  急激に鼻が詰まって、嫌でも自分が泣いていることをどうしようもなく自覚させられる。 「あはは、なんか、かっこよすぎて感動しちゃったぁ!」  語尾が微妙に震えて、さすがに無理があったかな。 「すごいねぇ! 真雪、今からでもモデルの世界に戻ればいいのに!」  ダメだ。これ以上ここにいたら、何か良からぬ言葉が口から(こぼ)れ落ちそう。 「あ、お酒! お酒、ちょっと買い足してこようかな。コンビニ行ってくるね!」  逃げるようにその場から抜け出したわたしを、真雪が困惑した顔で見ていたのがわかった。 「朔ちゃん! 俺も行く! 真雪は支度、続けてて!」  来なくていい。いいのに。  開くん、お節介だな。 「朔ちゃん……朔ちゃん! 待って!」  真雪の前から離れたら、虚勢を張って笑顔を作る必要がなくなったのか、顔の筋肉があからさまに弛緩した。追いかけてきた開くんが、わたしに追いついて隣に並ぶ。 「ごめん、俺があんなの観せたからだよね」 「いや、そんなことはないよ、別に」  どうしてわたし、泣いたんだっけ。  そうだ。感動した。真雪がかっこよくて。かっこよすぎて、感動した。  感動した分、同じだけ空っぽの自分に辟易して、いたたまれなくなった。ただそれだけだ。 「ごめん、ちょっと調子に乗った。なんか、真雪が昔に戻ったみたいで嬉しくて、もしかしたら色々取り戻せるのかも、とか思っちゃって」  開くんや源ちゃんが真雪を思う気持ちを、本当にわたしは尊敬していて、わたしも真雪が幸せになってくれたらいいな、と心の底から思う。でも、その時その隣にわたしがいなくちゃいけないかどうかは、正直、わからない。 「……わたしの方こそ、なんか、色々……ごめんなさい」 「どうして泣いたの?」 「……なんで、かな。なんか、すごく……本当に感動したの。かっこよくて、美しくて、素敵で、本当に本当に感動して……」  さっきのショーの映像が脳裏に蘇る。たった一度しか見ていないのに、鮮明に、ありありと。真雪の目線の移動や歩幅、脚をどこで止めたか、どちらの足でターンしたか。そういう細かいところまではっきりと覚えている。  これはわたしの特技の一つで、カメラアイと言うのだっけ。スイッチが入れば、見たものを写真や映像のようにそのまま丸覚えしてしまう。映画や舞台は一度観ればセリフも動きもほとんど頭に入る。さすがに全てを即再現できるほどではないけど、同じ芝居をもう一度見れば前回とセリフや動きが変わっていたところにほとんど全て気付く。そのくらいは覚えてしまう。  だからさっきのショーも、真雪の一挙手一投足、目線の動きや唇の開閉まで、ほとんど覚えてしまった。 「それで、やっぱり、なんか……色々……違いすぎるなーって、思って……」  ああもう、嫌だ。卑屈で、ネガティブで、情けなくて。  でも、止まらない。 「わたしみたいなフツーなのが一緒にいていい人じゃないよなーとか、思って」  ずっと心の中に存在していたけど隠していた禁句が、浸み出しそう。 「あんな人とわたしが対等に付き合えるとか、ちょっと自惚れてたなーとか思っ……て……」  言葉が詰まって、代わりに、また涙がジワリと滲み出てくる。かっこ悪すぎて、消えてしまいたい。 「朔ちゃん」 「真雪には、もっと釣り合う人が他にいると思うし、わたしなんかじゃ、きっと……」 「朔ちゃん、ストップ」 「え?」  開くんの目線の先を追って、真雪の姿を確認した。追いかけてきたのか。 「真雪……」  しまった、と思った。  やらかした。  源ちゃんから禁句だと言われていた中でも一番言ってはいけないことを言ってしまった。  地雷踏んだどころじゃない。踏み抜いた。  人の目から感情の灯火(ともしび)が消える瞬間を、初めて見た。  それはとても(しず)かで、下手したら誰にも気づかれないほど微かで、鳥肌が立つほど冷ややかだった。  こんな状況なのに、わたしの脳ミソは真雪の表情の変化を一つの表現パターンとして感情のフォルダにしまい込んで、自分の(かて)にしようとしている。  最低だ。最悪。クソみたい。  本当にリナの言った通りだ。わたしみたいなのといたら、真雪は不幸になる。わたしみたいな末端の三文役者が潰していい人じゃない。 「真雪、ごめん、俺が勝手なことしたから」  きっと、開くんの言葉は真雪には届かない。真雪の心は今はもう、ここに向いていない。  わたしが地雷を踏んだのは、開くんのせいではない。わたしが弱かったから。わたしの弱さが、真雪を傷つけた。絶対にやっちゃいけない方法で。  10年前のあの時と同じやり方で、エマと同じ言葉で、真雪の心を再び傷つけた。  どうしよう。  ほんの数秒でいいから時間を巻き戻せたらいいのに。  そう思ったけど、やっぱりそんなことは無駄だ。あの言葉を取り消せたとしても、わたしの中に生まれた卑屈な心は簡単には消せそうにない。  このまま源ちゃんたちの家に戻って予定通りにみんなで飲むとか、絶対に無理だ。  もう帰ってしまおうか。  買い物に行くという言い訳をして出てきたので、幸い、荷物は持ってきている。このまま帰れる。やっぱり帰ろうか。  なんて言おう。どういうふうに言い訳して帰ろう。源ちゃんにバレたら怒られるかな。怒られるだろうな。怒られるどころか、キレられるかな。  でも仕方ない。それだけのことを言ってしまったのだから。 「あの、わたし……もう……」  帰るね、と言おうとした。でも言えなかった。  真雪が、黙ったまま、一歩後退した。わたしより先に、真雪が動いた。  それから、やっぱり黙ったまま、ゆっくりと向きを変えた。 「真雪……」  できれば、真雪に聞こえないように。でも、名前を口にせずにはいられなかった。  真雪に届いたかどうかは確かめようがない。でも真雪は、そのままここから離れて行こうとしている。 「真雪」  もう一度、つぶやいて。  わたし、真雪を引き止めたいのかな。それならもっと大きな声で呼べばいいのに。  でも、わたしはこれ以上大きな声を出すことはできない。 「あーもう。しょうがないなぁ」  突然、開くんが声を張り上げた。 「いいよ、いいよ。真雪は源太郎のところへ行かせれば。源太郎がなんとかしてくれるでしょ。だから朔ちゃんは俺と一緒にいよう」  開くんの言う通りだ。源ちゃんなら、源ちゃんになら、真雪を託しても大丈夫。  託す?  大丈夫?  わたし、いつからそんな立場になったのだろう。いつからそんなに偉くなった? 「ねーえ。ほら、もう真雪はいいから。俺が慰めてあげるから」  わずかに不自然さが滲み出ている。声量的にも、言い回し的にも。  そうか。真雪に聞こえるように話しているのか。  真雪の方を見れない。真雪が開くんの言葉を聞いてどうするかなんて、怖くて確かめられない。  スルーされたら?  何の興味も持たれず、何の反応もなく去られてしまったら?  でもそうなったとしても仕方ないのだった。それだけの言葉をわたしは投げつけたのだ。 「ほら。おいで。抱っこしてあげる」  開くんが、大げさにわたしをハグする。 「あ、あの……でも……」 「いいから、いいから。大丈夫。俺が身も心も慰めてあげるから」 「でも、それじゃあ源ちゃんが悲しむし」  違和感が消えないまま、わたしは開くんとのやりとりを続けた。  ハグは思いのほか強くて、少し身を(よじ)ってもなかなか解けない。 「相手が朔ちゃんなら源もわかってくれるよ」 「でも……」  突然、身体が大きく揺さぶられて、でもわたしの身体に触れているのはハグしてくれている開くんだけで、どういうことだろう、と不思議に思う。そのままハグが解けて、開くんの肩越しに、すぐ背後に、真雪が戻ってきていてびっくりした。  真雪が開くんの肩を掴んでわたしから引き剥がしていた。 「開くん、ごめん」  どうしてそんな辛そうな顔をしているんだろう。  何がそんなにしんどいんだろう。 「朔は……だめ…………」  そうだよな。その通りだよな。  わたしは、ダメなんだよな。そんなこと自分でも分かっている。嫌というほど。  確固たる自分なんてものはないし、かろうじて取り繕った外部向けの自分はあるけど自信なんて全くなくて、そのくせあんなに頑張って自分の世界を作って活躍していた真雪を羨んで妬んで。ダメすぎて、ダメダメすぎて、もうなにも言い訳できない。  わざわざ戻ってきて口にする言葉が、それ?  開くんだって、そんなこと教えてあげなくてもそのうち気づくし。わたしがダメなんてことには。 「朔は、私のだから」  自分の中で、自分を(いや)しめる気持ちがパンパンに膨らんで、その絶望感や罪悪感をどうやって処理したらいいだろう、と考えていたので、真雪の言葉を正しく理解する余裕がなかった。 「なんでぇ? 今、帰ろうとしたじゃん。また、前みたいに逃げるつもりだったんだろ」 「それ、は……」  開くんと真雪の会話は続いているのに、わたしの脳みそはそれについていけていない。  真雪はなんと言った?  もう一度、もう一度聞きたい。 「俺に任せとけよ。ちゃんと大事にするから」 「でも、だめ」  この人たちはいったい何の話をしているんだろう。こんなに真剣に、こんなに必死に。  逃げる?  大事に?  だめ?  何を……? 「今から俺、朔ちゃんのこと大事に大事に慰めてあげようと思ったのに」 「開くん、ネコじゃん。朔もネコだよ、だから」 「俺、どっちもイケるけど」  ネコ、というのは多分、猫のことではない、よな。ああ、それじゃあリナとたいして変わらないな。そんな話じゃない。  開くんはネコ。それは知っている。  で、朔も、と真雪は言った。  ……わたしも?  そういえばさっき倉庫でも、リナに同じことを言っていたっけ。自分でも把握できていない自分のポジションをどうして真雪が知っているのかとか、たぶん頭の片隅で疑問に思っているけど、それを追求する余裕がないくらいの複雑な展開が目の前で繰り広げられている。 「そ……そういう、問題じゃ……」 「自分が言い出したんだろ」 「……そうだけど」  勢い的には、開くんの方が優勢。真雪は少し腰が引けている。 「俺、朔ちゃんのこと可愛くて仕方ないし」  本当に、何の話をしているの。 「でも」 「いいから真雪は源太郎のとこ戻って慰めてもらえよ」 「お願い……」  絞り出すような、悲痛とも思えるほどの声が、深夜の路地裏の冷ややかな色をしたコンクリートに吸い込まれていった。  真雪から目が離せない。  綺麗な形の眉が美しく歪んで、そのすぐ下にある同じように歪んだ目からボロボロと涙が(あふ)れた。  その光景があまりにも美しくて、思わず見入る。何か、映画のクライマックスのシーンのような。  涙の一粒ひと粒にネオンライトが映り込んで、カラフルですごく綺麗。  本当の真雪は、こんなふうにして泣くのか。  あの血塗れ事件の夜、源ちゃんの家の脱衣所で表情も変えずに涙を流した時とは全然違う。身体の奥から絞り出すみたいに、苦しそうな嗚咽を堪えきれないという風情で、いつもクールで冷静なあの真雪がバラバラに砕けてしまいそうなほど心を乱して泣いている。  どうにかしなければ、と思うのに、わたしは身体が動かなくて、それは開くんにハグされているからというだけではない気がした。  ふいに、そのハグが強くなった。 「朔ちゃん。どうする?」  さっきまで流れを握っていた開くんが、わたしにどうするか決めさせてくれようとしている。 「朔ちゃんが決めることだよ」  わたしがどうしたいか。わたしが決めていい?  そんなの、そんなこと、考えなくてももう決まっている。 「ちゃんと向き合えよ。黙ってたら何も解決しない」  真雪に触れたい。  1秒でも早く、真雪を支えたい。  真雪が壊れてしまわないうちに、誰かが……わたしが、抱きしめてあげないと。 「開くん。ありがとう」  自分と開くんの胸の間にそっと腕を差し入れてそう言うと、瞬時にハグが解かれて、開くんが大げさに腕を上げた。 「はーあ。もう。ホントに世話がやけるっつーの」  大きく深呼吸をして、わざとらしく肩や首をストレッチするみたいに回した。 「超久々に女子に濃厚接触しちった。あー緊張した。源太郎に慰めてもらおっと。じゃあねー!」  さっきまでの深刻さをリセットするみたいに軽快に片手をヒラッと振って去っていく開くんを、黙って見送る。  あのお節介っぷりは源ちゃんといい勝負だな、と思う。似た者カップルだ。  目線を移すと、真雪も同じように開くんを見ていた。  さっき、泣いている真雪を見て、抱きしめてあげたいと思った。すぐに支えてあげたいと思ったのに。すぐ目の前にいる真雪に触れるのは、ここ1ヶ月ほどの自分の迷走っぷりを思い出すと(はばか)られた。  逃げようとしたのはわたし。真雪より先に、わたしが逃げた。  でも、真雪は歩み寄ってくれた。こんなわたしに、向き合ってくれた。  わたしたちのいるところから開くんが見えなくなって、ふたりきり。もう、逃げられない。 「なんで出てったの?」  真雪が先に沈黙を破った。 「昔の私を見るの、嫌?」  答えに迷って、すぐには思いつかなくて、仕方なく首を横に振る。 「私は、あの仕事をしてたことを後悔してない。むしろ、あの仕事を辞めてからずっと自分を閉じ込めていたことの方を後悔してる」  やっとふたりきりになれた。  会いたいと会いたくないを繰り返して、ようやく向き合えた。だから、ちゃんと話したい。話し合いたい。そう思うのに、うまく言葉が出てこない。 「でも、今の仕事してたから朔と仲良くなれたんだし、朔と楽しく過ごしたいから今までみたいに壁作ったりするのやめようと思った。朔と会ってからもしばらく壁壊せなかった分、今から取り戻せることは取り戻したいと思ってるよ」  真雪はやっぱり力強くて、大きくて、眩しい。 「朔がなんで私から離れようとしたのかわかんないけど、もし私があの仕事やってたことが嫌なら、それはもう消せない過去だから私にはどうすることもできない」  離れられるわけない。それはもう、嫌というほどよくわかった。 「でも、嫌なら、朔が嫌なら、もう絶対に私からは見せないから」  どうして離れられると思ったのだろう。どうやったらもう会わないでいられるはずだったの。こんなに好きで、こんなに大事な人と。 「だから、教えて。朔が思ってること」  今夜は倉庫で真雪と話をすることになっていたのだった。それが、リナの乱入でキャンセルになって、でもその後のドタバタのおかげで真雪と前みたいに普通に話せたことに気が緩んで、どさくさに紛れて4人仲良く源ちゃんたちの家に行った。源ちゃんと開くんの優しさに(かこつ)けて、予定していた話し合いもしないでそれまでと同じに過ごせるかもしれないことを密かに期待した。  でも、無理だった。色々と。  話さなくてはいけない。そういう約束だった。  1ヶ月以上もずっと真雪と距離を置いていたことを、ちゃんと話すべきだった。 「あの、ね。わたし……」 「ちょっと待って。その前に」 「え……?」 「1回だけ」  何を、と、問いたかった。でも、間に合わなかった。  真雪の身体がふわりと近づいてきて、視界が塞がれる。 「はぁ……会いたかった……」  そんなの、わたしだって。  わたしだって会いたかった。すごく。 「朔……」  真雪の態度が優しければ優しいほど、わたしの中で勝手に罪悪感が募ってゆく。  ひどいことをした。どこの誰だかよくわからない小娘の陰口を真に受けて、勝手に傷ついて、真雪を避けて、それで、結果的に真雪を傷つけた。だから、謝らなきゃいけないのに。 「まゆ、き……苦しい……」 「いいの。わざとだから」  離してくれそうな気配はない。 「痛いよ」 「ずっと私を避けてたイジワルの、お返し」  そう言うと、さらにきつく力を入れた。本格的に苦しい。 「意地悪してたわけじゃ」 「でも、私は寂しかった」 「……ごめん」  優しくされるより、これくらいイジワルされる方が良かったりする。思っていることをちゃんと言葉にして、態度で示して、わたしが真雪にしたひどいことをなかったことにしないでくれている。それが、わたしへの罰だ。 「会いたかった」 「ん、ごめんね」  今わたしにできることは、罪を認めて謝ること。それだけ。自分が許してもらうことを望むのではなく、本当の気持ちをちゃんと伝えて真雪の中に溜まってしまった疑問を解くことをしないと。 「何か、怒ってたの?」 「んーん。怒ってない」 「じゃあ、なんで」  少し、思っていた展開と違う。  稽古場に源ちゃんが来て真雪と会えない理由を訊かれた時、わたしは誘導尋問に引っかかってエマに言われたことをつい口にした。つまり源ちゃんには真雪に会えなくなった理由がバレた。でも真雪はそれを知らないような口ぶりで。  源ちゃんは真雪にそれを伝えていないのだろうか。  そういえば、ちゃんと話せ、と言われた。自分の口から真雪に話せ、ということなのだろうな。 「真雪は、疑ってないの?」 「疑うって、何を?」 「わたしが真雪から離れていって、このまま終わっちゃうかも知れないこと」  自分で言っておいて、ひどい問いかけだな、と思う。でも真雪は嫌な顔もしないでちゃんと考えてくれている。こういうところが本当に、健気で、大好きだ。 「可能性のひとつとしては、あり得るかとは思ってる。でも、もしそうなったとしても私の気持ちは変わらないから」  ハグはまだ解けない。  重なった胸から、真雪の思いが染み込んでくるような気がする。じわじわと、ひたひたと。 「そうなったら、ただ、片思いに変わるだけだから」  ああ。そうだった。  真雪はそういう人だった。  真っ直ぐで、高潔で、強い。  そして、優しい。 「ちゃんと話そう」 「……うん」 「全部」 「うん」  話したい。向き合いたい。 「イジワル、おしまいにして」 「……ん」 「あの、放して」  真雪の腕の中でモゾ、と身動ぐと、ようやく真雪は腕を緩めてくれた。 「あのね。こないだ、ローラさんのお店で」 「……うん」  顔を見上げると、何か言いたげにわたしを見ている真雪と目が合った。  スッ、と、真雪が一歩、前に踏み出した。近いな、と思って、またハグされるのかと思って。今、解放されたばっかりなのに、また?と思っていたけど、身体はぶつかってこない。  その代わりに、真雪の片手がそっとわたしの肩にほんの軽く触れた。  ちゃんと話す、と言ったから話したいのだけど。 「リナ、が」 「……ん」  言葉を探して、ちゃんと伝わるように、頭の中で、考えていたのに。  わたしの肩に触れている真雪の手に、わずかに力が入った。  肩がゆっくりと押されて、身体が後ろに傾く。倒れないように、と脚に力を入れて、でも、真雪がわたしを押す力の方が優っていて。  このまま下がったらビルの壁にぶつかってしまうかも、と思って、さらに脚を踏ん張った。それでも真雪は手を緩めない。  もうダメだ、と思って、片脚を一歩だけ後ろに下げる。  真雪のもう片方の手がわたしの頭に触れた。後頭部にそっと手のひらが充てがわれて、何をしてるのかな、と思っているうちにさらに肩を押されて、そのまま数歩、下がるしかなかった。  2、3歩下がったところで、背中がトン、と壁にぶつかる。頭をぶつけなくて済んで、そこで初めて、真雪の手が頭をガードしてくれていたのだとわかった。  わたしの身体が動けないところで落ち着いて、そこからわたしの頭にあった真雪の手がそっと離れたかと思うと、そのままビルの壁に前腕をくっつけるようにして寄りかかる。これはもしかして、ひと昔前に流行った壁ドン、というやつかな、とか思ったりして。  プライベートでも仕事でも誰からもされたことがないので、本当にこれがそうなのかはわからない。でもたぶん、そんな感じ。  壁にぴったりとくっついたことで、わたしたちは裏路地にある看板やエアコンの室外機などの物陰に隠れるような形になって、人がたくさん行き交う大通りの方からは死角になった。その上、真雪がわたしを覆い隠すみたいにして立っているから、きっと誰からも見えないだろうな。  良かった。  そう思って、どうしてかと考えた。  良かった?  何が?  この後の展開を、全く予想できなかったわけではない。状況的に、まぁそういうこともあるかもと、心のどこかでは思っていたかもしれない。  だから、良かったと思った。こんなふうに、隠してもらっていて。  これで心置きなく周囲の目を気にすることなく真雪と向き合える。  わたしよりだいぶ背が高い真雪と目線が同じになっていて、真雪の頭の角度的に、すごく身を屈めているのだろうな、と思う。  まだ、目が少し潤んでいて、零れ落ちるほどではない涙が(まぶた)(ふち)に溜まっているのが見えた。眼球の表面にネオンライトが映り込んで、真雪が目線を移す度にそれがゆらゆらと揺らめく。琥珀糖みたいだな、と思って、舐めたら甘いのかな、とか、わたし、こんな時に何を考えているのだろう。  そうだった。  話を、している途中だった。ちゃんと話すと言ったから。  何の話をしていたのだっけ。  そうだ、リナだ。こないだ、リナが、ローラさんのお店の前で。 「言って……ん……」  リナが言ってたんだけどね、と、言うつもりだったのに。  気づいたら、琥珀糖はもうどこにも見えなくて、真雪が目を閉じているのだとわかった。  それから、様子を(うかが)うみたいに(かす)めた鼻先と、さらにそれより控えめに風のようにそっと触れた唇。  はじめは、何か別の意図があって近づいた際に間違って触れてしまった事故かと思った。でも、再びゆっくりと押し当てられた唇が確実にわたしの唇を捉えていたので、やっぱりこれはキスなのだろうな、と納得するしかなかった。 「ま、ゆ……」  一歩踏み出してしまった真雪は、最初の遠慮がちな態度が嘘だったみたいに完全に開き直った風情で、(たが)が外れたかのように怒濤のキスを見舞ってくる。 「は、なし……て、ン、のに……」 「聞いてる」  唇だけでなく、頰にも、顎にも、鼻にも、瞼にも、届くところ全てにマーキングするみたいに唇が押し付けられていく。 「聞いて、な、ン……じゃん……」  せめて口に出した言葉だけでも最後まで言いたくて、キスから逃れるように横を向いた。でもすぐに真雪の手がわたしの頰を覆って、また、真雪の方に向き直されてしまう。 「聞いてるよ」  わたしはこれから、真雪と話をして、どうなりたいと思っていたのだっけ。 「は……な……」  話をしよう、なのか、放してくれ、なのか、自分が何を言おうとしているのかももうよくわからない。でもどうせ、何か言っても全部塞がれて、きっと何も伝えられない。  繰り返されるキスをただひたすらに浴びているうちに、自分がそれを少しも嫌だと思っていないことに気づく。  そこで初めて、今、真雪とキスをしているのだという事実を意識のど真ん中ではっきりと自覚して、猛烈に動揺した。  こんな街中で、すぐそばを人が通り過ぎているのに。いくら真雪が死角を作ってくれているからと言っても、もしこの路地裏に人が入ってきたらアウトだ。そんなところで、こんなふうにキスをしているなんて。恥ずかしいし、照れくさいし、今さらだけど緊張する。  好きな人とキスをするのが初めてだな、と思ってから、いやそもそも好きな人ができたのが初めてだし、とか、キスもキスだと認識した上でしたのは初だよな、とか、色々と考えていたのだけど。  そういえば、真雪は女性だったな、と、ふと思う。  初めて真雪の存在を知った時は男性だと思って、ドラァグクイーンの格好をしていたからゲイの男性だと思い込んで、次に会った時に女性だと知ってびっくりして、自分の無知や偏見を恥じて、そこから何度も会って一緒に過ごして、いつの間にか好きになって。  でも、真雪が女性なことに疑問を持ったり困惑したりしたことは一度もない。それどころか、真雪がビアンで良かったとさえ思っている。だって、もし真雪がヘテロだったら、わたしのことは好きになってくれていないはずだから。  自分がずっと何かしらのセクシュアルマイノリティなのだろうという意識があったから、分類が変わってもマイノリティであることへの抵抗がないのかな、とか、その程度。  真雪はレズビアンで、じゃあわたしもそうなのかな、と思っても、確信はない。ただ、こうして真雪と向き合っていて、こういう気持ちを男性相手にも味わってみたいかといえば、今はそれはない気がする。でもそれが、男性か女性か、という区別の問題なのか、真雪と真雪以外、という区別なのかは、今のわたしにはわからない。  色々とゴチャゴチャ考えてみたけど、そうしている間にも真雪のキスは続いていて、相変わらず少し苦しそうに屈んでわたしに覆いかぶさるようにしてキスをしている真雪を見ていたら、ビアンだろうがバイだろうがその他だろうが、そんなことはどうでもよくなった。 「真雪……」  キスの隙をみて名前を呼ぶと、やっと真雪もキスを中断してわたしを見た。  少し息が乱れてほんのりと頰が上気していて、加えてまだ少し涙目の名残があって。その様子のなんともいえない色気を堪能していたら、そっとハグされた。  身長差と、壁際に追いやられていたのとで、うまく抱き合えない。 「はぁ。もう……このまま……連れ帰りたい、けど」  真雪の腕に、キュッと力が入る。 「4人分の用意、しちゃってるから」  4人、と聞いて、現実の世界に引き戻された気がした。そうだった。4人で飲むことになっていたのだった。急に出てきてしまったから。 「源太郎と開くん、待っててくれてるから」 「うん」  ふわり、とハグが解かれて、真雪の口から長いため息が出た。そのため息の意味を追求しようと思ったのだけど、それより先に真雪がわたしの手を取った。 「よし、戻るか」  手を引かれて、歩き始めて。さっき開くんが去り際に言っていたことを思い出した。 「あ、でも待って、さっき開くん、源ちゃんに慰めてもらおうって言ってたよね。もしかして戻らない方が良かったりしないかな?」  足を止めて振り向いた真雪が、一瞬何かを考えてから、スマホを取り出す。 「……一応、連絡だけ入れてから帰るか。礼儀として」 「そうだね」 「……恐ろしい現場に出くわしても嫌だし」 「そう、だね」  この状況で、この流れで、自分で連れて帰りたいとまで言っておいて、それでも律儀に源ちゃんたちの家に戻ろうと連絡している真雪を、不思議な気持ちで見守る。  源ちゃんにも真雪にも、今は頼れる家族がいない。二人とも、タイミングや理由は違うけどだいぶ昔に家族とは疎遠になったと言っていた。もしかしたら、真雪と源ちゃんはその失った家族のポジションを埋め合うような信頼関係にあるのかもしれない。 「あ、戻っても大丈夫だって」 「うん」  歩きながら、何か忘れている気がした。そういえば、話そうと思ったことを何も話せていないな、と思い出した。真雪も、話そうと言ったのに。でも、そう言った真雪ももう何かを話そうとはしていない。 「あのね」  計画性ゼロのまま、ただ、言葉が勝手に出てくるのを止めないでいた。 「わたしね、自分が真雪の負担になったらやだと思ってもう会わないようにしようと思ってたんだけど、やめた」 「そっか」  わたしの手を握った真雪の手にキュッと力が入る。 「うん」  たったこれだけの会話で終わった。全部伝わった気がした。固く握られた手をわたしからも握り返して、今はその繋がりが確かなものだと絶対的自信があって、それで満たされた。  やっぱりこの人が好きだと、強く、強く実感した。   「おかえり」 「うん。ただいま」  エプロン姿のまま迎え入れてくれた源ちゃんに返事をした。  ダイニングテーブルにはちゃんと4人分のお酒の支度がしてあって、待っていてくれたのだとわかる。 「話せた?」  開くんに訊ねられて、真雪は少し照れ臭そうに笑った。 「まぁ、少し。これからまたいろいろ話すよ」 「そっか」  経過報告はそれで終わった。ここでも、たったこれだけ。これだけのやり取りで、それ以上は源ちゃんも開くんも突っ込んでこない。 「あの、ごめんなさい。いろいろ、いっぱい」  わたしからも、ふたりに謝罪を入れる。 「いいよ、いいよー。真雪に変なことされなかった?」  開くんのいつものイタズラっぽい目。また、この人は、何でもかんでも楽しむから。  変なこと、の定義がわからなくて、ほんの一瞬迷いが出た。 「…………うん」 「あれ? なに、今の間」 「されてない! 何も!」  慌てて否定してみたけど、開くんはあからさまにニヤニヤした目をこちらに向けた。 「そんな全力で否定しなくっても〜」 「した! したから! キス、したから! 絶対手ェ出すなよ!」  わたしが何と返そうか考えていたら、真雪がいきなり割って入ってとんでもない宣言をした。目の前にその相手がいるのに、どうしてそんなことを。恥ずかしすぎて鼻血出そう。 「はぁ? たかがキスくらいでなーにそんな偉そうにして」  どう見ても真雪を煽って楽しんでいるのだから、適当に流せばいいのに。でも真雪は真面目に受けて、馬鹿正直に答える。 「ふたりともガチゲイなくせに、冗談でも手ェ出そうとかしないで……お願い……」  さっき開くんが言っていたのと少し違う気がする。さっきは、女のわたしを身も心も慰めてやる、とか言っていたような。 「ガチゲイ? 開くんも? でもさっき開くん、どっちもイケるって」 「あーあれはね、男女どっちも、っていう意味じゃなくて、タチもネコもどっちも、っていう意味。相手はオトコ限定」 「そうだったんだ……なんだ……」  なるほど。さっきのは、離れてしまいそうなわたしたちに元に戻るきっかけをくれるために、わざとバイとも取れる言い方をして煽ってくれたということか。 「あれぇ? 朔ちゃんったら、なんかヘンな想像とかしちゃった?」 「して、ないですけど」  しまった。動揺して、敬語になった。 「えぇー、もしかしてエッチなこととか考えちゃったりした?」  絶対わざとだ。この言い方は。  わたしが答えられずにいると、真雪が横から入ってきた。 「開くんが身も心もとか言ったからじゃん!」 「えーだってその通りだもん。抱きしめて頭ナデナデしてぇ、優しい言葉かけて慰めてあげれば、身も心も、だろ?」 「そ……う、だけど」  ひとのことは言えないな、と思う。わたしも簡単に転がされていたのだ。  でもそのおかげで、こうして今真雪と一緒にここに帰ってこれた。何も失うことなくここに戻れた。  よかった。 「さー、いいからもう飲もう飲もう。待ちくたびれたっつーの」  本当にいろんなことがあったのに、こんなふうにいつもと変わらない様子で受け入れてくれて、余計な口出しはしないでくれている。でもきっと、いろんなことが彼らにはもうバレていて、情けないとは思うけど、これだけ甘えさせてもらえる関係は貴重で尊い。   「開くん、今日も寝室借りるね」  当然ながらテッペン超えて、4人とも仕事明けだったし色々あったしそれなりに疲れていて、そろそろお開きにしよう、と全員で片付けをして。だいたい終わったかな、というところで真雪が言った。 「いいよー」  当たり前のことのように真雪も開くんも話しているけど、わたしにとってはまだそれほど当然とは思えなくて、恥ずかしさや戸惑いを完全に隠すことはできていなかったかもしれない。それに気づいた源ちゃんが、わざとらしくおどけた声を上げた。 「ヤダもう、エッチなことしないでよ!」  今まではなんとなく、何バカなこと言ってんの、と本気には受け取らないような空気があった。でも今は、そんなこともなくて。絶対ないとは言えない怪しい雰囲気が、なくはないのだけど。 「するか!! あんたらと一緒にすんな」  真雪ははっきりとそう断言してくれたけど、それが本心か建前かはわからない。 「えええー、しないのぉ!?」 「……できないよ、そんな」 「そうだよねぇ、朔ちゃん、お子ちゃまだもんねぇ。犯罪になっちゃうもんねぇ」  てっきり、なかなか煮え切らない真雪イジリなのかと思っていたのに、いつの間にか矛先はわたしに向いていて、わたしへのお子ちゃまイジリになっていた。まあ、それももう慣れたけど。 「あの、源ちゃん……わたしいるんだけど」 「あらぁごめんね、ちっちゃくて見えなかった」 「あはは、何コレ……コント!?」  開くんが酔った時特有のヘニャッとした笑顔で言った。 「そんな安易に手ェ出せないよ……朔は、特別だから……」 「へぇえ。あんたの口からそんな言葉が出てくるとはね」  急に真剣な口調になった真雪の顔を、すぐには振り向けなかった。  冗談を言ってふざけ合っていた気持ちのまま見てはいけない気がした。   源ちゃんの口調もシリアスなモードに落ち着いて、余計に入っていけない。  でも、本当は気になって気になって、真雪を見たくて、たまらなくて。堪えきれず、振り向く。  そして、目が合った。 「朔は、私の宝物だから」  どうしよう。  泣いてしまいそう。  わたし、どう反応したらいい?  同調すればいい? 笑って突っ込めばいい? お礼? 怒る?  どうするのが正解? 「……そうだよね、うん。そうだった、そうだった」  結局、わたしが混乱している間に源ちゃんが柔らかく答えて、その場の空気が閑かに落ち着いた。  本当は嬉しくて仕方なくて、素直にありがとうと言えればよかった。でもそんな余裕なくて、恋愛スキルも低すぎて、どうしていいかわからなかった。 「いいなぁ……源太郎、俺も! 俺のことも宝物って言って。んで、大事にして!」 「あーはいはい、宝物、宝物。大事にしてますよー」  たぶん源ちゃんだけでなく、開くんも、わたしが上手く対応できなかったことをフォローしてくれていて、同時に、大告白をかました真雪の気持ちも潰すことなく大切に包んでくれている。  告白に反応してもらえなかった真雪としくじったわたしが恥ずかしくならないように、アホくさいやり取りをして守ってくれている。 「何それ!? 超おざなりじゃーん!」 「あ? なに、僕のことが信じらんないの? じゃあいいよわかったよ。あとでベッドの中で嫌というほど思い知らせてやる」 「だからぁ! ウチらが泊まるっつってんだから、ヤるなよ! 絶対ヤるなよ!!」  温かい。ここにいる全員が、それぞれみんなのことが好きで、自分のことも大切にしていて、ネガティブな気持ちを持っていない。  さっき倉庫で、真雪がリナに言った。あの時あの場にいた中で、唯一の性的マジョリティであるリナがあの場ではマイノリティだと。  リナが抜けたここにいる4人は全員が、一般社会に出ればセクシュアルマイノリティと呼ばれる少数派。昔に比べればだいぶ受け入れられてきてはいるようだけど、それでも万人に笑顔で迎え入れてもらえるようにはなっていない。それが現実。  でも全員がそれを自覚した上で自分たちの生き方にちゃんと誇りを持っていて、昔はともかく、今はそのことを不幸だとも不運だとも思っていない。わたしたちのSOGIに文句を言う人さえいなければ、わたしたちは何も不都合なく、不快な思いもすることなく、楽しく生きていけるのに。  それでも外の世界にはそんな簡単なこともできない残念な人はたくさんいて、自分と違う特性を持つ人を排除したがる。  ただ、そういう人もいるよね、と思ってくれるだけでいいのに。  そんなのはおかしい間違ってる、なんて言わないでくれるだけでいいのに。  否定的に思うことがあるのは仕方ないけど、それをわざわざ大声で言わないでくれればいいのに。  でも、そんなことすら容易ではないことも、嫌というほど知っている。  マジョリティとマイノリティ間だけの話でもない。マイノリティ同士でも差別や偏見や不仲は存在する。分かり合えない人たちもいる。  同じマイノリティ同士でこうして楽しく過ごせるだけでもラッキーなのだ。課題は山積みで、やるべきこと、やれるかもしれないことがまだまだたくさんある。  今はせめて、誰にも言えず、誰とも分かり合えず、たったひとりで自室に籠ってマイノリティであることを嘆いて泣き暮らしている人が1人でも減ってくれればいい、と願う。  全てのマイノリティの人が仲間や理解者と巡り会えますように。  真雪と順番にシャワーを使わせてもらって、わたしはまた開くんの部屋着を借りた。前回借りた服と同じで、もしかしたらあれから開くんは着ないでわたし用に取っておいてくれたのかな、と思う。 「じゃあ明日はみんなゆっくりでいいね?」 「ヘーき」 「うん、おやすみ」 「おやすみ」  空けてもらった開くんの部屋で、また真雪と一緒にベッドに入る。この前と同じようにわたしが壁際になって、大きな真雪が寝られるスペースを確保するため、できるだけ端っこに寄った。 「はぁ。頭軽いの、めっちゃ楽」 「そんなに違う?」 「うん、スッキリした」  枕や毛布を整えてそっと身を横たえた真雪が、モゾモゾと動いて寝床を確保した犬みたいに身体の納まりどころを探している。 「もったいなくない?」 「さっきも言ったけど、別に伸ばしたくて伸ばしてたわけじゃないから」  ようやくちょうどいい場所に納まったのか、仰向けに身体を伸ばして悠々と寝て、掛け布団をわたしのところまで丁寧に整えてくれた。 「ウィッグ被りやすくなって良かったよ」 「今まで大変だったの?」 「うん。長い髪隠しても大丈夫なくらい大きいのしか使えなかったから、これからはコンパクトなやつも色々着けれる」  そう言われて思い出すと、確かにいつも盛り盛りでゴージャスなウィッグばかりだった。そういうのが好きなのかと思っていたけど、そんな事情があったのか。源ちゃんは……短髪だし、好みなだけだろうな。 「あと……」 「ん?」 「……いや、なんでもない」 「……?」  言いかけてやめるなんて真雪らしくないな、と思ったけど、真雪が次の行動に移ってしまったので追及しはぐった。 「電気消すよ」 「うん」  真雪が手を伸ばして、枕元にあるセンサーライトに触れた。部屋の灯りが全て消えて、一瞬、何も見えなくなる。 「ねぇ、前にさ、源太郎にさ、キスしたことあるの、って訊かれて、ないよ、って答えたの、あれ、ほんと?」  暗くなるのを待っていたみたいに、真雪が突然話を振ってきた。 「……嘘、ではないけど、本当でもない、かな」  ほんの一瞬、真雪が喜ぶ答えを探して言った方がいいのかな、という考えが浮かんだのだけど、そうではないとすぐに思い直す。やっぱり、本当のことを正直に伝えたい。 「ん? どういう意味?」 「わたし恋愛したことないから誰とも付き合ったことなくて、そういう意味ではちゃんとキスしたことないんだけど、でも色々と、それなりの歳だし、芝居で恋愛感情を表現しなきゃいけないことも増えて、まぁ、形から入ってみたら、って思って、何回か、ワンナイト的な、ちょっと勉強兼ねて遊んでみたこととかあって、その時に、ちょっとだけ」  行為を知れば愛だの恋だのの醍醐味の片鱗くらいは味わえるだろうと思って、たまたま誘ってきた共演者の男と一晩を共にしたこともあった。 「キスするつもりじゃなくて、ただ身体が触れた延長で接触しちゃった、みたいなレベルのやつだったけど」  付き合ってるわけじゃないからキスはしないでね、と言って関係を持ったけど、なんとなく流れでキスらしきこともしたような気がしていて、そういう意味での嘘ではないけど本当でもない、という程度の自覚だ。 「まぁ、そうだよね、25だもんね……なんにもないわけないよね……」  暗闇に目が慣れて、周囲がうっすら確認できるようになって、真雪の顔が思いのほか近くにあってびっくりした。  また、初めて見る表情。望みが叶わなかった子どもが不貞腐れているみたいな顔。  飄々として、表情読めなくて、クールで落ち着いたイメージだったけど、こんなにいろんな顔をする人だったのか。  可愛いな、と思う。 「今、笑った?」  真雪がさらに不機嫌そうに言った。 「うん。ごめん。なんかね、嬉しかったから」 「嬉しい? 何が?」 「真雪のいろんな顔見れたから」  不本意、と言いたげな顔でわたしを見ている。やっぱり可愛い。 「これからいっぱい笑ったらいいと思うよ」 「何? なんのこと?」 「前に言ってたの。感情出すの怖くなった、っていう話」 「あぁ……」  笑うことはいけないと思いながら10年過ごしてきた真雪。人と仲良くなったり、みんなで楽しく笑って過ごしたり、そんな当たり前のことができなくなるくらい大きな傷を背負って生きてきた真雪。  わたしは、真雪と一緒に笑いたい。笑って、楽しく過ごしたい。泣いたり怒ったり、時には喧嘩もするかもしれない。でも、それでも一緒に過ごして、たくさん笑いたい。 「いっぱい色々、これから一緒にしようよ」 「うん」  感情を出せなくなってからの10年間をなかったことにはできないけど、その10年間で抜け落ちてしまった感情の穴を今から埋めていくことはできるかもしれない。これから、今までの10年分もまとめてたくさん笑って一緒に過ごしていきたい。 「キスしていい?」  真雪が甘えるようにわたしを見ている。  うわ、こんな顔もするんだ。すごい。意外。 「うん」  そのまま真っ直ぐ近づいてきて、そっと唇を触れ合わせるだけの、軽いキス。さっき道端でしたのとは全然違って、優しくて控えめ。 「あの、さ。さっきしたの、あれが朔のファーストキスだって思ってもいいと思う?」  ファーストキスに拘るなんて、今までの真雪から考えると意外すぎて、そのギャップに顔がにやける。 「前にしたの相手も状況も全く思い出せないし、いいと思うよ」  正直、自分の中に『ファースト』にこだわる気持ちがあまりない。でも、嘘ではないし、それで真雪が満足してくれるならそう思ってもいい。 「朔。はい」  腕を上げて、懐に入ってきていいよ、と言ってくれている。 「……うん」  枕と真雪の腕の位置を確認して、腕に直接乗らないように気をつけてハグされにいく。  腕の中に納まると、ふわりと包みこむように抱きしめてくれた。  だいぶスレンダーなのに全体的に硬い感じはなくて、薄い部屋着を通して伝わってくる感触は、想像以上にふんわりしている。普段のシュッとかっこいい硬派系イメージの佇まいな真雪とのギャップに、鼓動が早まる。  ドキドキして思わず身をよじると、真雪の腕にキュッと力が入った。  この前泊めてもらった時、別室の開くんの声があれだけ聞こえたことを考えたら、今ここで何か大変なことが展開された時に物音立てないでいられる自信がない。と思ってから、大変なことって何やねん!と思わず自分で突っ込む。 「大丈夫。エッチなことしないから。ハグだけ」  邪念が伝わってしまったのか、真雪が苦笑いを浮かべながら言った。 「うん」  自分が何かを期待していたかと言えば、たぶん、していた。でも何もないのだとわかってホッとしたのも事実で、それなりに緊張しているのだな、と思う。  ハグだけ、という真雪の宣言を信じてそれに身を委ねた。柔らかくて温かくて、疲れもジワジワと自覚できて、睡魔が近づいてきているのがわかる。このまま心地いい感覚のまま眠ってしまいたい。  突然、真雪が腕を大きく振って、部屋のドアに向かってクッションを投げた。 「聞き耳立てんな!!」  ドアの向こうでバタバタと動き回る音と、ふたりの笑い声が聞こえた。  びっくりして、すぐそばまでやってきていた睡魔が一瞬でどこかへ消えた。 「ったくもう! 何やってんだあいつら。中学生かよ」 「あはは。よく気づいたねぇ。もし本当に色々してたらどんな反応したんだろうね」  自分で言ってから、色々って何やねん!とまた心の中で突っ込んだ。 「いっそ全部見せつけてやりたいよ」 「え、全部? 何を全部?」 「何もかもを、だよ。あんなことやこんなこと、ぜーんぶ、すべて!」  (はだ)けた布団を整えながら、真雪は開き直ったみたいに吐き捨てた。その言い方がやっぱり可愛くて、わたしの中にあった真雪像が崩れまくる。 「あははー、やらしー!」 「そうだよ。やらしーんだよ私は」  いきなり抱き寄せられて、長い手足にグルグルに巻き取られた。グイグイと腕を締められて、苦しくて、ドキドキする。いい匂いがするな、とか、服越しに胸が当たってるな、とか、心拍が上がる要素が次々に頭に浮かんで、そういう展開じゃないんだった、と思い出して慌てて邪念を払う。 「大丈夫。朔もすぐにおんなじになるから」  密着している胸のあたりから真雪の声が響いて、ウーハーみたいで気持ちいい。 「えー、なんないよ」 「なる、なる。私がそうさせるから」 「何すんの」 「仕込む。色々と」  音の響きだけでは片付けられないような気持ち良さを感じて、何かと思ったら、真雪がわたしの髪をそっと撫でていた。大きな手で、一瞬触っているのかどうかわからないほどそっと優しく、後頭部を包み込むようにゆっくり撫でてくれている。 「色々?」 「うん。色々とね」  睡眠薬を流し込まれているみたいに急激に眠気がやってきて、真雪の無謀な計画に反論する気があっという間に失せた。 「好き」  脳を通らず、心から口へ直結で言葉が出た。  すごい。役者としてはあるまじき失態。言う予定のなかったことを気づかないまま口にするなんて、今まであり得なかったのに。  でもわたしは、そんなことをしでかした自分を可愛いと思った。そしてそれがどういうことなのかを考えるには意識のキープが不十分で、どこかへ消えたと思っていた睡魔がまたすぐ近くまで来ているのだと気づく。  真雪が何か言ったような気がしたけど、もう、よく聞こえない。  明日になったらまた聞いてみよう、と思って、諦めてそっと目を閉じた。  好きな人ができた。  違う。できた、だけじゃない。  好きな人が、わたしのことも好き。  気持ちが、言葉が、(あふ)れてくる。  今なら、どんな役が来ても演じきれる気がする。根拠のない自信が、自分の内側に満ちてきているのがわかる。  自分の中にある可能性が無限大に広がる感じ。  未来は、果てしなく明るい気がした。
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