scene 3 稽古場(午前)

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scene 3 稽古場(午前)

 稽古場に着くと、明らかにいつもと違う異様な雰囲気に気づいた。すぐにその原因を探したのだけど見ただけではわからない。 「はよざいまーす……どうしたの? 何かあったの?」  わたしとポジションが近い1つ年下の菜緒(なお)ちゃんがいたので声をかけてみた。  トラブルだろうな、というのは空気でわかった。運営側か、キャストか。あるいは現場、上演予定の劇場関連か。とにかく、何か良からぬことが起きていることははっきりわかる。騒音の質と、団員たちの動作と、稽古場全体の活気といういか雰囲気が、明らかに普段と違っている。 「あ、朔ちゃん。おはよ。なんかね、田久保さん、降板したんだってよ」 「……え?」  田久保、と聞いて、心臓がドンと跳ねた。  田久保が、降板!?  事件? 事故? 病気? 怪我? それとも、不祥事?  昨日の今日で、そんなことになるなんて。まさか。 「さっきマネージャーが来て言ってた。なんか、事務所にタレ込みがあったんだって」  タレ込み、ということは、病気や怪我ではないということか。 「……な、に、やらかしたんだろうね……」 「まだ調査中だから外部に漏らすなよ、って言ってたけど、まぁ簡単に言えば、女優に手ェ出しまくってたらしいよ」  女優に手を、とか、それってまさか本当に昨日のアレみたいなこと!? 「それもさぁ、ただ関係持つだけじゃなくて、自分の立場利用して、役が欲しけりゃ俺と寝ろ、みたいな、よくあるアレよ」  菜緒ちゃんの話し方がそれほど混乱している感じではなくて、もしかしたら何か以前から噂とかを知っていたのかもしれない。 「まぁよくある事だけどさ。まさか自分の劇団で、とか、ショックだわぁ」  たとえ事前に何かを知っていたとしてもそれがこうして事実だと証明されて、ショックでないわけはない。わたしだってショックだ。 「主役級の客演にも片っ端から手ェ出してたって」 「え……」 「それってさぁあ、大きな役をもらえなかったのが実力のせいじゃなくてあいつの相手しなかったからかも、って思ったら、なんか超虚しいってゆうかさぁ……いや、もう、よかったんだけどさ結果的には。キモいことにならなくてよかったんだけど、やっぱり役欲しくて地道に真面目に頑張ってきたことがさぁ……なんの意味もなかったのかな、とか思うと、ねぇ……」  大きなため息が何度も聞こえる。 「引くわぁ……引くよねぇ、ドン引きだよねぇ」  菜緒ちゃんが心底呆れたように言った。  今朝の目覚めは最悪だった。  昨夜すごく嫌なことがあって、でもそれが新しい出会いで相殺されたはずだったのに、目覚めた瞬間に思い浮かんだのは田久保の顔で、気分がめちゃくちゃ落ちたのだ。  それには理由があって、あんなやり取りをした後にまた普段通りに役者と演出家としてうまくやっていけるのか自信がなくて、いっそもう劇団をやめてしまおうか、とまで思っていたから。寝る直前までそんなことを悶々と考えていたせいで、起きた時もそれがべっとりと脳内に蔓延(はびこ)っていたのだと思う。  どうせ思うように芝居ができていない。自信もどんどんなくなってきている。そんなところに田久保とのあのやり取りがあって、これはもしかして潮時というやつなのかも、と思っていた。だから今日、稽古場に来るのが嫌だった。足が重たくてどうしようもなかった。  受けた仕事を途中で投げ出すことはできないけど、これが終わったら本当に劇団をやめようかと考えた。劇団どころか、もう役者も無理かも、ということも少し考えた。 「舞台、どうなっちゃうのかな」  思わず出たのは、本音。でも、田久保がいなくなっていた、という事実には心底ホッとして、あいつがいないのならとりあえずこの芝居の間はまた全力で頑張れるかも、と思った。 「それはもうここまで進んじゃってるから、高野さんが主演も続けながら演出も同時にやるって言ってた。新しい人に入ってもらう時間ないからって」 「そっか……」  良かった。公演そのものが飛ばなくて。  まだ、わたしがいてもいい場所が残されていた。まだ、大丈夫。  それからの稽古は、その場にいる全員が違和感を持っているように見えたけど、誰一人としてその話題は蒸し返さず、新しく演出も担った主演の高野さんをサポートするみたいにいつも以上に結束しているのがわかった。  わたしは相変わらず不倫する気持ちが掴めないままだったけど、田久保の強引で乱暴な演出と違って高野さんの指導は丁寧で繊細だったので、じっくりと自分と向き合うことができてすごくやりやすかった。及第点にはまだまだ及ばないながらも、着実に何かを掴んで行けそうな予感があった。  舞台が一度崩れかけたことにみんな危機感を持ちつつ、それでもこの芝居を最後まで作り上げたいというプロ根性をそれぞれが持ち寄って頑張っていて、それは言われなくても伝わってきた。演出家降板という非常事態に陥ったなんて嘘だったみたいに、現場は落ち着きを取り戻していった。  そんな中で、主役の客演女優を含め数名だけがソワソワと落ち着きがなく、稽古が休憩に入るとそっと席を外し雑談などを避ける、という態度に出て、それはメンツ的にもしかしたらみんな田久保の毒牙にかかった人たちなのかな、と予想はついた。  自分がそのメンツに含まれなくて本当によかった。本当に危なかった。  改めて、源太郎さんにお礼を言いたい。もう一度会って、おかげで助かりました、と伝えたい。  いつかまた、どこかで会えたらいいのに。
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