scene 5 映画撮影1日目・カフェ(午前)

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scene 5 映画撮影1日目・カフェ(午前)

 佐久間さんから紹介してもらった映画の現場に参加することになった。  舞台のスケジュールとの兼ね合いで、ちょうど空いた2日間で済ませられる撮影だったので、出演させてもらうことにした。  都心にある小さなカフェを貸し切っての撮影。  インディーズ出身の新鋭監督の作品で、恵まれない境遇で育った男性が予期せぬ事件に巻き込まれて刑務所に送られ、そこから出所してきてからの再起の様子を描く人間ドラマ。  主人公の恋人だったヒロインの妹、という役を、わたしが引き受けた。  出演シーンはほんの2シーン程度の役。セリフも、2、3行のものが5ヶ所くらいに出てくる程度。時間にしたら、どちらも3、4分くらいのシーンだと思う。  大役でもモブキャラでもない、中間の役。いなくてもいい役ではないけど、わたしでなくてもいい役。  わたしにちょうどいい役。  朝晩はまだだいぶ冷え込むけど、少しずつ春の兆しが見え隠れしてきている。  桜の木にも小さな蕾の素みたいな粒が付いていて、気持ちが自然と軽くなった。  ロケ日和。足取りも軽い。  映画の現場は楽しい。その場、その時だけで完結する舞台とは違って、芝居の切り貼りを繋げて1本のフィルムにする。だから演じるわたしたちは、自分がやっている芝居がどういう最終形にされるのかを知らないで芝居をする。  撮影は、現場や演者の使い勝手にベストな流れで撮るので、必ずしも時系列に順じた流れになるとは限らない。事後のシーンを先に撮ってから、その後にそうなる前のシーンを撮影しなければいけないことも多々ある。  舞台では、感情の成り立ちが起こった出来事由来になるように芝居を構築できるけど、映画やドラマでは順撮りができないので、その瞬間だけの感情を生み出す芝居を求められる。  何の出来事もない真っ白な設定から、はいスタート!で突然、悲しくて切なくて泣き叫ぶ演技をしてください、と言われることもある。  正直、難しい。でもわたしは幼少期の経験があったので、そういう構築の方法は嫌いではなかった。NGもほとんど出さなかったし、完成した作品を見ても自分の芝居が浮いていると思ったこともなかった。  今回の監督は、新鋭の、ということは若めの監督だろうし、名前は聞いたことない人だったけどすごく楽しみだった。  舞台の方はみんな順調で、田久保の抜けた穴なんて最初からなかったみたいな団結っぷりに、メンバーたちはひとまずホッとしていた。実際、出番の少ないわたしも通し稽古をたまに見学するけど、主演チームの芝居もかなりまとまってきていて、観ていて不安なところはほとんどなかった。  そんなこともあって、別の現場に行くことにも不安はない。  わたしの不倫芝居だけはまだ色々と思うところはあったけど、そういうことも別現場でいろんなことを吸収してくればまた違う見方ができたりするのかも、という期待もした。  片側1車線ずつだけどそれなりに交通量の多い都道に面したカフェ。  フランチャイズではなく個人経営なのか、名前は他に見たことがない。テラス席があって店内が見渡せるけど、席数はテーブルが10もなくて、カウンターも5席程度の、割とこぢんまりしたお店だ。  映画やドラマなどは、大きな役の人は本番とは別にリハーサルの場が設けられていたりして、たいていは本番前にしっかりと芝居の打ち合わせや確認が済まされている。でも今回のわたしのような出番もセリフも少ない役だと、いきなり本番当日に現場で初めましての場合も多い。  今日は佐久間さんも他のマネージャーも別に仕事が入っていて、わたしは単身で現場入りした。  カフェの横にある砂利敷きの空き地に、ロケバスが停まっている。おそらくキャスト用のマイクロバスと、機材車ワゴン、スタッフ移動車、全部で3台。それなりの大所帯だ。  事前にもらっていた香盤表によると、わたしが出るシーンから撮り始めるので、現場はまだ準備中だった。店内に照明器具を立てて、小道具を置いたり動かしたり、巨大な音声マイクを組み立てたり、各スタッフが各々の仕事をテキパキとこなしているのが見えた。  わたしが最初にやること。マネージャーがいないので、全部自分でやらなければ。  スタッフ車に行ってみるとドアが開放されていて、中に数人がいた。大事な打ち合わせをしている様子はなかったので、こちらから声をかけた。 「おはようございます。美桜(みお)役の辻朔弥です。よろしくお願いします」  声をかけるとその場にいたスタッフ全員が一斉にこちらを見た。さすがに緊張する。 「おはようございまーす。よろしくお願いします」  最初に挨拶を返してくれた若い男性が、一旦ワゴン車から降りた。それから、わたしを車に乗せてから、車内にいる顔ぶれを紹介してくれた。 「こちらが監督の綿貫千鶴さんです」 「初めまして。よろしくお願いします」  差し出された手を受けて、握手をした。わたしよりはたぶん少し年上の女性。 「佐久間さんイチオシの役者さんなので、お会いできるの楽しみにしてました!」 「ありがとうございます。嬉しいです」  それから、助監督と監督補佐を2名紹介してもらって、やっと現場に入ることを許された気がした。 「えっと、じゃあとりあえず先に着替えますか、あれ、メイクが先かな」  わたしの演じる美桜は、刑務所に入った恋人を待ち続けた姉に、どうして前科者になった男とまだ一緒にいたいのか、と問い詰める役だ。そのために姉をこのカフェに呼び出した、という設定。そこでの数分の会話のシーンを撮ることになっている。 「隣のバスの中に衣装さんとメイクさんいると思うので、そっちに回ってください」 「わかりました」  言われた通りにバスまで行くと、ドアは開いていたけど、入口を塞ぐように取り付けられたカーテンで中の様子は見えなくなっていた。  バスのドアのプラスチックの窓を軽くノックして、声をかけてみる。 「おはようございます。美桜役の辻朔弥です」  少しして、カーテンの隙間から大きな手がヌッと出てきて、除けられた布の隙間から男性が顔を出した。 「おはようございます。美桜ね。じゃあ中へどうぞ」 「はい」  言われた通りに乗り口のステップを上がると、バスの中は後部が椅子を取り払ってあって、更衣室とメイクデスクが設置してあった。こういうロケバスは初めて見た。 「また会えたね」  バスの内装に気を取られていて、誰が誰に何を言ったのかがすぐには理解できなかった。  そこにいたのは、わたしの他には、カーテンを開けてくれた男性と、奥にもう一人、スラッとした長身の若い女性。  声を発したのは男性で、その人は後部ではなく、乗り込んだばかりのわたしの方を向いて話している。もしかしてわたしの背後の誰かに言ってるのかな、と思って振り向いてみたら、そこには運転席との仕切り板があって、運転席には誰もいなかった。 「あれ、わかんない?」  もしかしてやっぱり、わたしに話しかけてきている?  よく顔を見てみたけど、記憶にない。申し訳ないけど、割とどこにでもいるようなあまり印象の強くない普通の男性。身長は高いけど、ガタイは普通。やっぱりどう見てもわたしの記憶にはその風貌はインプットされていない。 「うーん、そっか。じゃあこれならわかるかな」  そう言ってその男性はゆっくり近づいてきて、すぐ目の前で口を開いた。 「まぁた会っちゃったわねぇ、ビアンちゃん」  記憶の中の時間の感覚と、場所と、シチュエーションと、全ての情報が一致するまで、タイムラグがだいぶあって。でも、その声と口調は絶対に他とは間違えるはずはなくて。 「え、あの、もしかして、源太郎さん……?」 「あははーすげぇ。名前まで覚えててくれたんだ!」  やっぱり!  なんで、なんで、どうして!?  また会いたいと思っていた。いつかまたきっと、どこかで会えたら嬉しいと思っていた。でもそれが叶うとしても、きっとそれは夜の街とかマイノリティが集まるお店とかそういうところだと思っていて、その時はドラァグクイーンのお姉様の姿だと思っていたから、これは本当に想定外というか。 「なんで、ですか、どうしてここに?」  びっくりしすぎて言葉が引っかかる。うまく喋れない。 「どうしてって、仕事だから」 「仕事?」 「そう。僕、衣装さんなの」  くるっと半分身体を(ひね)って見せてくれたのは、美容師みたいな革製のヒップバッグ。ガバッと開いた状態のバッグの中には、ハサミやメジャーや針山、それに大量に刺してあるまち針など、本当に衣装さんの必須アイテムがびっちりと入っていた。 「え、と……びっくりしたぁ……すごい偶然ですね」 「そうだねー。世の中、狭いよね」  こんな現場であんな出会いをした人とまた再会できるなんて、驚きと、嬉しさと、なんだかもうよくわからない感情で涙が出そうだった。 「大丈夫? あんまり興奮するとこれからの仕事に支障出るよ」 「はい、すみません。大丈夫です」 「じゃあ、衣装出すね」  本当にそうだ。しっかりしなくては。今日は仕事で来たのだから。 「美桜ちゃんはねぇ、23歳のOLさんで、仕事の合間だから、スーツね。はい、この辺」 「はい」  靴を脱いで上がる半畳ほどの更衣スペースに入ると、スーツ一式がハンガーにかけてぶら下げてあった。 「カットソーが被りだからメイク前に着替えて欲しいんだけど、ジャケットはまだ着なくていいからね」 「はい」 「じゃあ閉めるねー」  カーテンで囲まれた更衣スペースで、出された衣装に着替えながら、こんな偶然本当にあるんだ、とそればかり気になってしまう。ふわふわと浮ついた気持ちに気づいて、仕事しに来たのだと何度も自分に言い聞かせた。  被りのカットソーが背面にジッパーがあって、自分ではうまく上げられない。 「すみません、背中のジッパーが届かないんですけど」 「あ、そっか。ちょっと開けるねー」 「はい、お願いします」  役者をやっていれば、着替えを誰かに見られることなんてしょっちゅうで、それが男性だったとしても相手に下心がなければ全然気にならない。特に舞台に慣れてしまうと、舞台裏でみんなの見ている前で着替えることだってよくあるし、特に気にならないのだけど。 「あ、ごめんね、僕、ガチゲイだから女子には一切食指動かないから、ね」 「だいじょぶです! そんな! 全然!」  律儀にセクシュアリティまで教えてくれて、真面目な人なんだな、と思う。そんなことまで言わなくても、真剣に仕事をしている衣装さんに対して不信感なんて抱かないのに。本当に真面目。 「サイズ、大丈夫だねー。うん、いい感じ」  ジッパーを上げてから、またカーテンを閉めてくれた。  スカートも履き替えて、鏡に映った姿は本当にOLみたいで、会社勤めの経験がない私としては新鮮で心が躍る。  カーテンを開けると、待っていた源太郎さんの全身チェックが入った。 「スカートも、サイズ大丈夫だね。うん。おっけー。靴はこのパンプスね。まだいいよ、履き替えなくて」 「はい」 「あ、スニーカーで来たんだね、じゃあこのスリッパ履いといて」 「ありがとうございます」  着替えが終わったら次はメイク。メイクは、バスの後部のデスク、で。 「じゃあそのままメイクしちゃって」 「……はい」  後部の方まで行ってから、スペースの割に座る椅子がひとつしかないことに気づいた。  そして、その椅子の近くに立っている女性を見て、驚いた。  ものすごく綺麗な人。そして、すごく背が高い。モデルさん、かな。  今日一緒に撮影する相手役の人は有名な女優さんで、この人とは違う。もしかして、カフェの店員役の人とか、かな。 「あ、あの、お先に、どうぞ」  わたしの方が後から来たのだし、と思って、座席を指差して順番を譲ったのだけど。 「あはははははは! ちょっと! 美桜ー!!」  バスの中いっぱいに源太郎さんの笑い声が響き渡った。何が起きたのかわからなくて、思わずフリーズする。  何? 何が起きたの!? 「何それもぉー、天然? 天然かよ!?」  まだ笑い続けている。そんなおかしなことをわたし言ってしまった? 「あのね、これはキャストじゃなくて、メイクさん」 「……へ?」  すんなり理解できないことを言われて、把握に苦労する。  メイクさん? 誰が? この人が? 本当に?  まず、背がものすごく高くてスタイルが良い。顔が綺麗。長い髪のまとめ方もオシャレでかっこいい。かなり細いのに胸はしっかりあって、ウエストの位置が高くて、腰も細い。足が長い。細いし、めちゃくちゃ長い。これで、メイクさん!?  どこからどう見てもモデルなのに。 「真雪(まゆき)サン、元モデルだもんねぇ」 「余計なこと言うな」  まゆきと呼ばれた女性が、表情を変えずに淡々と言葉を吐いた。  なんというか、愛想がなさすぎやしないか? 「ま、ゆき? 下の名前ですか?」 「そう。真実の雪で真雪。この冷たい感じが雪っぽいでしょーそのまんま!」  答える気が全くなさそうな真雪さんに代わって、源太郎さんが教えてくれた。 「うるさい」  元モデル、と聞いて、思い切り納得した。  メイクさんには華やかな雰囲気の人は割といるけど、ここまでの人はなかなかいない。 「ほら、早くやっちゃって。時間なくなるよ」  源太郎さんに促されて、椅子に座る。  正面の鏡にはわたしの顔が映っているのだけど、そのすぐ上に真雪さんが映っていて、そちらが気になって仕方ない。こんな綺麗な人に顔をまじまじと見られてメイクもされるなんて、なんだか色々と心穏やかでいられない。  わたしみたいな普通の凡人がキャストで、こんな華やかで綺麗な人がカメラの前には立たないなんて。裏方は地味でなきゃいけない、なんていう偏見は持っていないつもりだけど、それでもさすがにこれは何かが間違っている気がする。 「お肌の強さは、どんな感じですか。肌質、敏感肌とか」 「あ、の……フツー、です……」 「わかりました」  なんだか、嫌だ。やっぱり。  見られたくない。 「アレルギーとかはありますか」 「いえ、特には」 「わかりました」  あまり見ないでほしい。なんて、この関係でそんなこと無理に決まっているのに。  でも本当に嫌だ。  心臓が、痛い。 「……大丈夫ですか」 「え。あ、はい、大丈夫です。ちょっと、緊張して」 「わかりました」  なんなの、このやり取り。  この人、無愛想なんてもんじゃない。会話、おかしくないか?  それにしても本当に綺麗。流行りの美人とかアイドル並みに可愛いとか、そういうのではない。ただ、何とも言えない端正で整った顔立ちで、本当に何とも言えない不思議な色気がある。  と思ったところで、とんでもないことに気づいた。  この人、ノーメイクだ。  嘘でしょ、と思う。どうして。  眉だけは整えられているけど、色を付けるアイテムはたぶん一切使っていない。  どうしてこんな人が存在するんだろう。  そう思ったら、今までの嫌だと思う気持ちがなくなった。  これは、何をしても敵わないやつだ。そもそもが比べる対象ではない。世界が違う。グレードが、クラスが違う。生まれ持ったものが違いすぎる。  そうだ。これは何か、人ではない、ギリシャ彫刻とかそういう存在の何か。ファンタジックでフィクションな、何か。そんなふうに思えば嫉妬心も湧かない。そうそう、この人は人間じゃない。 「真雪さん、すごくお綺麗ですね」  思わず口にしてしまった言葉に、真雪さんは一瞬手を止めた。でもすぐにまたメイクを再開して、今までで一番無愛想な口調で言葉を吐き出す。 「いえ、そんなことは」  ここまでくるとある意味ですごいな、と思う。裏方とはいえ芸能界で仕事をしていて、こんなに無愛想でよくやっていけてるな、と感心するレベル。 「目、閉じててもらえますか」 「……はい」  いや、もう本当にいろんな意味で敵わない。完敗だ。 「あははー、この子ねぇ、ぶっ壊れてんの。コミュ障だからほっといてあげて」 「…………はい」  源太郎さんに言われた通り、それからは余計なことは言わないようにした。黙って、されるがままにメイクを施してもらった。  普通の一般人の役なので、メイクは割と普通。ドーランを使うのでベースが強めなこと以外は、普段するのとあまり変わらない。スポンジやパフ、ブラシを使ってどんどんメイクを施されて行って、最後の方でアイシャドウのところだけ真雪さんの指で直接肌に触れられた。  なんとなく、緊張した。  どうしてかなんて全くわからない。でも、なんだかドキドキした。  コミュ障。本当かな。  わたしには関係ないし、まあいいか。  それから、メイクと着替えを全て終えたわたしは、カフェ店内に移動して撮影開始を待った。  姉役の女優さんが後からやってきて、挨拶をして、通し稽古のドライから順にこなしてゆく。段取りの確認ができたら、次は機材も全部入れてのカメラリハーサル、そこでキャストとスタッフ全員で何度も細かいところまで確認をしたら、最後に本番さながらのランスルーで最終確認。  順調だった。セリフも完璧に入っていたし、段取りも頭に叩き込んである。相手役の女優さんもすごく上手でやりやすかった。  売れっ子の女優さんなので、やっぱりすごく美人。商業映画のヒロインに選ばれる人だから当然といえば当然だ。演劇畑で脇役ばかりやっているわたしなんて同じ土俵にすら立てないのは、最初からわかっていた。  だから、彼女がどんなに美しくて存在感があっても卑屈に思わないようにしようと決めてきた。  実際に会ったらやっぱり想像以上に綺麗で、この人の妹役がわたしなんかで本当に大丈夫なの?と思ってしまいそうだったけど、でも本当は、ほんの少し、ほんのちょっとだけ、今の自分にはいつもより自信があった。  さっき、真雪さんにしてもらったメイクが完成して目を開けて鏡で見た時、一瞬、何かモニターが目の前に置かれていたのかと思った。  それくらい、鏡に映る自分の顔がいつもの自分ではないように思えて、ものすごく驚いた。そしてそれは、相手役の女優さんに会ってみて、どうしてだったのかがわかった。  わたしのメイクは、この女優さんの顔立ちに似るように施されていたのだ。  パッと見の雰囲気がすごく似ている。元の顔は作りも系統も違うので、これはメイクの賜物。真雪さんは、全く違う顔立ちのわたしたちを姉妹に見えるようにメイクしてくれたのだ。しかも、綺麗なこの人をわたしに寄せるのではなく、平凡なわたしの顔をこの綺麗な人に寄せるように。でも決してわたしの元の顔が消えてしまっているわけではない。そこがすごい。ちゃんとわたしの顔なのに、こんな美人な姉の妹になれていた。  わたしみたいなどうってことない普通の顔がこんな綺麗な人の妹に見えるようになるなんて、ごく普通の日常メイクの範疇なのに、本当に凄すぎる。  だからわたしは、来る前に心に決めていたことを考えなくて済んでいる。何の迷いもなく芝居に集中できている。  こんなに心地よく役に向き合えた現場は初めてかも知れない。きっといろんな条件が揃っていたのだろうけど、本当に、メイクひとつでこんなに気持ちが変わるなんてはじめて知った。メイクというものを少し(あなど)っていたかも知れない。  もっと勉強したい。色々、知りたいことが山ほどある。たくさんある。   「今日のシーンはこれで撮影終了ですー、お疲れ様でしたー! 明日もここで撮影ですが、季節が変わるのでこれから内装やグリーンを少し変えます。スタッフさんよろしくお願いしまーす! キャストさんはお疲れ様でしたー!」  助監督さんの号令で、片付けや後始末が始まった。  わたしはロケバスへ着替えに戻ったのだけど、姉役の女優さんは次の現場が迫っているとかでそのまま移動して行った。  源太郎さんにカットソーのジッパーを下げてもらってから、更衣室で着替えを済ませる。  更衣室から出ると、真雪さんが遠くから声をかけてきた。 「メイク落として帰りますか」  いや、わかるけど。仕事だから、必要最低限のことだけ喋ればいいんだけど。わかるけど。 「あ、いいです、このまま帰ります」 「わかりました」  いや、本当に、まあいいけど。  荷物をまとめて帰り支度をしていたら、源太郎さんと真雪さんの会話が聞こえてきた。 「真雪、明日の夜、トモちゃんのお店で撮影するって」 「あー……うん」 「あんたも強制参加ね」  源太郎さんたちの、プライベートの話。わたしは関係ない話。 「えー……いいよ、私は」 「ダメだろ、こないだの続きなんだから」 「……はぁ。わかったよ」  ふたりとも、やっぱり仕事モードの時とは少し話し方が変わって、なんとなく聞いていてはいけないような気がするのだけど、つい、気になってしまう。 「明日、ここ終わったら僕一度倉庫戻らないといけないから、現地集合でいい?」 「え、なんで戻るの?」 「だって衣装もウィッグも靴も全部倉庫だし」 「…………そっか」 「ここに持ってくるわけいかないだろ、すごい量なんだから」  衣装、ウィッグ、靴、すごい量……もしかして、ドラァグの話だろうか。 「車で来ればいいじゃん」 「酒飲むのわかってて車で来れるかよ」 「……わかったよ。じゃあ現地集合ね」  関係ないけど、どうしても気になるので訊いてみようか。答えてくれるかな。 「あの、源太郎さん、明日またドラァグクイーンの格好するんですか?」 「ん? そうだけど。ちょっとね、ウェブマガジンの取材受けてるところで」  よかった。嫌がられなかった。それどころか、ちゃんと教えてくれた。 「そうなんですね。あ、じゃあ、真雪さんがそのメイク担当されてるんですね」 「……ん? は? え?」  源太郎さんがいきなり変な顔をして、意味がわからない、という感じで声を上げた。 「え?」  わたしも、なにがおかしいのか自分でわからなくて、同じように声を上げた。 「……真雪。あんた、覚えてもらっててないみたいよ」  真雪さんを、覚えていない? どういう意味だろう。誰が、真雪さんを? 「……別にいいけど」  真雪さんは心底興味なさそうな雰囲気で、それだけ言った。 「え? え?」  やっぱりわたしがなにかを忘れている? 「ちょっと真雪、僕の名前呼んでみ?」 「はぁ? なんでそんなこと」 「いいから」 「……はぁ、もう。めんどくさ……源太郎」  この声。この言い方。どこかで。  源太郎さんより細めの、低くて綺麗な……  あ。思い出した。  そうか。あの時の。  あの夜、田久保の魔の手からわたしを救い出してくれたドラァグクイーンのお姉様がた、片方は源太郎さんだとすぐにわかった。  もう片方の人は、真雪さんだったのか。 「すみません、思い出しました。っていうか、今気づきました」  まさか女性だったなんて。 「別にいいです」  ドラァグクイーンを女性がやっていいなんて知らなかった。 「あの、女性だとは思わなくて」 「今は女性でも子どもでもやってる人いるよ。日本ではまだかなり少ないけどね」  そうだったのか。全く知らなかった。  すごい。そんなことになっているなんて。 「あの……女性で、しかも小柄な人でもやってもよかったりします?」  言ってから、どういうつもりだ自分、と驚く。わたし、なにを知りたがっているの。 「やっちゃダメな人なんていないよ。まぁ、一部では女性がドラァグやるの嫌がる人もいるにはいるけど、今はそういう時代じゃないしねぇ」 「そう、なんだ……」  源太郎さんの答えに密かに歓喜している自分がいる。  あの時、彼らに初めて会った時、わたしは確かに自分もやってみたいと思った。でも、女だし小柄だし無理だ、とすぐに諦めた。それが、もしかしたら覆るかもしれない。 「……やってみたい?」 「はい」  しまった。即答してしまったけど、図々しく思われていないだろうか。 「じゃあ今度、一緒にイベント行ってみる?」 「はい。行きたいです!」  また、即答。なにかおかしなスイッチ入ったような気がする。 「じゃあ、衣装何か見繕(みつくろ)っておくから」  さすがにここまでくると図々しいにもほどがあるだろ、と思うのだけど、源太郎さんは特に嫌そうな顔も迷惑そうな顔もしていない。 「え、あの、そこまでお願いしちゃっても大丈夫ですか」  一応、常識的に建前として遠慮してみたけど、本音はやっぱり嬉しい。 「うん、どうせ僕たちの衣装全部僕が作ってるし」  あの夜に見たふたりの装いを思い出す。  どう見てもお店で普通に売っているレベルの衣装に見えた。高そうだな、と感じた記憶があるから。それを源太郎さんが作ったというのか。 「え、マジすか……すご……」  衣装さん、ということは、ファッションとか服飾系の勉強をした人なのかもしれない。それなら、作る方もできるのか。それにしてもすごい。 「真雪、後で衣装の候補送るから、朔弥ちゃんのメイク何か考えといてよ」 「……それも強制?」 「当たり前だろ。僕たちのチームは衣装は僕でメイクはあんたしかいないんだから」  どうしよう。  源太郎さんに衣装を見立ててもらうのはありがたいけど、真雪さんにメイクを、お願いしてもいいのかな。というか、ちょっと、怖いのだけど。 「わかったよ」  ああ。真雪さんが引き受けてしまった。これ、決定事項?  口を挟むタイミングを逃しまくっているうちに、どんどん話が進んでいく。 「じゃあ、ちょっとドラァグバージンちゃんでも行けるイベント探しておくから待ってて。あ、そうだ。連絡先、ライン交換しよ」 「あ、はい。ありがとうございます!」  ああもう、すごい勢いで逆らえない。  逆らえない?  逆らえるのなら逆らう?  いや、きっと、逆らわない。だってわたし、源太郎さんと友達になりたいと思っていた。あの夜、そう願っていた。 「えっと、QRコード、はいこれ」 「はい」 「朔弥ちゃん……朔弥ちゃんって、なんか噛みそうなの僕だけ? 朔ちゃん、でもいい?」 「大丈夫です。劇団でもそう呼ばれてるんで」  すごい。願いが叶った。仕事だけの繋がりではなくなった。  嬉しい! 「じゃあ朔ちゃんね。あ、僕も源太郎は長いから源だけでいいよ」 「え、それは、さすがに……」 「別にいいけど。じゃあ源ちゃんとかでも」 「あ、の。はい、じゃあ、いずれ、そのうち……」  フレンドリーな人だな、と思う。誰にでもこうなのかな。  源太郎さんと真雪さんがどうしてもセットになってインプットされているので、これほど正反対みたいなキャラでよく仲良くできているものだな、と感心する。 「……あんた本当に面白いね」  突然そんなことを言われて、なんだか妙な感じだ。 「え、そう? ですか?」 「うーん、そうだね、面白いね」   今まで誰からも言われたことがない。面白い? わたしが? わたしのどこが?  いや、やめよう。深く追求するのは怖い。ちゃんと考えてみたら実は何でもなかった、と気付かれるのが嫌だ。 「よし、じゃあまた明日だね。お疲れ様でした」 「はい。お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」 「お疲れ様でした」  嵐のような1日だった。源太郎さんたちと初めて出会ったあの田久保事件の日もそうだったけど、この人たちと関わると自分の中の波長が乱れて、いろいろと混乱する。今日もそんな日になった。  割と印象深い撮影現場だったのに、それよりも源太郎さんたちと再開できたことで頭がいっぱいで、明日もまだ撮影があるのに、と思って慌てて意識を仕事モードに戻した。  もう1日、頑張らなくては。
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