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「ケネスさま、先ほどはかばっていただきありがとうございます」
「礼などいらない。むしろ、謝らなくてはならないのは僕の方だ。ジェシカ、君が大変な状況にあるとわかっていながら、今まで助けることができずに済まなかった」
突然抱き締められて、ジェシカは目を瞬かせた。一体、どうしたというのか。
「ケネスさま?」
「僕は、君が理不尽な環境にあると知っていた。だが、所詮は下級貴族だ。侯爵家の意向には逆らえない。君を助けることすらできず、仕事だけを見ていた結果、婚約者にも逃げられた愚か者だ」
「いいえ、そんなことは」
「あげく、君とは一線を引いた形でしか接することができなかった。これでは、離婚してほしいと言われるのも当然だろう。ただ、わかってほしい。君を厭うていたわけではない。出だしがあの最悪な結婚式だ。これ以上君に嫌われたくなくて、手をこまねいていた」
自嘲気味に笑うケネスの頬に、ジェシカはそっと手を当てた。
「ケネスさまは、元の婚約者さまのことを想っていらっしゃるとばかり……」
「彼女とはそれこそ、政略的な婚約だったよ。僕が好きなのは、昔から君だけだ。君の家がおかしいと、わかっている人間だってちゃんといる。あんな状況でも、自棄にならず前を向いている君はとても美しかった」
ケネスはジェシカのことをわかってくれていた。それだけではなく、自分のことを好ましいと思ってくれていたなんて。その事実が嬉しくて、彼女も本当のことを言うことにする。
「私が離婚を申し出たのは、あなたに愛されないまま隣にいるのが辛かったからです」
「それではまるで君が僕のことを」
「ええ、愛しています」
ジェシカの告白に、先程の彼女以上にケネスが挙動不審になる。離婚を申し出たときのケネスを思い出して、ジェシカは吹き出した。
「う、嘘だ。僕に好かれる要素なんて……」
「ケネスさまは、より安価でより口当たりの良い薬を作るために、日々努力されているではありませんか」
「……なぜ、それを?」
「誰も見守ってくれるひとがいない中で、あの熱冷ましの薬湯を飲むのは辛すぎて。代替品が手に入らないか、使用人に頼んだことがあるのです。そのとき、ケネスさまのお話を聞きました」
貴族の身でありながら、畑に出て薬草を摘む。効能があると聞けば、どんな僻地であろうと自ら出向く。薬を安価にしても儲けは少ない。それにも関わらず、製造から流通にいたるまで、必死で根回しをする姿にジェシカは恋に落ちたのだ。
理想に向かって今もなお行動するケネスは、ジェシカの憧れのまま。陞爵されるのも、この功績が認められたからこそ。
「それでもあのお薬、やっぱり飲みにくいですね。今後の改良に期待しますわ」
「あれでも、君が子どもの頃よりは飲みやすくなったんだ」
「まあ!」
ふたりは困ったように顔を見合わせる。あの味の悪さは、ケネスにとっても課題になっているらしい。
「元の婚約者さまには感謝しています。私の初恋の方を置いていってくださったのですから」
「……ああ、やっぱりあんな結婚式を挙げるのではなかった!」
大声に驚き身体を震わせたジェシカの首元に、ケネスがしがみつく。
「どうしようもない状況だったとはいえ、指輪くらい他のものを用意したかった。ずっと好きだったひとに、お下がりのドレスや指輪を渡したことが本当に恥ずかしい。いっそ死にたい」
「まあ指輪は修理したら、ぴったりに直りましたし」
「頼む、結婚式をやり直させてくれ。僕は誰かの身代わりではなく、君と幸せになりたいんだ」
ケネスの望みに、ジェシカはもちろんと微笑んだ。
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