転機

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 私は学園へ通いながら、毎日マナーとダンスの練習に明け暮れていた。  学園では事情を知るヒース様とシンシア様(それに、カナリア様)がいるので、これまでと何ら変わりなく過ごすことができている。  ちなみに、ルミエラとシンシア様はルミエールを通じて親交があるとヒース様には事前に伝えてあり、普段通りに仲良くしていてもまったく問題はないから、こちらはとっても気が楽だ。  ただ、ルミエラ()が『キク坊』に乗って通学することにヒース様が難色を示したり、ユーゼフ殿下やランドルフ様の接触に対し過剰ともいえる反応をされるので、少々困惑している。  女性であるルミエラを気遣ってのことだと思うが、あまりにもあからさまな態度だと、かえってバレてしまうのではないかと、こちらがヒヤヒヤしてしまう。 ◇  詰め込み強化合宿が始まってから、一週間が経過していた。  マナー講習はともかく、ダンスの進捗状況は芳しくない。  こんな異世界に転生するとわかっていたら、前世で死に物狂いで社交ダンスを習っておいたのに……と思ってしまうほどだ。 「それでは本日から、当日お召しになるドレスで練習をしていきます」  ダンス講師を務める品の良いおじいちゃん先生が、満面の笑みで私に告げた。  今までは楽なワンピース姿にローヒールを履いて練習をしていたが、今日はドレスの下に浅い息継ぎしかできないコルセットを装着させられ、高いヒールを履いている。  履き慣れない靴に普通に歩くだけでも四苦八苦しているのに、これでダンスなんて……貴族に生まれ変わらなくて良かったとしみじみ思ってしまった。  休憩時間になり私がソファーにもたれかかったままぐったりとしていると、ドアがノックされる。  従者っぽい正装姿のヒース様が、颯爽と部屋に入ってきた。 「先生、私も一度復習を兼ねて本番さながらに練習をしておきたいのですが、よろしいでしょうか?」 「それは結構ですな。ルミエラ嬢にも良い練習となりましょう」  急遽、飛び入り参加のヒース様とダンスをすることになった。  謹んでお断り申し上げたいが、にこやかな笑顔で恭しく手を差し出されてしまった以上、手を取らないわけにはいかない。 「初めてにしては、なかなか上手に踊れていると思うが」 「そうでしょうか? 間違えないようにと必死です」  なんせ、前世では盆踊りくらいしか経験がないのだ。  幼い頃から教養として(たしな)まれている貴族のお嬢様方と同列にはならない。 「そのドレス……」  私が一生懸命ステップを踏んでいると、ぽつりと声が降ってきた。見上げると、私を見つめるヒース様と目が合う。  制服時のシークレットシューズよりも踵が高い靴を履いているので、いつもよりも顔が近い気がする。 「……君に、よく似合っている」 「ありがとうございます。アストニア様こそお似合いですよ」  褒められたら、笑顔でお礼と少々の世辞返し……マナー通り、今日は上手く返せた。  貴族であるヒース様は幼い頃からの教育の賜物なのか、何かにつけて女性である(ルミエラ)を褒めてくださる。最初のうちはそれに慣れなくて引きつった笑みを浮かべていた私も、多少は余裕で返せるようになってきたと思う……多分。    私の返礼に顔を赤くし目を逸らすヒース様に、彼でも照れることがあるのだと少し意外な気分だった。  それにしても、さすが貴族のお坊ちゃんだけありヒース様はリードが素晴らしい。  私の体勢が多少崩れてもすぐにフォローしてくれるので、安心して踊ることができるのだ。 ◇  先生からもお褒めの言葉をいただき、今日の練習は終了した。  ヒース様がこのまま部屋までエスコートしてくださるそうなので、その言葉に甘える。実は足首が痛く、かなり限界がきているのだ。  アストニア家のお屋敷は天井が高いため階段も長く、踵の高い靴での昇降は非常に大変だが、まだ行きの降りる時は足首が元気だったので問題はなかった。  部屋に戻ったらこっそり治癒魔法を掛け治療しておかないと、間違いなく明日に響きそうな予感がする。  マナー講師からは、昇りの際はつま先だけでと教えられていた。  見えづらい足元をつい確認したくなるが、「視線は下げない!」「うつむかない!」と厳しく言われている。  ヒース様は私の手を取り一歩ずつゆっくりと歩調を合わせてくれるので、申し訳なく思いつつも慎重に昇り、階段のちょうど半分辺りまで到達したときだった。  突然ふくらはぎが()り力が入らなくなった。……と同時にステップを踏み外し、私の体は後ろへと倒れていく。 (あっ……落ちる)  まるでスローモーションのように周囲の景色が流れていく様を、ヒース様がこちらへ手を伸ばす姿を、私は冷静に見ていた。  手首を掴まれ一度落下が停止した……が、やはり重力には逆らえなかったようだ。  二人共に、そのまま階段下まで落ちた。  ド、ド、ドン!という大きな音はしたが、私に痛みは訪れない。目を開けると、ヒース様の顔が間近にあった。  どうやら彼は私を庇い、背中で受け身を取った姿勢のまま落ちたらしい。 「ケガは……ないか?」 「おかげさまで、わたくしは何ともありませんが、アストニア様は……」 「君が無事で、良かった……」  微笑んだヒース様はゆっくりと目を閉じると、そのまま動かなくなった。 「ヒース様!」  テレサさんたちが慌てて駆けつけてくる中、私はただひたすらに彼の名を呼び続けていた。
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