囚われの騎士

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囚われの騎士

 針のように細い月が浮かぶ、星のない夜だった。  風の音に混じり、町外れの荒れ野に荷車の音が響く。  車の端に結び付けられた松明は強風に曝され今にも消えんばかりだ。  荷車を引くのは擦り切れた服を着、疲れ果てた表情の農夫。  汗にまみれた重苦しい表情で先を見据え、ひたすら前に進んでゆく。  荷台には頭からすっぽりと白い布を被り身を隠した人間が、膝を立てて静かに座って居た。  どちらも口一つ聞かない。  やがて一行は枝を広げた巨大なブナの木の前に到着し、止まった。  その向こうには鬱蒼とした森が広がっている。  農夫はハアハアと激しく呼吸しながら、荷車の持ち手を地面に置いた。  その後ろで、荷台に乗っていた者がゆっくりと地面に降り立つ。  立ち上がると、細身だが長身であることが分かる。  じゃり、と長靴が地面を踏み締める音が立ち、その脚が躊躇することもなく森に向かって歩き始めた。 「ほ……本当に、よかったんですかい……お一人でこんな……」  荷車の持ち主が強張る表情で話しかけた瞬間、  グオオオオオ……  まるで地鳴りのような、人とも獣ともつかない声が、森の中のごく近い場所から空気を震わせた。 「……ひいっ……!」  農夫が恐れをなし、荷車を放って一目散に反対方向へ走り出す。  その後ろ姿があっという間に小さくなり、もと来た荒野を走り去る。 「……」  だが、残された人物の方は動揺するでもなく、声の方向を探るように前を見つめていた。  その足が再び一歩づつ、森へと歩みを進め始める。 『……百姓……オンナ……女ヲ……モッテキタのか……』  ハァー、ハァーとせわしない息遣いが近づいてくる。 『オンナガホシイ……ンナのニク……喰ウう……』  ポタッ、ポタッと液体のこぼれる音。  ――やがてそれは、荷車の上で赤々と燃え続ける松明の灯の元に姿を現した。  影は屈強な人のように見える。  しかし、その容貌は人間というには余りにも大きく、そして醜悪だ。  頭の左右に角が、顔には飴色の濡れた毛が生え、鼻の骨格は突き出て、目は丸く横に付き、爛々としている。  左右に大きく裂けた唇からダラダラと唾液をこぼしているその顔貌は、怒れる牡牛そのままだ。  奇妙なのは、その牡牛が二本の脚で歩き、あまつさえ、立派な鎖帷子(くさりかたびら)と、鉄の甲冑を身に着けていることである。  異常な程筋骨が発達した腕がいかにも窮屈そうにその両側から飛び出し、筋の浮いた手の先には黒く鋭い爪が生えている。 『……ウガァァアアアッ』  3メートル程もある牛頭の怪物が雄たけびを上げ、佇む白いローブの人物に巨大な両腕で掴みかかる。 「――エルカーズの哀れな兵士よ」  つぶやくような優しげな声と共に、生贄として運ばれて来た人物は被っていた布を掴んだ。  大きな白い麻布がバサリと取りはらわれ、異形の男の頭に被さる。  銀白色の甲冑を身に着けた、若い端正な青年の顔が露わになった。 『オンナじゃ……ナイ……オンナ……ダマサレタ……喰ウ……!!』  怪物は怒り狂いながら布を引き裂き、天を仰ぎながらドスドスと地面を踏み鳴らした。 「動くな。今、俺がお前の苦しみを絶ってやる」  その声はあくまでも優しい響きを伴っている。  青年は後ろ首で清廉に刈った黒髪を風に靡かせ、腰に佩いた大剣をスラリと鞘から引き抜いた。  化け物の腕がその左側から音を立てて繰り出されるが、柳のようにスイと避ける。  そのまま勢い余って地面に頭から倒れた牛男の背中を長靴で踏み抑えると、青年は相手の甲冑の隙間にねじ込むように、その後ろ首に大剣を突き立てた。 『ギャアアアアアーッ』  断末魔が森に響き、眠っていたカラス達が驚いてギャアギャアと声をあげながら一斉に飛び立つ。  怪物の背中から足をどけると、青年は一度大きく息を吸い、化け物の身から剣を引き抜いた。  白皙の頬にどす黒い血が飛び、こびりつく。 「人間の血……」  ひざまずき、まるで友人の死を悼むように、彼はそっと怪物の背中に手をあてた。  不思議なことにその死体は先ほどよりも一回り小さくなっている。  そっと助け起こすように骸を上向かせると、醜悪な怪物の顔は消え失せ、どこか頼りない容貌の、とび色の髪の青年が眠るように目を閉じて死んでいた。 「……神の御許に帰り、安らかに眠れ」  指を組んで目を閉じ、祈りを捧げる。  カラス達がその周囲を飛び回り、しばらく騒ぎは収まらなかった。  翌日太陽が高くなった頃、森にほど近いヴォーダンの村に青年は姿を現した。  井戸で水を汲み、鎧と剣から血を洗い落としている青年の姿を見て、村人達は驚きと畏怖の眼差しで彼を取り囲んだ。 「だ、旦那! 無事だったんですかい。あんな化け物の所へ行ったのに」  駆け寄って一番に話しかけたのは、昨夜一人で逃げ出したこの村の農夫だ。 「この通りだ。昨日は酷いじゃないか、俺を一人にして」  青年は屈託なく微笑み、同時に村人が彼を見る目も和らいだ。  ――どうやら、「憑りつかれて」帰ってきた訳でもなさそうだ――、と。 「さぁ、約束通り、森の怪物を退治した。宿を貸してもらえないか」  農夫が何度も頷く。 「お安い御用で。兄が宿屋をやっておりますので、そこへご案内します。――それにしても騎士殿、どうかお名前を」  その言葉に、青年がどこか寂し気に微笑んだ。 「騎士ではない。今はただの傭兵だ……。俺の名はレオン。レオン・アーベル」 「アーベル様。どうぞこちらへ」  農夫と青年は、連れ立って井戸を後にした。  日が暮れかかると、宿屋の一階の酒場に大勢の村人が集まり、酒盛りを開き始めた。  ヴォーダンの村を苦しめていた森の人食い牛が死んだ――という噂はすでに村中に広まっていた。  エールの入った木製のジョッキが酌み交わされ、リュートの奏でる陽気な音楽が熱っぽい空気を満たす。  暖炉の火に一番近い場所では、村人達がレオンを囲み、口々に彼を讃えていた。 「――騎士様さえいて下されば、エルカーズからやってくる悪魔など怖くありませんや」  すっかり酔っぱらった農夫がエールを片手に、薄い亜麻布のシャツとズボンに着替えたレオンの肩を気安げに抱く。  対角の椅子に座っていた村の長老が、噛みしめるように話し始めた。 「本当に、ずっと、できるだけ長く……この村に居て頂きたいものです。この村はエルカーズに一番近い。我々も、いつかこの村を捨てねばならんかと思っていたところだ……」 「隣国エルカーズは、王が悪魔に取りつかれて久しいからな……」  レオンが頷くと、長老は首を振って項垂れた。 「憑りつかれたというか……、あれはもう、王が悪魔そのものに……とって代わられたのです」 「あの牛頭の男も、もとは人間の姿だったのだ……」  痛ましい場面を思い出すように眉根を寄せ、レオンは形のいい唇を開いた。 「あの者を神の御許に送っても、また別の者が現れる。元を絶たない限り」  沈んだ口調でそう言った彼の肩を、背後から急に白い腕が抱きしめた。  胸元も露わな淫らな装いの女がレオンの頭の上で喋り出す。 「あんた達、ハンサムな騎士様を独り占めしてるんじゃあないよ。ねえ騎士様、もし良かったら、今夜のお世話をさせてくれない? あたし達の恩人だもの。タダでサービスするよ」  宿で客を漁っている娼婦の大胆な誘いに、レオンの白い顔がかあっと赤くなった。 「は、離してくれ…とても申し訳ないが、」  意外そうに両手を離した女に目も合わさぬまま、自分の身を守るようにマントを掻き寄せる。 「俺は、神に誓いを立てていて、女性とそういうことをしたことがないんだ。だから」  農夫がキョトンとして彼を見つめた。 「そんなに強くて、お若くてハンサムなのに? 女を知らねえんです?」 「きゃぁ! そんなことを聞いたら、益々サービスしてあげたくなっちゃうわ。良いじゃないの、神様に内緒で一度くらい! 一生女の柔肌を知らずに死ぬなんて後悔するわよ」  娼婦の目が肉食獣のような輝きを帯び、レオンの鍛え上げられた体躯を上から下まで視線で舐め回した。 「いや本当に……気持ちだけで結構だ……」  言葉で拒絶しても女はいたずらに彼の後ろ髪に触れ、身体を押し付けて来る。 「こんなに逞しい体つきなのに、まるで絹糸のような黒髪……肌も私よりツヤツヤ。こんな若い身空で坊さんみたいな誓いを立てちまうなんて、騎士様、あなた一体お幾つ? まさか18や19ではないだろうし」  がたんと音を立ててレオンは椅子から立ち上がった。 「その、昨夜は徹夜で疲れたから、もう寝かせて貰えないか。朝までは絶対に誰も入ってこないようにして貰えるとありがたい……っ」  ギシギシと音を立てながら、レオンは宿屋の階段を登った。  並んだ部屋のうち割り当てられた1番端の個室に入り、扉を閉めてほっと息をつく。  暖炉の炎だけが明るく燃えている薄暗い部屋の中で、レオンは粗末なベッドの上にそっと腰を下ろした。  この地も長くは居られない。なるべく早く旅立たねば……。  そんな風に思いながら窓の方をそっと見上げる。  ――そういえば今日は新月の夜だ。  それを悟った瞬間、視界の端で何かが動く。  暖炉の火が作る自身の影から、黒い液状の物体がドクドクと湧き出し始めているのをレオンは見た。 「……っ」  剣の柄に手を掛け、身構えた。  黒い液体はドロドロと練り上げられてあっという間に人のような姿になり、女のようにも見える白い美しい顔が最後に形作られる。  それは、レオンよりも長身の、黒々としたローブを纏った氷のような美貌の青年の姿になった。  一見人間と変わりないように見えるが、かがやく銀の髪が腰まで届き、左右の耳の上からは山羊のような曲がったツノが生えている。  更にローブの裾からは、白く蛇のような尾が出ていて、床をうねるように動いていた。
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