最終話

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最終話

 その音は、そう、何かが泳いでいるような音だった。  泳げる所といえば、あのきたないプールしかない。  いやいやいや、ありえない。  まさかと思い、耳をすませてみる。  バシャ……バシャ……。  やはり汚泥のプールから聞こえる。  汗が冷え、喉に何かがつっかえた感覚がした。  蚊にかまれた場所さえ忘れ、私は汚泥のプールに向かっていく。  あんな所に入るバカなんているの?  侵入者なら女性の先輩を呼ばなければならない。  違っていたらただの迷惑だ。  音の正体を探るため、プールの入り口の扉に立った。  全身から震えがきた。  南京錠があいている。  どこからか、獣のような、嫌な臭いがただよってきた。  この臭いは牛? いや、馬?  私は金網のドアを開け、汚泥のプールに入った。  バシャ……バッ……。  音がやんだ。  夜の闇のなか、懐中電灯を水面に照らしてみる。  濁った水に、異様な臭い、ボコボコとした、泡の耳ざわりな雨音。  真夏の暑さでクラクラしてきた。  バシャ!!  プールから何かが飛び出してきた。  腰を抜かして尻もちをついた。  きたない水から、手のようなものが二つ出ている。  それは腕を交差させ、何かを訴えているようだった。  誰かがこの中に入ったの?  いたずら好きの若者か、浮浪者か……。 「あっあの!」  大声をかけるが、相手は両手を必死で交差させて、水音を立てているだけだ。  ――まさか、溺れているの?  所長から聞いた、『一度入ったら浮かび上がらない』という言葉を思い出す。  私は汚泥から突き出ている手のほうへ向かう。  それはなんとも言えないぐらい『きたない手』だった。  汚泥まみれで、皮膚すら見えないくらいに。  臭いもすごい。 「ひっぱるからっ! 手を出してっ!」  私がそう言うと、なんと、その両手はプールへ沈んでいく。  暴れ回っていた力もなくなっているようだ。  けたたましい水音が静寂になりつつある。  溺れてるんだ!  そう確信した私は、沈みゆく手をひっぱろうと、必死で自分の手をのばして、それの腕をつかもうとした。 「何やってるのっ!」  突然体をつかまれ、床へとたたき落とされた。  私は頭が真っ白になり、光の元へ視線を向ける。  先輩が懐中電灯を持って立っていた。  私は汚泥のプールに指をやり、 「ひっ人が溺れてます……」  それ以降、言葉が出てこない。  先輩の顔が不気味だったからだ。  死人のように青白くなっている。  いや、まるで何か異様なモノを見るかのように、深いシワを顔中にやり、引きつっていた。  その後。  先輩がプール内を点検したが、人が入った形跡すらないと言う。  南京錠は所長が閉め忘れていたことになった。所長自身記憶にないと言っていたが。  私は所長、先輩と一緒に、汚泥のプールから汚水を抜く作業を見ていた。  プールの中には人すらおらず、生き物すら見つからなかった。  私は工場勤務に移ることになった。  特に志望はしていなかったのだが、会社から異動命令されしぶしぶだった。  最後に気になったのは、先輩と所長だ。  先輩は青くなった顔で所長を見る。  所長はただ首を横に振っているだけだった。  工場勤務となったが、あまりのきつい作業に、私は結婚を機に会社をやめることにした。  最後に仲良くなった女性の方と、浄化センターのことについて話した。  その方は工場勤務の前は浄化センターにいたとのこと。  私も浄化センターで働いていて、変なモノを見たあと、異動になったと言うと、その女性は深くうなずいた。 「ああ、それでまたおはらいしたのねぇ。なるほど、なるほど」 「どういうことです?」  私は不思議に思って、理由を聞いてみた。 「あの浄化センター。出るんよ。妖怪が。私も前に浄化センターで働いていたときに、汚泥のプールで妖怪に会ったんよ。それで工場勤務に変えられたってわけね。なんせ、祈祷師が言うには、妖怪に一度魅入られると、何度も同じ目にあうんだって。それで社員がひとり死んでるもんだから、会社も慎重なんでしょ」  女性の話を聞いて、所長や先輩が青くなる理由がわかった。  あれが妖怪と言われたら、今なら納得し、信じることができる。  どう考えても、きたなすぎて人の手じゃなかったし、あんな汚泥のプールに入るのは、人間ではない。  人ひとり死んでるのか……。  ぞっとはしなかった。  私は手しか見てないし、別に直接危害をくわえられたわけでもない。  霊が本当に出てきたとしても、ほっとけば消える程度にしか思っていなかったから。  死人が出てるとは知らなかったが。 「あの場所、何かあるんですか?」 「もともと妖怪の住み処を、市が無理やり開拓したらしいよ。それでたまに出るらしいね。きたなかったでしょう?」 「ええ。あんなに、きたない手は初めてです。臭いもすごかったし……」 「うん? あっ、いやいや、そうじゃなしに……っと」  女性はしかめっ面になって、何か言いたそうだったが、チャイムが鳴ってしまった。  休憩の終わりだ。  けっきょく話を最後まで聞けず、私は会社を辞めてしまった。 *  春間近。  私は隣の庭に咲いた桜を座敷で寝転がってながめていた。  はかなく、きれいで、引き寄せられそうな魅力を感じていると――あの浄化センターのことを思い出した。  浄化センターで働いたことがあるという、女性のしかめっ面。  あの顔は、「いや、そうじゃない」、という意味だったのではないか。  手は「きたなかった」が、その、汚れているきたなさとは別の意味ではなかったのではないか?  記憶がよみがえってきた。  私が溺れているあの手をつかもうとしたとき、あの手は逆に私の手をつかもうとしていたのだ。  汚泥のプールに沈みかけていた手が、にゅぅぅぅぅぅぅっと、私の腕に向かってのびてきていたのだ。  人間の腕の長さではなかった。  夜の闇でよく見えなかったが、あれは私を狙っていたのだ。  先輩に体をつかまれ、床に落とされなかったら、私はあの手に腕をつかまれていた。  私は寝転がっていた座敷から起き上がった。  春風がすずしいというのに、全身汗だくだった。  南京錠はやつがあけたのではないか?  あれはわざと『溺れているふり』をしていたのではないか?  そうやって助けにきた善意ある人間を――汚い沼に引きずり込んでいたのではないか?  つまり、「きたない手」を使って人をだます、悪知恵の働く奇怪な魔物だったのだ。  もし、あの女性がそれを言いたかったのだとしたら、私は、よく汚泥のプールから生きて帰れたなと思う。  人を魅惑し誘う桜を見ていると――心臓の動悸が今でも激しくなる。
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