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ドレスコード、とは単語ではなく、人名だ。
春よりも遅い季節、彼は勇者一行の仲間として魔王を撃破し、大金を得てこの街に帰ってきた。
「十年は旅に出ていたはずなのに、まったくこの街は変わらないねえ」
僕の隣でドレスコードは、手で目元に小さな日傘を作りながら、懐かしむようにそう言った。
街の大人たちによれば、ドレスコードがこの街を去ったのは十三歳のときだそうだ。当時から変装の達人だった彼は、この街を訪れたサーカス団にスカウトされて、そのまま世界を放浪した。
そのサーカス団が魔物に襲われて、死体に変装した彼以外の全員が殺されてしまったとき、偶然そこに勇者一行が現れた。ドレスコードはその戦いにおいて勇者たちをアシストし、そして仲間にならないかと誘われた。
彼のことだ。
きっとそのときも、二つ返事で快諾したに違いない。
ドレスコードはその長く美しい金の髪を撫で上げながら、僕のことを見下ろす。
「小さな勇者くんは、次はどこに連れて行ってくれるのかな?」
「うるさい」
僕は少し怒って、ドレスコードよりも少し早く歩き出す。けれども足の長い彼のことだから、すぐに追いつかれてしまう。この街を出たときのドレスコードと同じ歳になっても、まだ新聞配りしかさせてもらえない自分のことだ。
ドレスコードに追いつけないってことくらい、分かりきっている。
「そんなに顔を膨らませないでよう」
と、ドレスコードの綺麗な顔が僕を覗き込む。
「膨らませてない」
僕は反論する。
「えい」
と、ドレスコードが僕のほっぺたに触れる。
ぶしゅん、と空気が漏れる。
「あはは」
「もう!」
僕が次なる反論のためにドレスコードのほうを向く――と、ちょうどその方向から、町長がやってきたところだった。てっぷりと太ったそのお腹を売らしながら、屈強な二人の兵士を脇に連れている。
僕はふと、ドレスコードの顔を見上げた。
さきほどとは打って変わって、ドレスコードはにへら、と力なく笑った。
「これはこれは町長さん、お久しぶりです」
町長は一瞬、目を丸くして、それから盛大に笑った。
「おいおい、何言ってるんだよ。昔からの仲じゃないか」
そうなのか? と僕はもう一度ドレスコードのほうを見る。
町長とドレスコードが知り合いだなんて、聞いたこともなかった。
「ジャイドでいいよ、ジャイドで」
言いながら、町長はドレスコードの肩をバシバシと叩く。
「友達なんですか?」と、今度は僕が町長に聞いた。
町長は一瞬、その質問を誰がしたのか分からなかったのか、あたりをきょろきょろと見まわして、それからようやく僕のことを見つけると、優しい笑顔で教えてくれた。
「ドレスコードとは小学生のころからの仲なんだよ、坊や」
それから町長とドレスコードは、大きな兵士の人が町長に耳打ちをするまで会話した。内容はよく聞こえなかったけれど、町長はよく笑っていた。ドレスコードの顔は、こちらからは見えなかった。
町長と別れて、そのまま街道を進む。帰ってきたドレスコードに、この街のことを案内するのが僕の役目だった。
新聞社の偉い人が見繕ってくれた洋服で、したくもないおしゃれをして、したこともないマナーに気を付けながら話すように言われていたけれど、ドレスコードは綺麗な女性の話と、美味しい食べ物のことしか話さないので、いつしか緊張も解けて、いつもの自分に戻ってしまっていた。
「ここが酒場・イニシエーションだよ」
僕は不愛想に(わざとだ)板でできた入り口の扉を指す。
「ほう、これが例の……!」
と、ドレスコードはなんの躊躇もなしに踏み込んでいく。僕は慌てて、その後ろについていく。
:
ドレスコードの過去を知ろうと思えば、いくらだって知ることができる。サーカス団にいたころの記録はすべて映像として術式に残されているし、勇者一行と一緒にいたころの記録は、すべて勇者の英雄譚にて描かれている。
あるときは、愉快な百面相の怪人。
あるときは、魔王軍に忍び込んで情報を攫う冷酷な情報屋。
あるときは、サーカスでも人気のピエロ。
あるときは、勇者一行の料理番。
このように、ドレスコードはさまざまな「自分」を持っていた。おそらく、記録には残っていないドレスコードの姿もあるのだろう。
けれど重要なことは、彼の本当はどれなのか、ということだ。
「戻ったよ、案内人くん」
酒場からそうそうに出てきたドレスコードは、道端に座り込んで休んでいた僕の頭をぽんぽん、と撫でると、すぐに歩き出した。僕も慌てて、その背中を追いかける。
「ここを右に曲がると教会。左に曲がると防具店がある」
僕がそうやって、道を教えるために指で示す、その仕草を追うように彼の首が回る。その様子を見ながら、僕はやはり考えることがある。
このドレスコードは、どれなんだろう。
「あっ、ドレスコードさん!」
通りを出ると、花祭の最中だった。この街では月に一回、この街の伝統産業である花の豊な実りを願って、花祭というものが開催される。とはいえ、本当に不定期だ。いつやるのか、誰が出るのか、そういったものは、その日になってみないと分からない。
すべてが即興なのだ。
花で作った冠を被った女の子が、ドレスコードの腕を引く。別の女の子が、彼の頭に花の冠を乗せ、そしてそのまま、奥のほうでおじいさんの演奏するチェロの音楽に合わせて踊り始める。
ドレスコードも、それに合わせて見様見真似で踊り出す。
僕は別に、覚えてもいない踊りを即興でできるわけではないので、どうしようもできずにその場に立ち尽く――まったく、さすがは勇者御一行様、というか。
「おーい! アイル!」
不意に向こうの市場から、僕の名前を呼ぶ声がした。
その方角を見る。
「あ、マシロ」
「なにやってんの!」
「今からそっち行くよ」
僕は駆け足になって、マシロのいるほうへ走る。マシロとは町内の学び舎の友達だった。頭が良くて、狩猟の腕もいい女の子だ。
「なにしてたの」と、マシロが訊く。
「この街の案内」
「街の案内って――ああ、ドレスコードさんのね。どう? あの人」
「のらりくらりいろんなところに行くから、たまったもんじゃないよ」
「あはっ、そうなんだ。だから不機嫌そうなのね……ドレスコードさんってイケメンだから、てっきり君がやきもち焼いているのかと思ったよ」
「はあ⁉」
「でもそうじゃないんだろう?」
マシロはそう言って、わざと僕を上目遣いに見る。
「あんなに勇者一行のことが好きだったくせに、いざ自分の目の前に彼らが現れると、途端にこうなんだから。もっと素直になればいいのに」
素直。
素直って、どんなだっけ。
確かにその通り。素直じゃない。そういう部分は、僕にだって分かっている。実際に勇者一行のことは好きだったし、勇者の話を聞くのは楽しかったし、無事に魔王を倒したと聞いたときは誇らしかった。
どうしてこんなふうに、もやもやと思ってしまうのだろう。
「アイル、アイル!」
マシロが僕の袖を引く。
「なに」と、そのほうを向いた僕の目の前にあったのは、けれどマシロの顔ではなくて、ドレスコードの綺麗な青の瞳だった。
思わず僕は、目を見開いて絶句する。
「きみ、アイルって名前なんだな」
「うえ……うん」
「北リシア語で『勇敢な白の妖精』という意味だ。良い名前をつけてもらったね」
ドレスコードの目が細くなる。
あ。
なんだろう。
今の一瞬だけ、嫌な気持ちが全然、なくなった。
「さて、行こうか」
「え」
ドレスコードは僕の手を引いて走り出す。
「わわ、わ」
「お祭りは楽しくなくっちゃ!」
はしゃいだように回り走り、踊るドレスコードにひきずられるように、僕は回る世界のなかでただひとつだけ、正確にその形を保つドレスコードの笑顔を見ていた。
「あははっ、楽しいね、アイル!」
花弁を散らして僕を振り回すドレスコードは、今日見たなかでも一番良い笑顔だった。回転、停止、回転。背の小さな僕を抱き上げたまま刻むその足どりは、サーカス団に所属していたときの名残なのかもしれない。
いいや、きっと、そうだろう。
そのはずだ。
周りを取り囲む少女たちが、僕たちに向かって花弁を投げる。投げられた花弁は僕たちの頭上でその勢いを失って、雪のように僕たちに降り注ぐ。
祭りは夜まで続いて、ドレスコードは踊るのをやめなかった。
僕がばてると、今度は次の女の子。それが終わったら、今度は木こりのおじさん。そんなふうに、かわるがわる、踊りの調子も変えながら、少しも息切れせずに、彼は踊りを踊りきる。
お祭りが終わって、僕は家に帰った。
ドレスコードは宿屋の部屋を一室、借りているらしい。明日の昼に、この街を発って、もう一度都市のお城に行くようだった。そこでなにかの賞を受けるようだ。
城下町ではパレードが開かれ、平和をもたらした勇者一行を称える曲が歌われる。勇者の像も建つ。勇者たちには美味しい御馳走がふるまわれる。
僕はベッドにもぐって、強くまぶたを閉じて、想像する。
勇者たちは、いったいどんな戦いを繰り広げたのだろう。
自分より何倍も大きな敵に向かって、どのようにして勝利したのだろう。
そういうことを、考える。
「…………イル、アイル」
ふと、窓の外から誰かの声が聞こえてきた。夜中の外出は、魔物の関係で禁止されているはずだった。
「まさかその声……マシロ?」
「アイル、はやく出てきてよ」
僕は眠たい目をこすりながら立ち上がる。上着を羽織って、靴を履き、鍵を開けて外に出た。窓があったのは家の裏手側だ。僕は庭の柵を乗り越えて、家の裏手、農地に踏み込んだ。
「アイル、アイル」
「もう、なに、マシ…………」
ロ。
と、言葉にができなかった。
そこにいたのは、マシロでも、まして人間ですらない。
「アイルイイルア……アイルイルル」
目が五つ。
長細く、のっぺりとひらべったく伸びた額。
死体からそのまま奪ってきたような、唇。
人間の声を真似る、擬声能力を持つ――魔物。
オーダ。
「アイイルルルル……」
この地域に頻出する魔物だった。
「うわ……」と、叫びそうになったところを、後ろから現れたオーダのその短い手が抑え込む。目視できるだけでも、もう五匹はいた。僕は咄嗟にその場で暴れる。剣も槌も、部屋のなかに置いてきてしまった。
爪が皮膚に食い込む。
「痛っ……!」
鋭い手が、脇腹に、胸に、腿に縋りつく。
「もう、やめ……たすけて……!」
そのときだった。
ひんっ――と、何かがずれる音がした。
瞬間、僕を取り囲んでいたオーダが崩れ落ちる。咄嗟に起き上がったその目で最初に目撃したのは、襲いかかるオーダと、その攻撃を華麗に避けながら切り返す、ドレスコードの姿だった。
長くて美しい金の髪が、月の光を受けてまるで羽衣のように、輝く。
着地。そのまま低姿勢で走り抜くと、上空からのオーダの攻撃をかわしながら、隙を見て次の斬撃を放つ。よく見てみれば、ドレスコードの使っている武器は、ただの剣ではない。リボンのように長く、しなっている。
オーダをすべて切り落として、ようやくドレスコードと僕は目が合った。
ドレスコードの目は、昼間に見たどのドレスコードの瞳とも似つかなかった。眼球のなかに、彼専用のもうひとつの月があるかのように、彼の瞳は冷酷に、それでいて静かに、静謐に、ただ世界を観測していた。
ドレスコードは言う。
「ダメじゃない、夜に外なんて出たら」
「……ごめんなさい」
「人間なんて簡単に死ぬんだよ。それでいて、死んだら生き返らないんだよ」
「……はい」
彼は僕の前にしゃがみ込む。そして、間髪入れずに、僕のおでこにデコピンを食らわした。
「今度から夜に外に出たらいけないよ」
「……ドレスコードはさ」
「うん?」
「勇者との旅、楽しかった?」
ドレスコードの瞳から、ゆっくりと光が消えたような気がした。
「楽しかったよ。……どうしてそう思ったの?」
僕は思考をまとめて、言葉を考える。
「なんだか、その――疲れてるように見えたんだ。無理をしているっていうか――明日もパレードなのに、なんだか無理をして楽しそうにしているっていうか。今朝、町長と会ったときも、少し調子がおかしかったし」
こんなことを言って、もし嫌われでもしたらどうしよう、と言ってしまってから不安になった。こんなこと、言わなければよかった、と心の底から思った。
けれどもドレスコードは、一瞬目を丸くしてそれから、脱力したように座りこんだ。
「……やっぱわかっちゃうか」
ドレスコードは溜息をつく。それから「ここだけの話だよ」と言って、切り出した。
「今の町長いるでしょ」
「うん」
「アイツ、学び舎一緒だったんだけど、私のこと……いじめてたんだ。だからアイツの前だと未だに身体が強張るし、怖くなる」
ドレスコードはにへら、と力なく笑う。
「……」
「それに、勇者パーティのことだって、別に望んで入ったわけじゃないんだよ。私はずっと、サーカスでピエロを演じていたかった。人生ではじめてだったんだよ、褒められたの。演じることこそが私の生きがいだった」
そうか。
違和感の正体が分かった気がした。
物語で聞いたドレスコードは、もっと勇敢で、怜悧で、冷酷だった。
目的のためなら手段を選ばない人だった。
けれど実際に会った彼はそうではなくて、そのことがなんだか、騙されているような気がしたんだ。
「魔物なんて殺したくなかったし、誰かの命を奪うために何かを演じるなんて、本当はしたくなかったよ。そのときはまだ、殺された仲間の葬式すらできなかったんだ。でも、生きるためには勇者の仲間になるしかなかった。切羽詰まってたんだよ」
ドレスコードは苦しそうに笑う。
どうしてそんな顔ができるのだろう?
分からない。
「色々な役になりきったよ。魔物、役人、兵士……いろんな役を演じて、いろんな人を騙してきた。けれどそうしているうちに、自分はいったいどれなのか、わからなくなってしまったんだ。本当の自分を見失ってしまった。
僕も月を見上げてみる。
満月には少し足りない月あかりがそこにある。
「でもね、この街にもう一度来れて、本当によかったよ。今日だけは、本当の自分で笑えた気がする。私に振り回されてる君の顔も、結構おもしろかったしね。」
「な!」
「ねえアイル」
ドレスコードは立ち上がる。
「きみに踊りを教えてあげようか」
ドレスコードの綺麗な指が、僕の指に絡みつく。
足、その運び方。着地の瞬間。
草葉のざわめき。
月光。
僕とドレスコードは、草原のなかを、倒れそうになりながら、転びそうになりながら進む。
「そう」
ドレスコードは笑う。
「その調子!」
ドレスコードの髪がはねる。
揺れて、
返って、
震えて、
弧を描く。
やはりドレスコードの綺麗なその姿だけが、回る世界のなかで唯一、その形を保っていた。
保ったまま、美しかった。
「アイル、きみにひとつ、私の秘密を教えてあげよう」
ドレスコードが耳元でそっと呟いた。
僕の耳が赤くなったのは言うまでもない。
:
ドレスコードは明日、本当にこの街を旅立った。
お城でパレードをしたあと、もう一度サーカス団を立ち上げ、全国を回るというのだから、当分は帰ってくることはないそうだ。
明朝、まだ薄暗い霧のなか、彼は風呂敷一枚で荷物をまとめると、颯爽と走り出した。お城までかなり離れているというのに、そのまま歩いていくらしい。まったく、身軽であることこのうえない。僕には到底、追いつけそうにもない。
いつか。
いつか僕が、大人になって、旅に出るとして。
どこかで彼に会えるだろうか?
白化粧に、赤で目と口を縁どって。
リングやステッキを回す彼に出会えるだろうか?
彼の望む演技を、技を演じるということを、客席で確認できるだろうか。
まだ分からない。
けれど、不可能ではないだろう。
サーカス団はのっそりと移ろう。ならばすぐに追いつけるはずだ。
僕はいつか、彼と再会する日のことを考えながら日々を過ごす。
もしも彼に再開できたら、彼にぴったりの美しいワンピースでも送ってあげようかな、とか。
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