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甘くて苦いデザート
市原が買ってきた食後のデザートをテーブルに並べて、麦茶を入れたグラスを置く。
市原が台所から戻ってきて座った。
「水切りに置いといたけど、良かったの?拭かなくて」
「いーの、後でやるから」
市原は、食事のお礼に食器洗いをかって出てくれたのだ。
デザートは珈琲ゼリーだ。
「凪のバイト先で食べてから嵌まったんだよね」
「珈琲は苦手なのに。へんなの」
凪は蓋を剥がし、スプーンでゼリーを崩しながら付属のコーヒーフレッシュを掛けた。
「あ、久しぶりに食べたけど、美味しい」
「だろ?」
何故か得意気な市原を見て、凪は少し笑う。
市原は小さく息を吐くと、凪を見た。
「話して良いかな」
凪はスプーンでゼリーを掬いながら頷く。
「さっきも少し話したけど、俺の母親は五歳の時にいなくなったんだ。ちなみに、兄ちゃんと俺の母親は違う。後妻ってやつ?」
市原の実家は地元で有名な名家だ。昔は広く土地を有する地主だったというが、現在の母体は建設業で、その他にも多く事業を展開している。
未だに親族以外への事業継承を良しとしない古い体質の家なのだと、市原は言う。跡継ぎはたくさんいた方が良いという理由で、父と先の妻との離婚が成立して早々に家柄の良い娘が後妻に迎えられた。それが市原の母親らしい。
しかし、家族を顧みない旦那と干渉の激しい義父母と母親の関係は、裕福な暮らしと引き換えにしても決して楽なものではなかった。
市原は、隠れて泣いている母親を何度も見ていたそうだ。
「跡継ぎの兄ちゃんは習い事三昧でさ、それと比較すると、俺は期待されてなかったのか結構放任だったんだ。でも、ある日、母親がテニススクールに連れていってくれた。そこで筋が良いって言われて母親も凄く喜んでくれて」
週に二回通うことになったのだという。しかし、最初は付き添ってくれていた母が、コーチに市原を預けて姿を消すようになった。
送迎はしてくれるが、上達した姿を見てもらえない市原は不満だった。
「直哉はもう来年は小学生になるのよ。一人でも出来るようになる練習だよ」
母はそう言って宥めた。
「それで、半年ほど経った年の暮れだったよな。その年最後のレッスンが終わって母が迎えに来るのを待っていたけど、いつまで経っても来なかった。スクールの人が何度連絡しても携帯は繋がらない。自宅に掛けても誰も出ない」
困り果てたスタッフが父親の会社に連絡して秘書が迎えに来た。
そして、母親が失踪したことを知らされたという。銀行口座からまとまったお金が引き落とされていて持ち物も消えていたそうだ。
「母には結婚前に付き合ってる恋人がいたらしくってさ、失踪する半年前に再会して再燃したみたい。俺がテニスのレッスンを受けている間に会っていたんだよ」
凪は胸が苦しくなった。幼い市原の小さな胸の内を思うと辛い。
「俺の事を大切に思ってくれていたはずの母親が、俺を捨てて父親と違う男と逃げたってことは、正直、幼すぎてその時の俺は良くわかってなかった。でも、成長する毎にどんどんわかってきて。まあ、人間不信だよね、兄ちゃんも冷めてるし、父親は滅多に家に帰らないし、じいちゃんばあちゃんは最低限の面倒は見てくれたけど、愛情を感じたことはなかったし。食事も小学生の頃から食費を渡されて自分で調達するように言われてた。だから、家ではいつも一人」
名門の学園の小等部に通うことになった市原は、同じく家族の愛情が希薄な境遇にいた槻尾と出会い、意気投合する。
面倒見の良い槻尾を慕い、常に後をついて回った。
中等部に上がり槻尾は幼なじみの彩加と付き合いはじめる。しかし、槻尾は市原を疎外することなく、彩加も市原を可愛がり、自然と三人で過ごす時間が増えた。
家柄と見た目の良さから市原も槻尾に負けないくらいモテたが、女子と付き合う気にはなれなかった。
「はっきりいって苦手だった。恋にうつつを抜かしている女子を見ると母親が浮かぶんだよね。気分が悪かった。·····だから、凪を見た時の自分の感情に凄く戸惑った。·····だけど、忘れられなかった」
市原は顔を覆う。
「高校で凪と仲良くなって、どんどん惹かれていって、でも、気持ちは言えなかった。·····ずっと側にいたかったから。関係を壊したくなかった」
凪は市原の気持ちにまったく気付いていなかった。それどころか、槻尾への気持ち市原に打ち明け、相談までしていたのだ。
「槻尾が好きだといわれた時はすげえショックだったけど、槻尾ならしょうがないかと思う自分もいたんだ。それに、凪は告白しない、って言いきってたし、そう言うとこも凪らしいな、って」
だけど·····
市原は辛そうに声を絞り出す。
「彩加からあの話を聞いて、真っ先に頭に母親が浮かんだ。凪も一緒だったって。ごめん。凪はそんなことするはずもないのに」
凪は止めていた息を吐いた。
そういうことか。
「好きな気持ちが大きすぎたのかな、槻尾への嫉妬とか、受け入れられない恨みとか、ワッて吹き出して、みるみるどす黒い感情に支配されて·····」
市原は顔を覆ったまま続ける。
「斎藤に唆されて、後をつけたあの日、斎藤が無理やり凪にキスしてんのを見た時、さすがにおかしいと思ったんだ。アイツだけは、許せねぇ·····本当に今も」
あー、あれは私も忘れたい記憶ナンバーワンだわ。初キスがあんな下衆野郎なんて。
「ラケットを地面に叩き付ける凪を見て、最初は唖然としたけど、心が軽くなってくような不思議な感覚になった。大嫌いだったはずの母親だけど、唯一誉めてくれたテニスだけは辞めれなかった。その、俺の未練がましい気持ちを凪が代わりに壊してくれた気がして」
「そんなつもりはなかったけど·····当て付けだけど」
市原は頷く。
「わかってるよ。·····その上、自分まで傷付けて、凪は·····」
市原は覆っていた手を外して、凪を真っ直ぐ見た。
「やっぱ、格好良かった。そんで、やっぱ凄く好きだと思い知った。同時に取り返しのつかないことをしたことも思い知った」
凪は深呼吸をする。
「つまり、私にお母さんを重ねて、鬱憤を晴らしたということを言いたかったのね」
市原は正座をして縮こまっていた。
「私さ、何が悔しくて悲しかったかって言うと、市原が信じてくれなかった事だった。私にとって初めての男の友達だったし、相当仲良かったと思っていたから」
市原は顔を上げた。その瞳は潤んでいる。
「そういう事情があったんだね。·····うん。なんだかスッキリしたわ」
「スッキリしたの?」
市原は目を見開いた。
「辛かったね。本当はあの頃に話してほしかったよ、お母さんのこと。私に何が出来たかわかんないけど」
市原は身体を震わせて凪を食い入るように見ている。
「·····なに?」
「凪、ぎゅってして良い?」
「はあ?!」
「なんか、こう、ぶわぁーってきて、堪らないんだけど、抱きしめて良い?」
凪は反射的に仰け反る。
「いや、そんなこと言われても」
「お願い!」
その時、奈津美の言葉が何故か頭をよぎった。
嫌な奴とは手は繋げない。それなりに好意がないと·····
好意。
凪は立ち上がった。
よし、確かめてやろうじゃないの。
つーても、市原に抱きしめられるのは、初めてじゃないけど。
「わかった。よし、来いっ」
凪は手を広げた。
市原は面食らった表情を浮かべて、凪を見上げたが、すぐさま立ち上がって抱きついてきた。思いの外、がっつりきた。
「凪、大好き」
凪の心臓が跳ねた。
「本当に好き」
「わ、わかった、わかった」
凪は市原の背中に手を回して、あやすように叩いた。
「ヤバい」
「なに?」
「離せない。ずっとこうしていたい」
凪は顔が熱くなってきた。
無性に恥ずかしい。
「いや、それは困る」
「もうちょっと。·····凪、良い匂いする」
「ちょっと!嗅ぐな!」
市原が息を吸い込んでいる気配を感じてむず痒くなる。
「はぁ、なんでこんなに凪のことが好きなんだろう。俺」
し、知らねぇ·····。私が知りたいわ。
凪は疲れてきた。力を抜いて市原に凭れると、それに気付いた市原が更に強く抱きしめた。
「あー、可愛い、凪。離したくない。あー、でももう、帰らないと」
凪は時計を見た。22時を過ぎている。
「ホントだ。終電何時だっけ?」
「でも、帰りたくない。」
「何にもしないなら、泊めてやっても良いけど?」
市原は少しの間のあと小声で言った。
「それは正直いって自信ない」
凪は市原の身体を勢い良く離した。
「よし、今すぐ帰れ」
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