しょっぱい男

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しょっぱい男

週明け授業を受けに階段教室に入ると、前方中程に一人で座っている市原の背中を見付けた。途端に嫌な汗が滲み出てくる。 なるべく奴から見えないように、後ろの壁際に席を取った。 物音を立てないようにそっと教科書を取り出していると、カツカツという遠慮のないヒールの音が近づいてくる。 「おっはよー!凪」 奈津美が隣にドサリと腰を下ろした。 「ちょっと、声でかい·····奈津美」 そっと市原の方を見れば、こちらを振り返って凝視している。 ほら、見付かった·····凪はため息をついた。 「あっれー、この間のインカレの飲み会に来ていた彼じゃん。この授業取ってたんだ」 奈津美は手を振っている。市原も手を振り返した。凪は奈津美の服を掴んで引き寄せる。 「ねえ、あの人何でこの大学にいるの?」 「ああ、特別聴講生らしいよ。隣町のY大に籍はあるみたい」 ·····聴講生だと?しかも、まさか隣町にいたとは。 凪は、あの土地を出たい一心で、アイツらの進学先は詳しく調べてなかったことを少し後悔した。 「高校んときの同級生なんだって?実は、あれから色々聞かれたんだよね」 奈津美は凪の方を向いて座り、興味津々という風に話す。 「悪いけどさ、私、アイツのこと大嫌いなんだよね。あんまり私の事は話さないでくれる?」 「やっぱ、あの時言ってたのって、彼のことだったんだ。·····でも、向こうは凪と話したそうだったわよ」 冗談じゃない。話すことなどない。 自然と眉が寄る凪の頭上から、しかし、その声が降ってきた。 「ここ、良いかな?」 聞き覚えのある声に背中が冷える。 いつの間にか、市原が前の席に移動してきていた。 「聴講生って俺だけみたいだからさ、勝手がわからなくて心細くって。色々教えてほしいんだ」 奈津美は、凪をちらと見た後、いーよー、と引き受けた。 内心、舌打ちしながら凪は市原から視線をそらし素知らぬ振りをした。 あの状況で断るのはさすがに出来ないだろう。奈津美を責めれない。 凪はなるべく前の席を意識しないように努めて授業を受けた。 授業が終わると直ぐに市原は振り向き、構内でランチを食べるならどこが美味しいか、出来ればそこまで案内してほしい、と言い出した。 「あー、うん」 奈津美が窺うようにこちらを見る。 「私は研究室に用事があるから遠慮するわ。じゃ、奈津美、午後またね」 凪は荷物を素早く鞄にしまって席を立った。 奈津美に押し付けるようで悪いが、市原の近くで同じ空気を吸うのもしんどい。研究室にも用事はなかったが、午後の授業までは時間が潰せるだろう。 しかし、再び市原が後を追ってきた。 「奥村さん、話がしたいんだけど」 横に並んで懸命に話し掛けてくる。暫くは無視をしていたが、このまま逃げる一方では、いつまでも市原から付き纏われるだけだと気付き、覚悟を決めた。 凪は足を止めて、隣の男を見上げる。 市原は息を呑んで凪を見た。 「何の話ですか?」 市原は、視線を泳がせ、たじろぐ。 「さっさと済ませていただけますか?」 「あの、良ければ食事をしながらでも·····」 「貴方と一緒に食事はしません。早くどうぞ」 凪はピシャリと撥ね付け、促した。 「あの、高校の時の事を謝りたくて。本当にごめんなさい。俺、酷い事を·····」 凪は腕を組み、市原を冷ややかに見る。 「私は許せません。だから、貴方も私に許して欲しいなんて思わないで下さい。今後、私には一切構わず、出来れば忘れてください。以上です」 凪はその場を立ち去った。しかし、市原は諦めない。背後から追い縋り、凪に懇願する。 「やっぱ駄目だよ!それじゃあ、俺の気が済まない」 凪は俯いてこめかみを押さえた。 ·····いったい何て言えば諦めるんだ? 「何故、貴方の気の済むように協力しなければならないんですか。図々しいと思いませんか」 市原は、凪の前に回り込んで頭を下げる。溢れ落ちたサラサラの黒髪から覗く高い鼻、その形には見覚えがある。 「俺、何でもするから!奥村さんの好きに使って良いから!」 異様な光景と言動に、周囲が好奇の目で見ているのがわかる。凪は途方に暮れた。 「いや、いらないです。却って迷惑です」 「そうおっしゃらず!」 市原は頭を上げない。それどころか腰を下ろし、膝をついてしまった。頭を廊下に擦りつけそうになった直前で、さすがに焦った凪が、その頭を両手で掴んだ。 潤んだ二重の大きな目が、凪を見上げている。 「凪·····」 くっそ。子犬みたいな顔で見てくんな! 相変わらずあざとい男だ。 「·····とりあえず、場所を変えましょう」 凪はしぶしぶ申し出た。 凪と市原は中庭のベンチに腰を下ろしていた。間には、先ほど学内のショップでテイクアウトしたおにぎりランチボックスが置かれている。 「旨い」 市原はニコニコとおにぎりを頬張っている。それを横目で見ながら、凪はサンドイッチを齧った。食欲は全くなかった。 サンドイッチ専門店のショップで裏技を使えば買える裏メニューのおにぎりランチボックス。 市原がお米至上主義だということを、思いだし、つい、お節介にも教えてしまった。 何でコイツのために····· 凪は自分に腹を立てていた。 「何だろう?このコリコリしたやつ」 「山くらげです」 「山にクラゲっていんの?知らなかった」 ちげえよ。ホント馬鹿だなコイツ。 ゴホッングッ 今度は喉つまらせやがった。 凪は水のペットボトルの蓋を開けて渡した。 ゴキュゴキュ… うるさい。とにかく騒がしい。 初夏の風が頬を掠め、緑の葉を揺らした。 凪はふと思い出す。 高校入学したてで、お互い余り友人もいない頃、二人でこうしてお昼を食べていたっけ。 「高校の中庭で、良く凪と飯食ってたよな」 市原が、凪と同じことを思い出していたことに何故か焦り、わざと素っ気なく返した。 「そうでしたっけ。·····それで、どうすれば貴方は諦めてくれるんですか」 市原は背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いた。 「凪の気の済むまで、俺をこき使ってくれ」 「·····別にやってもらいたいことなんて無いんですけど。放っておいて欲しい、って言ってるじゃないですか」 駄目だ。どうにも何かを胃に入れる気になれない。凪はサンドイッチを鞄に仕舞った。 「いや、例えば、夜遅くなった時の送り迎えだとか」 「いらないです」 「雨が降った時に傘を届けるとか」 大学の生協にもコンビニにもビニール傘は売ってるし。 「代返とかバイトの代打とか」 「そーゆーズルいことはしたくないので。·····もう、良いですか?わかったでしょう?貴方に出来ることなんてないんです」 凪は立ち上がった。 「じゃっ、じゃあ、男を紹介する!」 凪は拳を握りしめた。かっと頭に血が上る。 「槻尾さ、アイツ今隣県の大学なんだけど、彼女はいないらしいし。それにアイツ、実は凪の事が好きだったらしいんだよ」 凪は振り返って市原を睨み付けた。 「貴方、良くもそんなことが言えますね。人に『淫乱』のレッテルを貼っときながら」 市原は表情を強ばらせて凪を見上げている。 「あの、だ、だって、凪は槻尾の事が好きだったろ?」 「あの状況で好きだって言われて付き合えるとでも?それに、私にとっては槻尾君も二度と会いたくない人物の一人なんで」 「えっ!槻尾が凪を好きだって知ってたの?·····何で付き合わなかったの?」 市原はポカンとした顔で問いかけた。 そう、あの頃も薄々気付いてはいたけど、市原は人の複雑な心情を察することが出来ないようだ。 素直だが、短絡的。 友達は多いが、騙されやすい。 「槻尾君を好きだって気持ちより、関わった奴らから離れたいって気持ちの方が大きかったからですよ!」 何で私がコイツに説明してやらなきゃならないんだ? 凪はお節介な自分に呆れた。 市原は、納得したように頷いている。 「そっか、そうだよな。·····俺は本当に酷いことをした·····」 市原のチェックのパンツにボタボタと染みが作られるのを目にして、凪はギョッとする。 市原は大粒の涙を流していた。 凪は後退る。このまま去ろうかと思ったが、市原は、あろうことか嗚咽を上げ始めた。 中庭にいる学生達が一斉にこちらに注目している。 凪は、眉を寄せ目を閉じて大きく息を吐いた。 そして、再びベンチに腰を下ろした。 「何でアンタが泣くのよ。被害者ぶるのは止めてよ」 「ご、ごめっ、でも、とまんねぇっ」 ひっくひっくとしゃくり上げている。 子供かよ。 凪は、汗拭き用に鞄に入れていたハンドタオルを市原の膝の上に置いた。 「顔拭きなよ。返さなくて良いから」 「そ、そうだよな、俺の使ったタオルなんてゴミのようなもんだよなっ」 「わかったよ!洗って返せ。ちゃんと柔軟剤使ってよね!」 市原はタオルを顔に当てて頷いている。 はああああー 凪の口から長い溜め息が漏れた。 結局、憎みきれないのだ。 彩加先輩のやったことも、市原達にやられたことも許せない。 けれど、悔しいかな、その心情は解らなくはない。 ただ、斎藤だけは性格が歪みすぎて理解できないし、とにかく今後も関わりたくないけど。 「ねえ、私はさ、高校ん時のことはさっさと忘れて前を向きたいの。市原も忘れて良いから」 まさか自分がこんな風に言えるとは思っていなかった。おそらく市原の態度に毒を抜かれたのだ。 「やっぱ、そのタオル返さなくていーわ。使ったら雑巾にして捨てなよ」 タオルに顔を押し当てて動かない市原を見て、凪は立ち上がった。 「じゃ、午後からの授業があるから行くわ。·····じゃあね」 日増しに強くなってくる日差しが、髪をチリチリと焼き付ける。凪は片手で仰ぎながら、その場を去った。
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