思い出はビター

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思い出はビター

この世で一番嫌いな奴に再会した。 凪(なぎ)は、おもいっきり顔を歪めて踵を返す。 「·····嫌な奴と会った。奈津美、悪いけどやっぱり帰るわ」 「えっ?ちょっと、凪?!」 友人の声を振りきって、会場の居酒屋を飛び出した。 金曜の夜、いつもより人が多い通りを早足で駅に向かう。 ·····鼓動が激しい。 高校を卒業してから二年も経つのに、未だにこんなに動揺するなんて予想外だった。 くやしい。平気な顔で対峙するシミュレーションを何回もしたのに·····! 『市原 直哉』 さっさと忘れたいのに、フルネームで思い出せるのがまた腹立たしい。 私の高校生活を限り無く黒に近いグレーに塗り替えた人物の一人だ。他にも数人、二度と会いたくない人間がいるが、市原が、凪の中では一番苦い存在である。 自分が他人にそんな感情を持つなど、考えてもいなかった純粋な頃に戻りたい。 高校卒業を機に故郷を離れ、やっと泥々した沼から抜け出すことができたのだ。 アイツも目を見開いてこちらを見ていた。 恐らく私に気付いたのだろう。 高校生の頃は目立つグループの中にいて、見た目も派手な茶髪ピアス野郎だったが、先程見た姿は、髪色も大人しく眼鏡を掛けて服装も地味だった。 ·····まあ、どうでも良いけど。 地下鉄の入口が見え、凪は速度を緩めた。 その時、人影が横切り、前に立ちはだかる。 凪は顔を上げて瞬時に後悔した。 市原だ。 店から追いかけてきたのだろう息を切らしている。凪は横をすり抜けようとしたが、腕を掴まれた。 咄嗟に振り払い、地下に続く階段に向かう。 「待って!な·····奥村さん!」 凪は聞こえない振りをして階段を駆け降りた。 地下鉄に揺られながら、凪は忌々しい高校生の頃の出来事を思い返していた。 市原は高校に入学して初めてできた、しかも凪にとっては人生初の異性の友達だった。同じテニス部でクラスも一緒だったこともあり、なんとなく話すようになり、共に過ごすようになった。 市原は、見た目は派手だが、意外に部活は真面目に取り組んでいたし、明るく素直な性格で友人も多かった。 凪は、元々さほど社交的な人間ではなかったが、市原との繋がりで交遊関係が広がり、今までなく楽しい学生生活を送っていた。 その友人の中にいた槻尾という男子に凪は仄かな恋心を抱いていた。 しかし、当時、槻尾はテニス部の先輩と付き合っていたので完全な片思い。 市原にとっても、槻尾とその彼女とは幼なじみのような関係で、特別な絆があるようだった。 市原には応援できない、ときっぱり言われていたし、凪も気持ちを打ち明けるつもりはない、と伝えていた。 凪は深呼吸をした。 やはり、思い出すだけで胸が苦しい。 二年生の夏前のことだ。 女子テニス部が地区大会で総合優勝し、県大会進出を決めた。その選抜メンバーに、二年から一人だけ凪が選ばれる。凪の代わりに落選したのは槻尾の彼女の彩加先輩だった。 それから部活内で一部の三年女子による嫌がらせが始まる。 ラケットのストリングを切られたり、わざとボールを遠くに返されて取りに行かされたり、ボールをぶつけられたり····· 凪は黙って耐えた。凪に非は無いし、どうせ県大会が終われば三年生は引退。 それまでの辛抱だと思っていた。 ところが、それだけでは済まなかった。どこからか持ち上がった凪が槻尾を誘惑したという噂。勿論根も葉もない嘘だが、何故か周囲は信じた。 凪を良く知っている友人は憤ったが·····そう、市原は違ったのである。 市原は人が変わったように激しく凪を責め始めた。それまで仲が良かった男子達もこぞって侮蔑を含んだ眼差しで凪を見て、すれ違いざまに声高々に中傷するようになる。 針のむしろの毎日に、さすがの凪も心が折れそうだった。 そこに親切面をして現れたのが、三年の斎藤という男子だ。余り評判が良くないことを知っていた凪は警戒していたが、弱りきった心に優しい言葉を掛けられて油断してしまう。 部活帰りに待っていた斎藤と共に帰宅する途中で、電柱の影に引きずり込まれ背後の壁に押し付けられた。抵抗するまもなく、無理やり唇を奪われたところで、凪の耳がシャッター音を拾う。 斎藤が身体を離すと、斎藤の背後にニヤニヤ笑う男子達がいた。市原もいた。 「やっぱり奥村って淫乱なんだな」 「大人しそうな顔して、先輩の彼氏を奪うなんてなぁ。更にまた別の男とか」 「男とレギュラーの座も狙うなんて肉食すぎじゃね?こわ」 身に覚えのないことを口々に言われ責められる。 「お前らそんなに責めんなよ。俺は凪ちゃんが気に入ってんだからさぁ」 斎藤が馴れ馴れしく肩を組む。 凪の中で何かが焼き切れた。 凪は斎藤の手を押し退け、周りの男子を睨んだ。 「好きに言いなよ。私には疚しいことなんて一個も無いから」 怒りに震える凪の剣幕に、男子達が黙る。 凪はラケットをケースから出して、道路に叩き付けた。何度も何度も叩き付つけ、やがてラケットのフレームが割れ、ささくれだった。 突然の凪の奇行に周囲が静まり返る。 そして、凪は、ラケットの裂けて尖った部分で自分の右腕を引っ掻いた。 「凪っ止めろ·····!」 市原の声が聞こえた。 血が右腕から流れ落ちて、アスファルトを濡らす。 唖然とする男子達を一瞥して凪は低い声で言い捨てた。 「テニス部なんて辞めてやるよ。だから、二度と私に構うな」 凪はラケットを放る。カランカランと軽い音がして市原の足元に落ちた。 市原は、ラケットの残骸を固まったまま見下ろしていた。 凪はそれを一瞥すると、振り向きもせず、夕暮れの坂道を下った。 腕の傷は出血の割にはたいしたことはなかった。しかし、凪は大袈裟に包帯を巻いて翌日登校した。 そして、宣言通りテニス部を辞めた。 それから、「淫乱女」という呼び名に相応しいように髪を脱色して制服を着崩した。実際に男遊びをする気にはなれなかったので、ただのポーズだったが。 期間にすればたった二か月。しかし、凪を変えるには充分すぎる日々だった。 それから暫くして、短期留学先から帰国した槻尾によって真実が明らかにされた。 槻尾は直接凪に謝罪しにきた。 「俺、実は少し前から、お前のことが気になってて·····、彩加がどうやらそれに気付いていたらしいんだ。更にレギュラーも奪われたものだから嫉妬のあまり、あんなことをしでかしたんだよ」 人を陥れるのが趣味の斎藤と結託して、槻尾の不在を狙って企てたようだ。 槻尾と抱き合っている写真(斎藤作のコラージュ画像)を周囲に見せて信じこませ、更にそれを嫌がらせのために凪が彩加先輩に送りつけたと吹聴した。大学の推薦を狙っていた彼女は、選抜メンバーの座がどうしても欲しかった。成績優秀で見目も良くて優しい年下の彼氏も手放したくなかった。 同じく優等生で清廉なイメージだった彼女が泣きながら訴える姿に、皆簡単に騙されたのだ。 凪の人格は簡単に否定したのに。 槻尾は凪を好きだと言った。二ヶ月前なら舞い上がっただろうその言葉は、なんの感情も引き起こさず、虚しく凪を通り過ぎた。 「悪いけど、もう、関わりたくない。二度と話しかけないで」 槻尾が悪い訳ではないが、凪は既にガチガチのプロテクターを身に付けていた。誰も中に入れたくなかったのだ。 直後、槻尾が彩加先輩と別れたという噂が耳に届いた。当然だ!と息巻く友人の横で、凪は平然と受け流した。 どうでも良かった。 凪は進学に必要な出席日数をギリギリ確保し、両親に頼み込んで県外の大学に進学を決めた。 そして、最悪の高校生活が幕を下ろしたのだ。
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