ちょっと前の話

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僕は、きみにずっと憧れている。 眩しいし、真夏の太陽みたいでたまに目が眩みそうになるけど、それでも見上げ続けずにはいられない。 彼はすごく格好良いし、真っ直ぐだし、とても優しい。たまに痛いくらいに。 昔からそういうところもはらはらしたし、今も心配になるけれど、だからこそ目が離せなくなった。 足元を見る。それから何となく二階の窓を見つめる。 …こんな僕が、きみに釣り合う訳がないのになぁ。 ふっと汚れた手の甲を見て、地面を見て、溜め息を吐きそうになったところで上から声が降ってきた。 顔を上げると、そこには僕がさっき見ていた窓からちょっと身を乗り出して、僕の名前を呼ぶきみがいる。手を、振っている。危ないなぁ。 それから僕が何を言うよりも早く彼は下に降りて来て、地面のでこぼこも気にせずこちらに駆けて来た。 真っ直ぐに、本当にいつでも真っ直ぐ迷わずに僕の方へ来てくれるからたまに勘違いしそうになる。 嬉しいのに、むずむずする。 僕のところまでやって来た彼は躊躇なく僕の手を取って、それからムッと口を尖らせた。 「もう、またこんな怪我して!」 「あきと…」 怒りながらずかずかと近づいてくる彼に手を取られ、手の甲に滲む赤を咎められた。 「こんなの怪我に入らないもん」 「入るよ、血が出てるじゃん。ほら保健室行こう」 ぐいぐいと腕を引かれるが、あることが気になって声を掛けた。 「…あのさ、晶翔」 「ん?」 「踏んでる」 「あ、ごめんなさい」 地面に転がる…というか多分僕が転がした輩の手を彼の足が踏んでいた。ばっちぃな、と思う。なんでそんなとこいんの。通行の邪魔だろ。 そんなことを思いながら晶翔をそいつと引き離そうとしていると、ハッと意識が戻ったらしいそいつは、あろうことか彼を睨みつけた。 「てめ…あだっ!」 「誰に向かって口聞いた?あ?」 「こらこらこらやめなさいって、ほらもうわざと踏まないの。こら」 「………次はない」 「すみ…ません…」 後で彼の靴をしっかり消毒しようと決めた。彼はというと最早いつものことすぎて慣れたのか、足元に気をつけながら僕の手を引っ張っていく。 後ろ姿も、凛としてて格好良いなぁ。 地面に転がる複数の生徒は、さっき僕に絡んできた不良ども。無視しようとしたけど、彼のことを悪く言うからちょっとカチンと来ちゃって。 それで気がついたら、辺りから呻き声が聞こえて。白いシャツに付く返り血が不快だ。 それを見ては思い出す。 ケンカの途中で彼に名を呼ばれると、急に相手の痛みが自分のもののように感じることがあった。身体も心も、鈍っていた全ての感覚が戻ってきたような、不思議な感じ。そうすると自然にケンカなんて馬鹿馬鹿しくなって、その声に耳を澄ませて、やがて彼が来るのを待つんだ。 心配そうだったり、怒っていたり、たまに焦っていたり。そんな彼の声だけが、いつもこんな掃き溜めの中から僕を引き上げた。 僕は昔から表情が変わらないらしい。無愛想で何を考えているか分からなくて、皆ビクビクしながらいつも僕を遠巻きに見ている。 やっぱり、僕には日陰がお似合いだと思っていた。こんな僕に、誰も近寄りやしないのに。 なのに彼は、彼だけは躊躇いなく僕を引っ張っていつも陽の当たる場所へ連れていく。気高くて眩しくて、届きそうにない。そもそも手を伸ばしてもいいのかすらも分からないのに、その手をいつも彼の方から掴んでくる。 そんな奇跡のような体温を毎回噛み締めながらも、変わりたいなぁといつも思っている。思うだけじゃ駄目なのにな。 「あのさ、晶翔」 「んー?」 声を掛けると、焦げ茶色の瞳がまっすぐこちらを覗き込んできた。きらきらしている。眩しい。欲しい、とか思ってしまう。 「髪は長いのと短いの、どっちが好き?」 「え、髪?えと、短い方が色々楽でいいかな…?」 「ちがう、好みタイプの話」 「何で急に…。そんなん、どっちでもいいよ」 「でも前髪は短い方がいいって言ってた」 「え!?そんなんお前に言ったっけ?」 「…教室で」 「あー、あれ、聞いてたん…恥ずかしいな」 「前髪長いと、綺麗な目が隠れるからって。あれ、誰のこと」 この前どころか、いつでも。彼が教室でしていた話を、一言一句覚えてる。それが好みのタイプの話とあらば尚更気にはなるというもの。 例え手の届かないところにあると思っていても、万が一でも可能性を見つけ出したい、作り出したいと思ってしまう。 浅ましい。でも欲しい。振り向いて欲しい。だなんて。 あの会話から察するに、彼は誰か特定の人のことを考えて話していた。長年見ていたから分かるし、そうでなくとも彼は僕とは違って表情に出やすいからすぐに分かる。 嫉妬、とかしていいのか分からないのに、僕はその誰かのことをひどく羨ましく思った。彼に見つめられ、彼に触れられ、綺麗だと彼に褒められて、彼に求められるどこの誰かも分からないそいつを。 しばらく待っても返事は来ない。 それでも目を逸らさずじぃっと待っていると、やがて彼は観念したかのように一度下を向いて、またこちらを見た。それはもう真っ直ぐに。その何者も逃げられないような視線に僕はもうとっくの昔に捕まっている。 手が、繋いでいない方の手が伸びてきた。彼と僕の顔の間に伸びてきて、額に指先が触れる。 そっと前髪を掻き分けられて、さっきよりもずっとずっと眩しい景色が視界を埋め尽くしていった。耳に、長く伸びた髪が掛けられて、そして。 「…ほら。こっちの方がいい」 彼が言った。 ちょっと頬が赤いのは風邪の前兆だろうか。なら今すぐにでも保健室に行って…いや、ちょうど今向かっているところだ。 さっき自分は何と言ったか。彼の好みのタイプについて、教室で話していた内容は誰のことだって、確かそんなことを、聞いて…。 「言ったろ?この方が、綺麗な目がよく見える」 僕は一瞬、いや数秒自分の思考回路を疑った。 誤魔化された?いやまさか。だってそんなはずはない。でも彼は、彼の視線は、こっちを見ている。それだけは間違いない、けど…。 「あのさ、誰のことって…」 「さあ。誰のことでしょう」 「えぇ」 「ほら、保健室行こう?手当てしてやる」 誤魔化された。けど、ちらりと見えた耳が真っ赤だったせいか。胸のもやもやした雲はとっくに晴れてしまった。不思議だ。 そのままお互い何も言わず保健室へ到着すると先生が笑って、救急箱だけ渡してきた。 「残念ながらここは今満室だよ。誰かさんのおかげで」 「あ、そか。そうだった!」 「あぁ…」 さっきの不良どもかぁ。全部急所は避けたし、黙らせただけだからそんな大怪我もさせていないはず。だけどなぁ。 「なぁに元凶どもが二人して忘れてんだよ、全く。アンタが一番軽症だから、とりあえずこれで消毒して絆創膏でも貼っておきなさい」 「はぁい。さんきゅー先生」 「…あざます」 いつものこと、と先生も慣れてしまったのか、早々に保健室を追い出されてしまった。 手を洗って、それから適当な空き教室で、彼が救急箱を広げて治療をしてくれるのももう何度目か知れない。 そんな彼が俺の手に丁寧に消毒液を塗りながら、ぽつりと零した。 「ちとせ」 「なぁに」 「…今度は」 「うん」 「何を言われたの」 「………」 言いたくない。言いたくないなぁ。思い出すだけで腹の底がムカムカする。 誰が誰に取り入ろうとしてるって?あんの野郎ども…。 思い出すうちに眉間にすっと皺が寄っていたらしい。トンと彼の指先が僕の眉間に触れて、それを知らせた。 僕が顔を上げると、彼はふっと吹き出した。何がおかしかったのか分からなくて、きょとんとしてしまう。 「あはは!」 「え、なに」 「お前ってホント昔から顔に出るよなぁ」 「そんなの、誰にも言われたことない」 「そっかぁ?」 本当だよ。きみ以外、誰にも。 無愛想で集団に馴染めなくて、薄気味悪くて、何を考えているか分からなくて。僕は、そう。浮いている。 きみという重力がなければ、地上に足をつけることすらきっと難しい。そう思うのに、彼の口からはまた思いもよらない言葉が零れた。 「まぁ、お前綺麗だもんなぁ。確かに無表情だとちょっと近寄りがたいかも。話すとこんなにおもしろいのにな」 「きれい…?だれが?」 「え、だから、お前が…。というか、他にいなくない?」 「え?」 「えぇ?そんな驚く?というか毎朝ちゃんと鏡見てるか…?」 僕の方がおかしいんだろうか。さも当然という感じで彼の方が驚いている。きれいって。綺麗って。それはずっと見ていたくなるような、美しいものに言うことだ。 ずっと見ていたい。眩しい。きれい。そういう言葉が似合うのはきみの方じゃないか。そう思うのに。 「きれい…。僕が?」 「いくらなんでも無頓着すぎる…」 「眼科、行く?」 「その上失礼な奴だな!俺は視力良いよ!大体いつもみんな言ってるじゃん」 「いつも?みんな?」 「え、まさか何も聞いてない?ぼうっとしてんなぁとは思ってたけど、まさか」 「雑音だから」 「えー。この子ったらもう…」 彼は呆れたように溜め息を吐き出して、僕を見つめた。その言葉に嘘がないらしいことは、瞳を見ればすぐに分かった。 そうなのか。僕が綺麗かどうかはきっと真実なんだろうと認めざるを得ない。まだ信じがたいけど。彼がそう言うならば、そうだから。 他のみんなってやつからの評価はどうでもいいけど、彼がそう言うなら。どこをどう取って彼にそう見えているのかはまだ、残念ながら全く理解できないが、できるように努力するしかない。 分かりたい。きみの見ている世界のこと。それが例え自分のことでも。いいや、きみから見える僕のことであれば尚更。 「綺麗だよ。千翔星」 「………」 「何か言えよ…。恥ずかしいな」 「きれい、か」 「そんなに嬉しかったの?」 「うん。多分…」 「毎朝鏡見せてやろうか?」 「それはいい」 「えぇ…」 「あ、でも毎朝家に来てくれるってことなら、歓迎」 「毎朝行ってんじゃん」 「部屋まで来て」 「えぇ」 「やなの」 「うー」 「そんなに嫌なら、いいけど」 「やじゃないけど、寝起き…ちゃんと服着て寝てくれんなら…」 「着てるよ」 ズボンは履いてる。上は…着てもいつの間にか脱げてることが多いけど。 「まぁいいや。いいよ。その代わりちゃんとすぐ起きろよ」 「がんばる」 やった。彼はほぼ毎朝家には来てくれるけど、部屋まで上がってくることはあまりないから。嬉しい。 朝起きて視界に彼が、本物の、紙でもデータでもない彼がいる。欲を言うなら、眠る時にも傍にいて欲しいけど。 喜ぶ僕の顔を見て、彼も笑った。誰も自分の感情を知ることはないと思っていた。自分から言わなければ、伝えなければ。 それが煩わしくていつしか何もかも面倒になって捨ててしまったそれを、彼が拾った。いとも簡単そうに。何度も何度も、僕が捨てたそれを彼は笑って拾い上げるんだ。 だけど甘えてばっかでいないで、自分からもちゃんと伝えられるようにならなくちゃな。 そんなことを思いながらそっと手の甲の絆創膏に唇を落とした。誓いを立てるように、彼に触れるように。 絶対、変わってみせるよ。きみに誓う。 隣に立っていても恥ずかしくない、綺麗だと言われてもそれに見合う僕になろう。 そうして顔を上げると、何故だか彼の顔はまた真っ赤に染まっていた。おもしろい。 そんな顔をずっと見ているために、変わらないといけない。もっと、ほんの少しでもきみに見合うように。 「…うぁ」 「え、なに」 「そのカオはだめ」 「なにが?」 「…言わない」 一体どんなカオをしていたというのか。僕の顔を見た彼が更にその頬を赤くした理由が分からなくて首を傾げる。可愛い。 課題はまだまだたくさんあるみたいだなぁ。
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