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届くように、名前を呼ぶ。 いつだってその声が合図だった。 辺りがしんとする。大勢の中心に立っていた後ろ姿がゆらりとこちらを向いて、手に持っていたものをぱっと離した。 どさりと音がする。そのせいか土埃が舞う。顔がよく見えない。それが嫌で、早く安心したくてその影に駆け寄る。 影は動かず、俺の方へ全身を向けてただ立っていた。 彼だけが、その場に立っていた。 「ちとせ!」 「…あきと」 近寄って、表情の無かった顔に段々と色が戻ってくるのを見てようやくほっとした。そうして辺りをもう一度見渡せば、げほごほと咳き込みながら倒れている先輩らしき生徒が数人。 それにひそひそ囁き合う見物人が木陰にも校舎にもたくさん。それから慌ててやってきたらしい先生が二、三人見える。 ここは学校の裏庭で、普段なら人通りもそんなに多くない。珍しく放課後に姿が見えなかった彼を探していると廊下でちょうど「またやってるぞ」と騒いでいる生徒達とすれ違った。 それでもしかしてと思い、人の多い方へ来てみれば…この有り様だ。 恐らく絡んできたのは倒れている先輩方で、こいつ…突っ立ったまま俺をぼうっと見下ろしている猫目の彼は、それをまた一人で全て伸してしまったのだろう。 俺にされるがままの彼の手を取って確かめるとやっぱり…ちょっとではあるが擦り切れてる。 きっと睨み上げると彼はきょとんとして、やがて怒られる前に呟いた。 「ごめん」と。 分かってるならしないで欲しい。分かってないなら謝らないで。 大体、心配する身にもなってくれ。でもいつだって彼の方から仕掛けるわけではないから、そんなこと言えない。 彼のケンカを止めるのはいつだって俺の役目だった。そもそも誰も近寄ろうともしないから仕方がない。 近寄れない、が正解だろうか。冷静になって思い出してみると確かにな、と思わなくもないけど。それでも止めずにはいられない。 例えこいつがどれだけ強かろうと、ケンカ慣れしていようと、そんなことは問題じゃなくて。気づけばいつも身体が勝手に動いていた。 大勢に囲まれる姿を見止めて、その名前を大声で叫んで、すぐにでもその場から引っ張り出してやりたくなる。 実際、俺が彼の名前を呼べば彼は絶対に振り向いた。ケンカが始まりそうな時、真っ最中、終わってしまった後でも。 毎回毎回、その場にピンピンして立っているのはいつだってこの、俺に手を握られながらしゅんとしている彼だけで、ケンカを売った相手は悉く負かされているのも知ってる。 白い頬に似つかわしくない真っ赤な返り血をつけて振り返る彼を見てひゅっと喉を鳴らした野次馬も、遅れてやって来た先生達でさえ怯えているのも分かる。 だけどやっぱり、俺はこいつが心配で駆けつけてしまう。 「はぁ…。とりあえず保健室、いや先に手とか顔を洗わないとかな」 「あきと、来てくれた」 「誰のせいだよ、バカ」 「うん、ゴメンね。うれしい」 ふと微笑む顔は本から飛び出してきた王子様みたいだが、頬に返り血がついている王子様なんて嫌だ。お顔が整っているだけに尚更何か、うん。 俺の背後できゃあという声が聞こえるが、それが黄色い歓声ってやつなのかそれとも全く別のものなのかは分からないのでとりあえず無視で。 どれだけ騒がれても彼は気にも留めない。今日だって、こんなに人に囲まれてあれこれ噂されたり先生達が困ったような顔で見てきたりしているのにこいつと来たらたった一点しか見ていない。 その視線を誤魔化すようにして手を引いて歩き出した。そしたら周りを取り囲んでいた見物人達がおもしろいくらいに道を開ける。その視線は好奇や恐怖や忌避なんかに満ちていて、全然おもしろいもんじゃなかったんだけど。 その喧騒の中でさえ彼は平然として俺の隣を歩いていた。頬の赤は、ハンカチを差し出したけれど「汚れるから」と断られてしまって、結局乱暴に制服の袖で拭うもんだから彼の制服が汚れてしまった。俺のハンカチなんて別に気にしなくていいのに。 それにしてもマジで飄々としてるように見えるなぁ。ふと、いつかクラスメイトが言っていたことを思い出す。 まるで…。まるで、彼の耳は俺の声しか拾わないみたいだと。 いやいや、そんなことあるかい。
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