いつか解凍される痕跡

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 ぼやけて、感覚は研ぎ澄まされた。  流れていたクラシック音楽も、有象無象の笑い声も、話し声も、聴こえなくなった。精神が身体から乖離してしまったかのような、一瞬の浮遊感。口の中に残っていたワインの甘さだけが妙に印象に残っている。  自分の感情が人よりも動きにくいのだと理解したのは、いつだっただろうか。  大げさに笑い、泣き、驚く人間に囲まれていることが、昔は不気味で仕方がなかった。そのうち、大半の人々の目に不気味に映るのは、むしろ僕の方だろうと考えを改めた。  かと言って、それによって苦労の多い人生を送ってきたというわけでもない。擬態する方法さえ理解してしまえば、何も問題はなかったからだ。ただその場で求められる表情、行動をしてみせればいい。人間は他の人間の内面を知りたがり、表情筋の伸縮、眼球の動き、手の動き、口から出る言葉、そんな表面的な情報が与えられるだけで安心する。それらの身体的な操作は感情の操作よりもずっと易しいから、簡単に欺くことができるというのに。そのような不確かな情報に頼ってまで、人間は他人の内面を知った気になりたいのだ。  したがって、僕にとって感情は、単なる道具だった。相手を安心させるために、偽装する物だった。  それなのに。  僕は彼女を見た時、確かに心を動かされてしまったのだ。  意思に反して呼吸が止まり、全ての器官が彼女を捉えようと必死に働きだした。  初めての感覚。  きっと、嘘偽りのない、──だった。
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