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下見? 美術品を見るのに、下見も何もあるものか。つまり、単に鑑賞する以外の目的があったということだろう。
「今日は楽しかった。それと、この前は、身体を張って私を守ろうとしてくれてありがとう。嬉しかった。だから、警察に突き出すのは勘弁してあげる。さようなら」
待て、さっき彼女は何と言った?
「そういえば、麻倉も本当の名前じゃないのよね?」
彼女は言っていた。
盗む?
彼女は美しい。
彼女は。
白い指がつまむ鍵。
つまり、
吸い込まれそうな瞳。
盗みの下見。
まさか!
「霞さん!」
僕が彼女の名前を読んだとき、彼女の姿はすでに無かった。なんて素早い。僕の方を向かずに会話を続けていたのは、人の流れや建物の位置を確認しながら、脳内で経路を組み立てていたからなのだろう。
遊園地の中に一人取り残された僕は、どこか充実した気持ちで立ち尽くしている。
涙が出たのは、多分、生まれて初めてのことだ。
きっと、嘘偽りのない、感動だった。
彼女を探す気にはなれなかった。もう、追いつくのは困難だろう。そう考えながら、僕の思考が冷静な状態に戻っていることを自覚する。
そして今、混沌とした思考の外側で鼓膜を震わせていたメロディ、すなわち彼女が最後に発した声が、ようやく言葉の輪郭を持って浮かび上がってきた。
「少しショックを受けると思うわ。どうか落ち込みすぎないでくださいね」
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