コロナになったら三途の川的なものを見た

1/1
前へ
/2ページ
次へ
体温計が39.6℃を示した。 熱いはずの体が震え、寒気が止まらない。 朦朧とする意識の中、体温計をケースに戻そうと手を延ばした。が、それが出来たかどうかの記憶はない。 いつの間にか意識を手放していた。 沼に沈んでいくように。 魂を吸い取られるように。 気がつけば、いつものベットの上だった。 昨日、新型コロナウイルス陽性になった私と二歳の次女、そして生後十ヶ月の三女は、二階の寝室で隔離生活を送っていた。 しかし目を覚ますと、そこに娘達の姿はなかった。 オモチャで散らかっていたはずのベットは片付き、飲みかけのスポーツドリンクも、食べ終えたご飯の食器もない。全てが、始めから誰もいなかったかのように整っていた。  そんな状況にもかかわらず、私はやけに冷静だった。右手にある窓から陽光が入り、その白んだ光から、お昼頃だろう、などと考えていた。 ベットから起きると、不思議な程に体が軽い。隔離生活の事など気にも止めず、私は寝室の扉を開け、一階に繋がる階段まで歩く。 その廊下も階段も、家の中全てが白い陽光に包まれ、淡い光を放つようだった。 階段を降り、一階のリビングに繋がる扉を開ける。 ー誰もいないー。 リビングから真直ぐ繋がるキッチンを見ても、やはり誰もいなかった。 ただ、壁も作業台も真っ白なキッチンの中に、真っ赤なりんごが一つ、作業台の上に置かれていた。そこには窓がないにも関わらず、白い光に包まれていた。 ーりんごのプリンでも作ろうかー なぜそう思ったのか、私は包丁を持つ。そして、りんごをイチョウ切りにし始めたかと思うと、あっという間にプリンの生地を作りあげた。後はオーブンで焼くだけだ。 鉄板に流したプリン生地に、イチョウ切りにしたリンゴを浮かべ、オーブンをセットした。オーブンの中がオレンジ色に光り、暫くすると、焼けた事を知らせる機械音が鳴る。 オーブンの扉を開けると、白い湯気が立ち昇った。蒸し焼きにされた卵色のプリン。それが入っているはずのオーブンを覗き込み、私は初めて、慌てた様子を見せた。 鉄板からプリンが溢れていたのだ。 ー早く、片付けなきゃー。 こぼれたプリンを集め、慌てて掃除を始める。夫が戻る前に綺麗にしなければ、一階に降りて来たことがばれてしまう。 そう思い、急いで掃除をしていると、リビングから窓を叩かれる音がした。 ーコンコンッー 音の方を振り返り、驚愕した。度肝を抜かれるとは、正にこの事だろう。 そこには、キリンがいたのだ。黄色い体に、独特の茶色模様を持つ、あのキリンだ。 リビングの窓からは、キリンの足が四本と、大きな体から降ろされた長い首だけが見えた。 ー何故、我が家の庭にキリンがー。 そんな思いで窓から外を見ると、キリンだけではなく、ゾウやウマ、更にはライオン…その他私の知らない動物達が、サバンナのように賑わっていた。驚いて私も庭に出ると、目の前小高い丘があった。まるで草原のような、何処までも広がるなだらかな丘だった。私は、誘われるようにその丘を登った。 あと三歩程で頂上に着こうかという時、丘の向こう側が見えた。 その景色を見て、私は息を飲んだ。 ーなんて、美しいー 丘の向こう側には、広大な湖が広がっていた。穏やかで、美しく輝やく湖だった。 空は朝日の様な白い光と、夕日の様な赤い光、更には見たことも無い五色の光で輝き、美しく混ざりあっていた。 これが、彩雲というものなのだろう。 その空を、真白い鳥達が飛び交う。白鳥だろうか。 湖がその空を映し、その上を水鳥が泳ぐ。水面一つ揺らすことなく。美しく、優雅に。 その様子に見とれ、丘の峠を越えようと歩を進めた。 その時だった。 私の眼の前に、馬に乗った男性が現れたのだ。見たことのないその人を、私は何故か父だと思った。 その父の様な男性に行く手を塞がれ、私はそれ以上、丘を登ることが出来なかった。 ーここはどこ?なんでこんな所にー。 私はいるの。という問いに、男性は笑って答える。 ーお前の家の裏じゃないかー。 ほら、と私の後ろを指差した。 そちらを振り返ると、確かに私の家の裏庭が見える。 ー家に帰らなくて良いのか?ー そう男性に問われ、さっきまでオーブンの掃除をしていた事を思い出した。 ーそうだ、夫が帰ってくる前にオーブンを片付けないとー。 慌てて丘を下り、自宅へ向かった。 しかし、辿り着いたのは自宅ではなかった。私は、白く広い建物の中にいた。 大学病院の様な、飾り気のない施設。目の前には、細く白い廊下が続いている。 左手には、やはり白い、登りの階段があった。それを見上げたその時、 ー○○○さんー。 突然、誰かに名前を呼ばれた。 振り返ると、以前に一ヶ月だけ、一緒に仕事をした女性が立っていた。あれは入社したばかりの頃だったから、もう十年以上会っていない。名前は何と言っただろうか。 ーご出産、おめでとうございます。一人目ですかー? 唐突な彼女の問いに、私は当たり前の様に答える。 ーありがとうございます。三人目ですー。 そうですか、そう言った彼女と二、三言話したところで、今度は若く美しい女性が三人、舞うようにやって来た。私が全く知らない女性達だった。 知り合いの女性は、今の職場の人だ、と私に説明した後、三人に急かされて白い階段を登って行った。 あぁ、この階段を登るのか、と、私も階段の手すりに手を掛けた。 その時だったー。 「ああぁぁぁーー!!」 突然の三女の夜泣きに、私は飛び起きた。 正確には、飛び起きたつもりだった。 しかし、実際には指の一本も動いていない。体は、ベットに重く沈んだままだ。 瞼を開けるだけで精一杯で、起き上がるどころか首を動かすだけで目眩がする。 いつものベットに横になった私の体は、かつてない程熱く、汗をビッショリとかいていた。 右側からは、次女の寝息が聞こえる。 私と同様に、新型コロナ陽性だったが、無症状の為に寝苦しくは無さそうだ。 そして、左側では三女が大泣きしている。 普段は殆ど夜泣きのない三女が、ここまで大泣きすることも珍しい。しかも、今の三女は熱のせいで弱々しく声を出せる程度だったはずだが。 とにかく、三女の泣き叫ぶ声で意識を取り戻した私は、スマートフォンを手に取り、一階で寝ている夫に電話を掛けた。 ー出ないー。 チクショウ、寝てやがる。こっちは40℃の熱で苦しんでいるというのに。 夫への怒りで更に意識を取り戻し、必死でベットから降りて解熱剤を飲む。 三女は、ミルクを飲ませるとすぐに落ち着き、眠った。 私もまた、ベットに戻り布団を掛ける。 解熱剤が効きはじめ、体が楽になっていく。 フワフワとした感覚の中、今度は自分が眠りにつく瞬間を感じながら、目を閉じた。 もし、あの草原の丘で峠を越えていたら。 あの湖の美しさに惹かれ、向こう側へ行っていたら。 もし、あの白い階段を登っていたら。 どうなったのだろう。 まぁ、全ては夢の話。私の妄想。 それでも、あの不可思議な世界は、今でもハッキリと私の脳裏に焼き付いて離れない。 またあの美しい湖を見られるなら、少しくらい苦しんでも良いかもと思う程に。 もう少し生きたら、それも悪くない。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加