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孝之はそれから夜通しで夜逃げをする準備をした。かねてから買ってあったキャリーケースに必要な機器や衣類などを入れた。そして、夜遅くに支度を終えた。これで準備はできた。
と、電話が鳴った。父からだろうか? それとも星七からだろうか? 孝之は受話器を取った。
「おはよう」
星七だ。孝之はほっとした。星七の声を聞くたびに、ほっとする。
「あっ、おはよう」
「衣類など、持っていくものは私の家に送って。家については、私の家に住めばいいから」
星七は東京に着いてからの事を考えているようだ。これで東京に着いてからも安心だ。
「ありがとう」
電話が切れた。孝之は時計を見た。もう昼下がりだ。そろそろ家を出よう。夜7時に夜行バスは出発だ。それまでどこかで暇つぶしをして、この街での思い出を振り替えよう。
午後6時半、孝之は駅前にやって来た。それまで居酒屋で飲んでいて、少し酔っている。すでに荷物は宅急便で星七の家に送っている。
午後7時に東京行きの夜行バスは出発だ。この山陰からお別れだ。もう帰る事はないだろう。僕は明日から新しい人生のスタートを切るんだ。小説家としての新しい人生が始まるんだ。
発車10分前になって、夜行バスがやって来た。夜行バスはここ始発で、誰も乗っていない。ここから乗る人はそこそこいる。
孝之は少し戸惑いつつ、バスに乗った。もう山陰の地を踏む事はないだろう。このバスに乗った瞬間、山陰の地から離れた。車内はまだ明るい。乗客はまばらで、静かだ。
午後7時、夜行バスは東京に向かって出発した。孝之は車窓から山陰の夜景を見ている。
「さよなら」
夜行バスは東へ向かっていく。その先には東京がある。東京には夢がある。小説家として成功して、東京で生きていく。もう迷う事はない。必ず成功して、巨額の富を得てやる!
東京へ向かう間、孝之は故郷の事を思い出した。もう思い出したくないのに。いまだに夢に出てくる。忘れたいのに忘れられないのはどうしてだろう。故郷を忘れる事は出来ないんだろうか?
いつの間にか、孝之は目を閉じた。目を閉じると、今までの辛い日々が蘇る。だけど、もう振り返りたくない。辛い思い出を忘れるために、東京に向かい、神山夢志亜として生きるんだ。
孝之が目を開けると、バスは高速道路を走っている。車窓からは家屋が見える。山陰より多くの家屋だ。だんだん都会に近づいてきたんだ。そう思うと、次第に興奮してくる。
朝7時過ぎ、夜行バスは東京駅に着いた。ここが夢に見た東京なのか。ビルの高さが違う。駅の大きさが違う。これが都会なんだ。孝之はしばらく見とれた。
「着いた」
と、すぐにクラクションが鳴った。そこには赤い軽自動車がある。星七の車だ。窓が開き、星七が顔を出した。
「夢志亜さん!」
「あっ、星七さん!」
孝之は手を振った。ここで会って、そこから星七の家まで向かう予定だ。
孝之は星七の車に乗った。星七はすぐに車を走らせた。孝之はほっとした。これで両親から逃げる事ができた。そして、今までの自分の過去を消す事ができた。これでもう迷いはない。これからは小説家として生きよう。
「大丈夫だった?」
「うん」
孝之は笑みを浮かべた。これからは星七と共に歩もう。そして、幸せな人生を送ろう。
「早く行こう!」
「ああ」
この日から、孝之はこれまでの過去を捨て、神山夢志亜という1人の小説家として生きてきた。それから、故郷を思い出した事はない。そこには、振り返りたくない過去があるから。
だが、その時は突然やって来た。母が亡くなったからだ。父が亡くなったのを全く知らなかった。その時は母が喪主をしていたからだろう。だが、母も亡くなり、喪主を任されるようになって、久々に故郷に帰ってきた。本当は帰りたくなかったのに。
武志はその話を聞いて、涙が出そうになった。親不孝だけど、自分の夢のためなら、本当によかったんだろうか?
「そういう事だったのか」
「うん」
だが、孝之は下を向いていない。今の自分は辛い過去を捨てた小説家だ。今の生活がずっといい。いじめられっ子でいるより、多くの人に支持されている。これほど嬉しい日々はない。
「辛かっただろうな」
と、1人の男がやって来た。かつて孝之をいじめていた勝(まさる)だ。勝はどこか弱々しい表情だ。あの頃とまるで違う人のようだ。
「俺、お前をいじめた事で、色々辛い事を経験したんだよ」
孝之は驚いた。まさか、自分をいじめていた勝だとは。どうやら勝は、孝之をいじめた事で、それから先で様々な苦労をしたようだ。きっとあの時の報いを受けているんだろうな。だから、謝りたいと思っているんだろうな。
「そうなんだ」
「いじめていて、ごめんな」
勝は孝之を抱きしめた。その時、孝之は故郷に戻ってよかったと初めて思った。もういじめっ子はいない。安心して故郷にいれる。
「いいんだよ。悪い事だとわかってくれれば、それでいいんだよ」
勝は涙を流した。今までの過去を許してくれた。それだけでも嬉しい。夜逃げした時、もう許してくれないだろうと思っていた。そして、その時の報いを一生背負って生きていかなければならないと思った。
「故郷に戻らないのかい?」
「うん。東京で小説家をしている自分が、今の自分なんだから。今が一番幸せなんだから」
勝は問いかけたが、孝之の決意は固い。
「そっか」
孝之は車に乗った。武志とも勝ともここでお別れだ。寂しいけれど、また東京に戻らなければならない。自分は小説家、神山夢志亜だ。みんなが待っている。
「孝ちゃん、これからも東京で頑張ってね」
「ああ」
孝之は車を走らせた。武志と勝はその様子をじっと見ている。もう孝之が故郷に来ることはないだろう。だけど、心の中にはいつもいる。寂しい時は、思い出の中で再会しよう。
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